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イリオンの矢  作者: 民間人。
ヘレネー誘拐
24/99

トロイア王家の開戦準備

 トロイアへの宣戦布告は成された。プリアモス王は急ぎ王宮中の従者を招集し、今度はパリスも当事者として出席させて、戦争の支度を急ぐように告げた。

 物々しい雰囲気の中、玉座に座る王は、輝く兜を被ったヘクトールを隣に侍らせ、威厳に満ちた振る舞いで大音声を上げて言う。


「王子と従者らよ、このたびトロイアは、王子アレクサンドロスの妻ヘレネーを守るために、脛当て美々しきアカイア勢の軍隊を迎え撃つことに決めた。旅程を鑑みればすぐにというわけではないが、近く戦争が起こることは避けられないであろう。女神アフロディーテの寵愛を受けた二人の婚礼に、何の不足があろうか。お前たちは早速戦に備えて盾と鎧を手入れし、イリオンの勇士らを集めるのだ」


 驚いたのは王子たちである。穏やかで平和好きなプリアモス王が、アレクサンドロス王子の為に敵を迎え撃つなどというのだから、俄かには信じがたい。そこで、まずは王の正気を確かめるべく、デーイポボスが率先して尋ねて言う。


「ちょっと待ってくれよ、父君。頭に血が上ったのかも知れないが、父君らしくもない。辛抱強い交渉や熟慮はちゃんとしたのか?冷静になって答えてくれよ」


 デーイポボスの疑念はもっともなことだったので、プリアモスも冷静に頷いて答える。


「そうだな。しかし熟慮のうえだ。何せ、熟慮し、相手方の主張が全くおかしいのだと理解したのだからな。誘拐したなどというが、どちらが先に誘拐したというのか。全く不愉快極まりない」


 プリアモスの昔語りを聞いたことがある王子ならば、それに対して、とても反論は出来そうになかった。ヘクトールは槍の柄を地面に突き立て、矛先を天に向けて、抗戦の構えを示した。彼の盾は幾層かに革貼りした青銅の盾で、デーイポボスとの模擬戦の時よりも頑丈なものを用いていた。デーイポボスはそれに気づくと、覚悟を決めて王に言う。


「父君がそう言う以上、仕方ないことだな。パリス、お前の責任で起こったのだから、お前も戦ってもらうからな」


「・・・分かってる」


 パリスは真剣な面持ちで言った。拳はぶるぶると震え、今にも消え入りそうな怯えた声であったが、デーイポボスは覚悟を感じ取って煽り立てるのをやめた。

 一方で、輝く兜のヘクトールは、パリスの緊張をほぐすために、彼に近づき、肩を叩いた。


「良く勇気を出した。気負わずとも良い。皆、お前の味方だ。覚悟を決めてくれたならば、デーイポボスもそうだ。頼りになるぞ、俺の愛弟子は」


 ヘクトールがおどけて言うので、デーイポボスが怒号を入れる。ヘクトールは動じずに、愉快そうに笑って持ち場に戻った。


 その場に居合わせたアイネイアースもまた、拳を鳴らして意気込んだ。彼は武器こそ持っていなかったが、その場にあった石像を軽々と持ち上げ、その勇姿を示して言う。


「戦とあれば私も負けるわけにはいきません。ヘクトール王子と肩を並べられるのは、トロイア中探しても私くらいしかいないでしょうからね」


 プリアモスの子ヘレノスは、予言の力を持つ双子のカサンドラーと並んで、アポローンより予言の力を賜ったのであるが、この戦の結末に思いを馳せつつ、小声でこのように呟いた。


「そうであれば、運命の選択肢を増やすべく、私はアポローン様に相談を試みよう・・・」


 一方、デーイポボスはヘクトールにこう告げて、ヘクトールも快諾して言う。


「兄君、あとで鍛錬をよろしくお願いします」

「勿論だ!パリスもどうだ?羊飼いだから武器の扱いは馴れないだろう?少し、付き合ってみないか?」

「よ、よろしくお願いします」


 パリスは緊張した様子で頭を下げた。ヘクトールは二人を励まして快活に笑い、食事の後で修練場へと向かうことに決めた。


 プリアモス王は王子の士気の高さに満足し、彼らに豪華な食事を振舞うと、自らは交渉の下準備として、伝令使を見繕うために町へと降りて行った。



 食事を終え、早速ヘクトールらと共に鍛錬を始めたパリスであったが、単なる羊飼いに、神の恩寵もなく勇士らと肩を並べることなどできるはずもなく、デーイポボスの構えた盾、木製の槍の矛先を見るなり、両手で掴んだままの槍を震わせて取り落としてしまった。


怪訝そうに眉を顰めるデーイポボスに、手の震えが止まらないパリスは慌てて待ったをかけると、取り落とした槍を両手で持ち上げる。

しかしながら、手の震えは止まらず、盾を構えるのも覚束ない様子であった。


「競技大会の時はもうちょっとできただろうがよ・・・」


 デーイポボスは呆れながら構えを解く。前で構えた盾はだらんとした腕に持ったまま、槍を持つ手もだらんと無防備に下ろした。

途端、パリスは必死の形相で、両手で掴んだ槍でデーイポボスを突いた。


「あっぶね!?」


 デーイポボスはすんでのところで身をかわし、突っ込んでくるパリスの首根っこを掴み上げた。

「ひぇぇ!?」

 と、情けない声を上げるパリスを、怒りに任せて地面に放り投げると、パリスの持った槍は地上で踊るように回転し、滑ってデーイポボスの足元に跳ね返った。

 このような体たらくだったので、デーイポボスは呆れかえって言う。


「お前さぁ・・・。名誉とかそう言うのないわけ?」

「だってぇ・・・!」


 パリスは目にいっぱいの涙を溜めて訴えるが、どの態度も不名誉極まりないものである。もう一人の王子にとって、パリスの在り方はあまりにも惨めに見えた。


 二人の様子を冷静に眺めていたヘクトールは、パリスに手を差し出して立ち上がらせ、呆れた様子のデーイポボスの肩を叩いて労った。そして、ヘクトールは槍代わりの長い棍を持ち上げると、パリスによく見えるように、両手での武器の構え方を示した。


「仲間の半身を守るためにも、槍は片手で使うものだが、自分を守るために使うのならば、敵の攻撃を受け流す構えをするべきだろうな。実用的ではないかもしれないが・・・」


 ヘクトールは棍を体の手前で、地面に突き立てるように構える。横に倒せば両隣の味方への攻撃を牽制でき、そのまま縦に構え、柄を肩に置けば、敵の喉元に棍の先を突き付けることができる。突き付ければ敵の喉に打撃を与えることができるほか、持ち上げれば顎に打撃を加えることも出来る。


 パリスは見よう見まねでそれを試すが、素早く槍を動かすことが不得手なことは明らかに思えた。

 ヘクトールやデーイポボスが指南をする前に、パリス自身が武器を下ろして項垂れてしまう。ヘクトールは悩んだ末、棍を下ろして言う。


「少し待っていてくれ。準備をしてくる」


 ヘクトールは凄まじい速度でその場を立ち去ると、弓矢を二つ握って戻ってくる。デーイポボスは呆気に取られて、兄を諫めて言う。


「いやいや、弓矢は戦士の武器じゃないでしょう?兄君、いくら何でもパリスを甘やかしすぎでは?」

「そもそも、パリスは戦士に不向きなのかもしれない。獣の扱いに慣れているならば、案外狩人の素質はあるかもしれないぞ?」


 ヘクトールはにこやかに笑い、弟の批判に答えた。そして、パリスに弓矢を渡すと、自らも弦の張る弓を持って見せる。


「鼻を近づけるとケガをするからな、気を付けて弦を引くのだぞ」


 兄は浮かれた様子で弓を構える。矢筈を弦に乗せ、獣の髭でできた弦を大きく引き絞る。一瞬動きを止め、矢を放つと、矢は真っすぐに飛び、的代わりの板の中心に的中した。


「おぉ・・・!」


 デーイポボスも思わず声を上げる。ヘクトールは見よう見まねで構えるパリスの体制を手ずから整える。少し油断すれば顔に弦が当たりそうなほど体を近づけ、懸命に理想的な方に近づけていく。パリスの腕がたまらずに震えだすと、ヘクトールは急いで距離を取り、「射ってみろ!」と声を掛ける。パリスは目を瞑り、思い切り引いた弦を離した。


 矢は真っすぐに飛び、板の端に当たって跳ね返る。項垂れるパリスに、ヘクトールは拍手喝さいを送った。


「始めて武器を扱うのに、板に掠れるのは凄いことだぞ!ほら、今度は一人で射ってみろ!」


 パリスは深呼吸をし、一本の矢が突き立った板を狙う。覚束ない様子で弓を構え、板に突き立った矢を視界の中心において、矢を放った。すると、今度は板の右端辺りに矢が刺さり、ヘクトールは大きな拍手を送った。


「いいぞ、弓矢はいけそうだな!」

「一騎打ちは出来そうにないな・・・」


「アポローン様のご加護か、アルテミス様のご加護かもしれない。いずれにしても得難く有難い神の恩寵だ。パリス、素晴らしいぞ!」


 冷静なデーイポボスに対して、ヘクトールは大層楽しそうにパリスを囃し立てる。パリスは耳を赤くしながらはにかみがちに笑い、もう一度突き刺さった矢を取りに戻った。

 パリスは、夜になるまでの長い鍛錬を、ヘクトールの幇助を受けてこなした。こうして、日暮れの頃には、王子は正確に的を射抜くことができるほどの、目覚ましい成長を遂げた。

 もっとも、これはパリスの才覚というよりは、ヘクトールの非凡な才覚に助けられたことは想像に難くない。神々の恩寵めでたきパリスと、純然たる人の子でありながら優れた武術を体得するヘクトールは、このようにして互いの絆を深めていったのである。

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