アフロディーテの怒り
オリュンポスの峰より見晴るかす神ゼウスの神慮とはいえ、運命は残酷にもイリオンに滅びの道を示した。滅びを齎す災いの王子アレクサンドロスのその目は、愚かしくも神々ではなく二人の勇士を見ていた。
女神よ、僅かに時を戻し、王子アレクサンドロスがイリオンに滅びを齎すまでの経緯を、王子パリスの感情の動きに準えて、隅々までを、我に語らせたまえ。
滅びの予言を見たという王妃、デュマースの子ヘカベーは、腹を痛めて産んだ燃え落ちる樹の身を案じ、ヘクトールからギリシャの使節が来たと知らせを受けたプリアモス王に事の次第を伝えた。
「あなた、この会合にアレクサンドロスを参加させるのは危険です。燃え落ちる樹なのですもの。ここは賢いヘクトールとお二人で、おもてなしになっては?」
「お前の言う通りだ、ヘカベー。今回はアレクサンドロスを会合に参加させぬようにしよう。私は歓迎の支度があるから、お前が伝えてはくれまいか?」
「わかりました。あなた、くれぐれも、彼らを怒らせることの無いようになさってね」
このように語らった両親は、それぞれが我が子の所へと赴いた。父はトロイア髄一の勇士ヘクトールの元へ、母はプリアモス王の寵愛を受ける王子アレクサンドロスの元へと。
その時パリスは、事実も知らずにヘレネーと花々を眺めていた。イーデーの山に住んでいたパリスは、薬学を修める前妻・オイノーネーの影響もあり、草花には大層詳しかった。
物珍しい花々を、ヘレネーはとても喜んで眺めた。故郷の地にはない花も多く、彼女にとっては刺激的な体験であっただろう。
幸福に浸る二人の元に訪れたヘカベーは、初々しく戯れる二人の姿に心を掴まれ、暫くの間、その場で逡巡する。
いくら災いの子とは言え、パリスもまたヘカベーの子である。彼女は可愛い我が子に滅びの予兆を報せることをやめようかと考えた。
パリスも、ヘレネーも、ヘカベーには気づかない。それ程に愛し合い、夢中で美しい花を眺めているのだ。
肩を寄せ合い、滑らかな花弁に触れ、葉を食む虫に驚いて怯える息子の姿を、母はじっと見つめていた。
暫くして、じゃれ合う二人の視界に、ヘカベーの姿が映った。パリスは耳を真っ赤に染めて、誤魔化して笑いながら言う。
「あ、母君。何か御用ですか?」
ヘカベーは言葉を詰まらせ、応答をしなかった。パリスはそれを、喉の調子が悪いのではないかと案じ、このように提案して言う。
「そうだ、水を持ってまいりましょう。喉が潤えば、舌の貼りつく不快感も解消されますよ」
「いえ、結構・・・」
言い切る前に、パリスは動き出してしまう。母はパリスを止めようと試みたが、心優しいヘレネーが姑を労わって座らせてしまう。パリスは駆け足で、水瓶のある場所へと向かった。
その道中には、運悪くプリアモス王とヘクトール、オデュッセウスとパラメーデスの姿があった。一目見てギリシャ人が訪れていると知るや否や、パリスは足を止めて、彼らの会合に聞き耳を立てた。
『・・・ヘレネー妃の愛などどうでもよい。大体パリスはメネラーオス王からヘレネーを奪ったではないか。それを愛だのなんだのと言って、そちらにも義があると申されるのは、あまりに盗人猛々しいではないか。斯様な交渉は不要だ。王は断固として、ヘレネーの完全な返還を求めている』
パラメーデスが額に青筋を浮かべて捲し立てるのを聞き、パリスは沸々と沸き立つ怒りを抑えきれなかった。
というのも、イタカの王オデュッセウスの言葉に、囁きかける君アフロディーテはお怒りになったのである。戦女神のアテーナーや神々の女王ヘーラーが、アフロディーテの神格よりも優れた神格をお持ちであるかのように公言するのは、女神には許し難く思われた。そこで、アフロディーテは一計を案じられ、オデュッセウスの試みる和平の提案を白紙にし、この英雄に艱難辛苦を齎すことを思いつかれた。
パリスは女神にとっては御しやすく、また素直な男であったので、ことは先述の通りに容易く進んだ。女神はパリスに怒りを吹き込まれるだけでよい。
パリスは彼自身想像もつかないほどの行動力で、会合の場に躍り出て、彼らに断固たる態度を取った。パラメーデスの思惑通りに、ことが進んだのである。
会合が決裂すると、パラメーデスは勝ち誇ってイリオンの王族たちを煽り立て、城を後にした。オデュッセウスはプリアモス王に翌日再度会合をしようと提案したが、プリアモス王は取り合わなかった。勿論、王が怒ったのはパラメーデスに対してであったが。
場を乱したパリスはすぐにヘレネーの元へと戻る。ヘカベーと隣り合うヘレネーの姿を認めると、彼はその横に座り、しっかりと彼女の手を握った。
「パリス?どうしたのですか?」
「何でもないよ」
パリスがあまりに真剣な眼差しをして言うので、ヘレネーはすぐに良からぬことが起きたのだと察した。ヘカベーも同じく、パリスを掴んででも止められなかったことを大層悔やんだ。




