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イリオンの矢  作者: 民間人。
ヘレネー誘拐
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イタカの王は悲しみに沈んだ

 さて、城へと案内されたころには、オデュッセウスは宥和の為に準備を整えていた。一方、パラメーデスはアガメムノンの意思を酌み、交渉は決裂するだろうと身構えていた。

 実に苦々しいことだが、神意を撥ね退けることなど人には出来ずに、この予想はパラメーデスに軍配が上がるのである。


 老プリアモス王はオデュッセウスとパラメーデスを迎え入れると、まずは友好のしるしにと馳走を振舞った。町にある豊かな果物や、砂埃の多い長旅を労わるための清い水、調子のよい時にはすこぶる体に良い葡萄酒など、この上なく上質な歓迎である。

 まずはこの歓迎に、オデュッセウスは驚かされる。そして、ヘクトールは王に対して友好的に二人を紹介すると、王は素直にそれを真に受けて言う。


「ようこそおいで下さいました。このような年老いた姿ですが、私がイリオンの王、プリアモスという者です。若く美しい勇士達よ、あなた方のことを聞かせて下さい」

「ご歓待ありがとう。私は、イタカの王オデュッセウスと申します。我が子や妻の為にも、この度の交渉は穏便に済ませたいと思っております」

「私は、ナウプリオスの子パラメーデス。あなた達の非礼に対して、最後通牒を告げるために参った者です」


 パラメーデスの刺々しい態度に、プリアモス王の笑顔が消えた。アカイア人に対して良からぬ思いを抱く老王は、それでも炉を囲んで座るように、二人の勇士と我が子に求めた。


 アカイア人は友好的なイリオンの王族たちの勧めに応じ、良く焼けた羊の臓物を頬張った。神々が好ましく思う程よい弾力の臓物が、彼らにつかの間の幸福感を齎す。そして、果物を一口齧り、さらに一匙ばかりの酒を飲むと、オデュッセウスは意を決して語り出した。


「それで、この度謁見を申し出た理由ですが・・・」


 オデュッセウスは躊躇いがちに眉を顰め、プリアモス王やヘクトールに対して少々申し訳なさそうな振る舞いを見せる。ところが、雪のように滔々と語る、この優し気な交渉を、パラメーデスが雄々しく遮って言う。


「イリオンの王子アレクサンドロスに誘拐されたヘレネー妃を連れ戻しにまいったのです。斯様な屈辱を受けて、メネラーオス王は大変お怒りのご様子だ。また、ギリシャの戦士は一人残らず、名誉ある市民が受けた屈辱に対して報復する準備を整えている。もし応じる気が無いのであれば、イリオンには再び戦禍が齎されるだろう。さもなくば、偉大なるアガメムノン王が率いる、数限りない軍勢がイリオンの町を灰塵へと帰するだろう」


 プリアモスが狼狽える。すかさず、ヘクトールが堂々とした声で答えた。


「ヘレネー妃は自ら選んでイリオンに参られたと思う。メネラーオス王には申し訳ないが、それは私や王の意思とは無関係で、また強制も出来ない。オデュッセウス殿も、この御気持ちは察して頂けると思う」


「その通りです。しかし、状況はあなた達に非常に悪い方へ向かっている。ここは一つ、ヘレネーをお返しいただきたいのです。愛し合う二人を引き裂くのは、女神アフロディーテの喜ぶことではありません。しかし、このまま契約を反故にすることは、プリアモス王よ、あなたが恐れる英雄の恵み主、女神ヘーラーや、私を気にかけて下さる女神アテーナーに対する裏切りとなりましょう。神意のまことに恐ろしいことは、王よ、あなたご自身が身を以て思い知っておられるはずです。このような栄えある都市を守るために、どうか、賢明なご判断を」


 オデュッセウスは身に沁みるような穏やかな語り掛けで、プリアモスへの説得を試みる。神々のめでたい名を挙げつつ、自らの意思と王の意思を尊重する語り掛けは、プリアモス王を大いに唸らせた。

 しんしんと降る雪のように語るイタカの王は、ヘクトールの思惑通りに友好的に絆されていた。対して、イリオンの老王は、愛する子、アレクサンドロスの幸せを思えば、ヘレネーは得難い伴侶であると良く分かっていた。彼のアレクサンドロスへ対する愛情は深く、簡単に断ることは出来そうにない。そこで、老王はヘクトールに目配せをして、何か良案はないかと意見を求めた。


 イリオンの聡明で優れた王子が、王の期待に応えて答えて言う。


「例えば、神々の相反するご意思に沿う形を取るのであれば、先例としてペルセポネーのお話があります。かの美しい女神は、母デメテルの為に、季節の三分の二は天の神々のもとで、残りの三分の一を冥府の王アイデスのもとで過ごすようになったとのこと。パリスも折角望まれて愛を手に入れたのですから、簡単に手放せというのはあまりに酷でしょう。どうか、彼のもとでもヘレネーが愛し合うことの出来るように取り計らっては貰えませんか」


 すかさず、パラメーデスが声を荒げて言う。


「それは出来ない。ヘレネー妃の愛などどうでもよい。大体パリスはメネラーオス王からヘレネーを奪ったではないか。それを愛だのなんだのと言って、そちらにも義があると申されるのは、あまりに盗人猛々しいではないか。斯様な交渉は不要だ。王は断固として、ヘレネーの完全な返還を求めている」


 オデュッセウスが取り繕おうと試みたその瞬間、炉を囲む四人の間に、息を切らせたパリスが割り込んでいく。呆気にとられたイリオンの王族と、怒りに任せるパラメーデス、そして王子アレクサンドロスを見定めるオデュッセウスの視線が、それぞれパリスに集まった。


 パリスは拳を握り、呼吸を整える。僅かに唇が震えているのを、ヘクトールは見抜いた。強く、拳を握りなおしたパリスは、それまでとは比べ物にならない、大音声を上げて言う。


「ヘレネーは、誰かの持ち物じゃありません!お帰り下さい。そして王にお伝えください。パリスは断固として、ヘレネーの意に沿わぬ帰国を認めません!まして『返還』など、もってのほかです!帰って下さい」


 怒りに任せて猛るパリスの怒号は宮殿に良く響き、辺りを静寂に包みこんだ。この恐ろしい滅びの選択を、しかし、天高く飛ぶ鷲の目はしかと捉え、そして、オリュンポスの座におわすゼウスはそれをご覧になって微笑まれた。白い腕の女神ヘーラーは、その隣にいらっしゃったが、癇癪を起して地団太を踏み、オリュンポス山は揺れ動いた。その鳴動は地上にまで届き、ギリシャ一帯が激しく揺るがされる。時に神殿の石柱にひびが入り、時にあばら家は崩れ落ち、畑の肥やしとなった。

 デルフォイの宮におわす輝ける君アポローンも、揺れ動く水面が波打つさまに交渉の決裂を察し、悲しみに沈まれた。


 遥かに見晴るかすゼウスは、まだ戦塵には不足と見て取られ、プリアモス王に向けて怒りを吹き込まれた。プリアモス王も、かつての怒りを思い起こして、パラメーデスに向けて唾を飛ばした。


「あなたの言う通り、ヘレネー妃は誘拐されたのかも知れませんな。しかし、考えてみれば妃を攫ったのは何もこちらが先ではない。ギリシャでも名高き知恵と名声を持つイタカの王オデュッセウスよ、あなたならよく存じておられると思うが、かつてイリオンにあった王子パラメーデスの姉、ヘーシオネーは英雄ヘラクレスの侵略によって攫われたのだ。憐れなヘーシオネーは、この弟パラメーデスを助けたのであったが、結局、この弟を除いて、ヘラクレスにその他の家族諸共、人としての尊厳も奪われてしまったではないか。人でなしのパラメーデスならいざ知らず、含蓄あるオデュッセウス殿には、わしの憎悪が分からぬとは言わせぬぞ。恨み言ならばまずは、ヘーシオネーを返してから言いなされ」


 この時、オデュッセウスは敗北感に苛まれ、パリスと同じ苦しみを抱いた。王子アレクサンドロスが頑なにヘレネーを庇うたびに、彼は後の受難を予感して、妻子のことを思い、悲しむのであった。


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