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イリオンの矢  作者: 民間人。
ヘレネー誘拐
20/99

アカイア軍徴募

 ところで女神よ、イリオンに滅びを齎すアカイアの戦士たちが集うその経過を、ここに語り給え。

 プリアモスの子アレクサンドロスが、ヘレネーや王の子らと親睦を深める間、怒りに狂ったメネラーオスの心が赴くままに、兄であるアガメムノンは勇士らを集めた。もっとも、アガメムノンは白い腕の女神ヘーラーの神意が赴くままに、イリオンに滅びを、また自らに新たな富を齎すべく動いたに過ぎないが。


 さて、アガメムノンは手始めに、テューデウスの子ディオメーデスに参戦を請うた。彼は一つ返事で賛同し、アルゴスの戦士たちはイリオンへ赴くこととなった。

 続いて、ピュロスを治める老ネストールに参戦を請うた。彼は二人の息子と共に参戦することを約束し、その機知に富んだ頭脳は美々しい脛当てのアカイア勢に大いに恃まれた。

 さらにロードス島に赴くと、ヘラクレスの子トレーポレモースに参戦を請う。彼はヘレネー婚姻の際にした誓いを良く心得ており、この度のメネラーオスへ対する辱めを濯ぐために快諾した。

 テラモーンの子大アイアースは、その名に恥じぬ肉体の持ち主であり、メネラーオスとはヘレネーとの見合いの際にその力を振るった。かつては一人の女を巡って争った二人であったが、人情家故にメネラーオスに大いに同情し、参戦を約束した。


 上述の通り、アガメムノンの呼びかけに、直ぐに賛同する者もあれば、そうでない者もあった。

 例えば、ラーエルテースの子オデュッセウスは‐‐世にも名高き機略縦横のオデュッセウスであるが‐‐、彼はこの戦争に遠征すれば、長く故郷へ戻れないことを承知していた。そこで、彼は一計を案じ、訪問したメネラーオスとアガメムノンの一行に、このような醜態をさらして見せた。


 畑に種の代わりに塩をまき、馬と牛にくびきをつけて、鋤を牽かせていたのである。

 牛は余裕綽々としてのんびりと鋤を牽くのだが、馬は首を絞められて苦しみ、牛に鋤を引き摺られるたびに呻き声を上げた。馬があまりに苦しみ立ち止まるので、牛も強引に鋤を牽こうと試み、馬の苦しみは神々が同情するほどであった。


 その醜態を見たアガメムノンは、唖然として弟に言う。


「これはどうしたことか。オデュッセウスとは、機知に富んだ男と思っておったが・・・」


 メネラーオスもこれに応じて、兄に耳打ちをする。


「私もそのように認識しております。私自身、その恩恵を受けた男ですからね。これは一体どうしたことか・・・」


 とは言え、オデュッセウスの奇行を目の当たりにしては、とても遠征に呼べるような状態ではなかった。二人はオデュッセウスに参戦を請うことを諦めて、立ち去ろうとする。

 ところが、一行の中でも特に機知に富んだ、ナウプリオスの子パラメーデスが、オデュッセウスの醜態をまじまじと見つめながら言う。


「お待ちください。『正気かどうか』は正気を試してから判断するべきかと存じます」


 パラメーデスはそう言うと、踵を返してオデュッセウスの質素な屋敷へと戻った。アガメムノンやメネラーオスの屋敷、宮殿とは比べるべくもない、小さく纏まりのある屋敷には、オデュッセウスの妻ペーネロペーとその子が待っている。パラメーデスは二人にオデュッセウスの様子を見に行ったことを伝えるように装って言う。


「確かにご婦人がおっしゃる通りに、勇士オデュッセウスは畑を耕しておりました。少々元気は無さそうでしたが、どういたしましょう。元気つけるために可愛い御子の顔を見せてあげるというのは」


 妻はこの提案に賛同し、パラメーデスはオデュッセウスの元に赤子を伴って降っていった。

 相変わらず、オデュッセウスは畑を耕し、畝に塩を蒔いている。パラメーデスからの報告を受けたアガメムノンは、やはり諦めてパラメーデスに向けて言う。


「妻に醜態をさらしても平気だということは、やはり正気とは言えないではないか。仕方ない、別の者に参戦を請うとしよう」


 その時、オデュッセウスが微笑みを隠すのを、パラメーデスは見逃さなかった。パラメーデスはオデュッセウスの子供を鋤の刃の前へと置いた。牛は悠然と鋤を牽いて迫り、馬は荒れ狂いながら赤子を轢き殺そうとする。オデュッセウスは慌てて鋤を捨て、可愛い我が子を抱き上げて畑から救い出した。


 それを見て、パラメーデスはほくそ笑んで言う。


「オデュッセウス殿ほどの勇士がどうして臆病風に吹かれたのか。まさか家族円満を守るためなどと、女々しいことは申すまい」


 オデュッセウスはパラメーデスを憎々し気に睨んだが、偉大なアガメムノン王の前で企みが崩れては、最早断ることは出来なかった。


「ようこそおいで下さいました。どうぞ、館へご案内いたしましょう」


 オデュッセウスは可愛い我が子を抱き上げ、暗い表情でこのように述べた。アガメムノンは途端に上機嫌となり、パラメーデスを褒めそやして言う。


「でかしたぞ、パラメーデス!お前の機転の良さは戦場でも頼りになるだろう!」


 我が子を手に掛けようとした男を褒めそやす言葉を、傍らで聞いたオデュッセウスの心境は推して知るべしである。館に帰ると、妻も悲しみに沈み、幼い我が子を抱きながら咽び泣いた。

 パラメーデスはというと、アガメムノンが褒めるのを、内心では疎ましく思っていた。何せ、彼はオデュッセウスの計略を見抜いたほどの男である。オデュッセウスの内心を慮れぬはずもない。内心ではアガメムノンにやめてくれとせがんだが、この王は周りがまるで見えていないのである。


 屋敷に戻り、パラメーデスと席を共にしたオデュッセウスは、アガメムノンが参戦を請うていることを、改めて、聞かされることとなった。良く片付いた部屋には夫婦が夜を共に楽しみながら編んだ刺繍の布があり、パラメーデスもばつが悪くしきりに視線を泳がせた。

 もっともオデュッセウスに同情したのは人生の酸いも甘いも知る老ネストールである。彼はしきりに戦争から話を逸らそうと、ペーネロペーに子供の話を振り、その名前を訊ねて、その子の名を呼んであやした。ネストールに「テーレマコス」と呼ばれたその子は、人の好い老人に気を許して喜んだ。その様を見るにつれ、ネストールはやはりオデュッセウスの出征を思い留まらせたいと思うようになった。


 そこで、老人はオデュッセウスとアガメムノンの会話を遮って言う。


「ところでアガメムノンよ、ヘレネー誘拐の解決は戦争だけではないのではないか。ヘレネーをメネラーオスの元に帰してやれば、ひと先ずは丸く収まるではないか」


 アガメムノンはみるみる不機嫌になって言う。


「何を申されるか、ネストール殿。あなたも臆病風に吹かれたのか。我が弟が辱めを受けたのですよ。その報復がそのような生易しいことでどうするのですか。これほどの屈辱を飲み込んでしまえば、我が一族にとって末代までの恥であるにとどまらず、アカイアの勇士達が軟弱者であると触れ回るようなものですぞ。ネストール殿はそれでよいのか?」


 アガメムノンが捲し立てるのを、ネストールには止めることができない。唾を飛ばして荒々しく猛るアガメムノンを、ネストールに劣らず機知に富んだ同行人、パラメーデスが宥めて言う。


「王よ、ネストール殿の言い分はもっともです。アカイア人の寛大なところを見せるのも、一つの手ではありませんか。ねぇ、オデュッセウス殿もそう思うでしょう?」


 話を振られたオデュッセウスは、この男を憎々しく思いながら、視線を外して答える。


「事を荒立てずに済むのであれば、それが最も喜ばしいことです。何せ、イリオンとアカイアの戦争となれば、両陣営に多大な被害が及ぶことは目に見えていますからね」


「では、お前はどうなのだ!メネラーオス!このような辱めを受けて、お前はどう思うのだ!」


「第一は奪われた妻を取り返すことです。毅然とした態度で応じるというのは、何も奪い返すことばかりではありません」


 アガメムノンは顔を真っ赤に染め上げて叫んだ。


「そうか!では、お前はアカイア中に恥を曝け出しながら、イリオンに尻尾を振るのがいいだろう!そんな腰抜けとは露ほども思わなかったわ!」


 アガメムノンはこのように言い放ったが、メネラーオスはオデュッセウスとパラメーデスに以下のように請うた。


「とのことだ。私は、特に兄と同じ思いを抱えているのではない。正式に迎え入れた妻を返して欲しいだけだ。機転の利くオデュッセウスとパラメーデス、君たちには、この和平交渉に付き合ってもらいたい。そちらの方がお二方には適任だろう」


「謹んでお受けいたします」

「ことが良い方に働くのならば、そのように」


 オデュッセウスとパラメーデスは、このように快諾した。オデュッセウスにとっては、最早それしか、イリオン遠征を止める術はなかったからである。


 このように、様々な思惑はあったが、アガメムノンは、数多の勇士の協力を勝ち取った。その高名を並べると、テューデウスの子ディオメーデス、ピュロスの老ネストールとネストールの子アンティロコス、トラシュメーデス、ヘラクレスの子トレーポレモース、テラモーンの子大アイアース、テウクロス、オイレウスの子小アイアース、そしてイタカの王、ラーエルテースの子オデュッセウスである。王はさらに、比類なき英雄アキレウスを迎えて、イリオンへの遠征に赴くこととなるのである。


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