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イリオンの矢  作者: 民間人。
不和の林檎
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牛比べ・ペーレウスの結婚式

 さて、イリオンを目指すアレースを、鋭い眼の鷲が追う。その眼光の鋭さは、神々の父である大神ゼウスの遣いに相応しく、遍く地上を見晴るかす大神の数多ある目の一つであった。

 アレースは実直なまでに真っすぐにイリオンを目指して走っておられた。隔たれた海を啄木鳥となって飛び越え、再び雄牛となってアポローンとすれ違う。彼は巻き毛の神とすれ違ったとはお気づきにならず、そのまま活況に賑わうイリオンの町に集った雄牛の中へと混ざり込んだ。


 そこに、山を降ったパリスが現れる。イリオンの町は丘の中に築かれており、砦を護る一つの大きな城壁と、海に臨む古い城壁を持つ交易の拠点、そして城壁の外に広い集落とがあり、商いによって大いに栄えていた。

 この地の王プリアモスは、かつて英雄ヘラクレスによる包囲で兄弟と共に捕虜となったことがある。英雄は当時のイリオン王の娘ヘーシオメーに連れ帰る者を選ばせた。その者こそイリオンの現王プリアモスであり、それ以外の兄弟は皆殺されてしまった。

 それだけに、プリアモスは莫大な財を持ちながら平和を望んでおり、また神にも敬虔に捧げ物をしたため、イリオンは繁栄を極めたのであった。


 広大な競技場の中に運び込まれた多くの雄牛たちを見て、パリスは思わず目移りした。イリオンに集まった多くの牛飼い達が自慢の雄牛を連れて集ったのであるから、当然のことである。牛飼い達は審査員であったパリスに、雄牛の勇姿を披露する。猛々しい立派な角や、硬い筋肉の浮き出した肉体美、宝石のようなつぶらな瞳を自慢するものもあった。


 しかし、その中に、一際勇猛な雄牛が現れる。立派な角もさることながら、均整の取れた無駄のない肉体美、さらに整った顔立ちまで併せ持つ、稀代の美牛であった。

 パリスは先程の目移りが嘘のように、この雄牛に釘付けになる。彼は劇場広場に降り立つと、すぐさまこの雄々しい牛に駆け寄った。


「誰のものかは解りかねますが、これほどまでに美しいワイン色の牛を、僕は見たことがありません。冠を戴くに相応しいのは、紛れもなくこの雄牛だと思われます」


 パリスはそう言って黄金の月桂冠を雄牛に授け、イリオンの民も流石にその目利きに反論するものなどいなかった。雄々しい牛は自慢げに鳴き、威風堂々として冠を輝かせて西へと向かう。その雄牛がまさか神であったなどと、パリスには知る由もなかった。


 その様を、神の御業である城壁の上から見下ろした鷲は、オリュンポス山に集う雲へ向けて甲高く鳴く。かくて大神ゼウスはアレースが黄金の月桂冠を戴いたことを悟られ、その鋭い眼を静かに開いておっしゃった。


「確かに、その者の審美眼に曇りのないことは示されたな」


 大いなる神、ゼウスはアレースが海を渡りオリュンポス山へ戻っていく様を確かめ、神々の向かうペーリオンの山へとお降りになる。大神は二匹の駿馬に戦車を曳かせ、眼光の鋭い愛娘アテーナーにその操縦をお任せになった。神々の中でも勇猛な女神アテーナーは、凄まじい速度で戦車を操りながら、忽ちにペーリオンの山へと辿り着く。


 ペーリオン山は滑らかな山であり、美しい緑と海望む鉤の台地となっている。下を覗けば浜があり、夏の涼みにも良く、また川の水も美々しく水汲みにも適しており、数多ある水源は眼前の遥かな海原へと清流を注ぐ。二柱の神はこの美しい景観をお楽しみになりつつ、神々の集う式場へとお登りになった。ケンタウロス族と共に、英雄達の師であるケイローンが、トネリコの槍を携えて式場へと向かっている。その様を、大神とその娘は彼らを見おろされつつ通り過ぎ、やがて盛大な式場へと辿り着かれた。


 英雄ペーレウスは二柱の到着を知るなり、支度もそこそこに神々を出迎える。彼は、神ならぬ不完全故に数多の不手際を犯し、数々の受難を越えた英雄であったが、その傍に立つ麗しい女神テテュスとは、神と人、釣り合いの取れない男であった。

 ゼウスは思惑通りにテテュスとペーレウスに姻戚関係を結ばせたことに満足され、二人に祝福を込めておっしゃった。


「結婚おめでとう。お前たちの間にはテテュスの血が通った英雄、つまりは偉大な英雄が生まれるに違いない」


 ゼウスの言葉を受けて、ペーレウスは恥じらいながら頬をかいて言う。


「ありがたいお言葉ですが、少々気恥しい。何せ、私、散々皆様にご迷惑をおかけしましたので」


 ゼウスは新郎の言葉に含み笑いで応じられ、労うように肩を叩かれた。主催者としての責務を果たすために、最もふさわしい位置に着席された。即ち、新郎と新婦の座る二人掛けの席ごく近く、神々のうち最も位階の高いものの席である。


 このめでたい日こそが禍の始まりであったなどとは、誰も夢にも思われなかったであろう。糸繰りの主ゼウスを除いては。


 続々と集う神々たちに、ペーレウスは大層たじろいだに違いない。列席者は、オリュンポスの十二神は勿論、大地に根差すニュンペー達など、およそ人の婚姻には不釣り合いなほどの数である。 

 神々は彼らに贈り物を齎した。特に海を統べるポセイドンは二頭の神馬を贈られ、二人の婚姻を大いに祝われた。

 彼はそれを、麗しい女神テテュスの為に齎された恩寵であると考えていた。加えて、このような過分な幸運に対して、神の血を継ぐとはいえ、人の身であるペーレウスには、祝辞を述べた神の内に不足のある事など気付きようもなかった。


 輝ける君(フォイボス)・アポローンも姉神アルテミスと共に式場へと到着する。理知深きアポローンはペーレウスとテテュスに祝辞と共に、率いた女神ら(ムーサイ)の、歌唱(コロス)の贈り物を送られた。一方、処女神であらせられるアルテミスは、婚礼には無関心であられたため、めでたい馳走に目移りしておられた。輝ける君(フォイボス)・アポローンは列席者の中にゼウスの姿を認めると、早速と挨拶に出向かれた。


「父君、ご無沙汰しております。この度は壮大な祝宴にお招きいただき、誠にありがとうございます」

「うむ」


 ゼウスはどこか上の空で応じられた。輝きの君の後に式場へと参られた女神ヘーラーは、賓客らへの挨拶もそこそこに、ゼウスの隣席にお座りになる。女神ヘーラーは目覚ましい男神に険しい表情を向け、ゼウスの腕に寄りかかってこうおっしゃった。


「遠路はるばるよくお越しくださいましたね、鶉の子よ。滅多にない壮大な祝宴を、どうぞ楽しんでくださいね」


 輝ける君(フォイボス)・アポローンは神々の女王から向けられた敵意に対して、怒りを腹に収めて答えられる。


「ええ、私は大地(ガイアー)と白鳥に祝福されて生じた身ですが、滅多に訪れないような喜ばしい式に招かれるのは大層嬉しく思います」


 アポローンの据わった瞳に対して、ヘーラーは眉間に皺を寄せて鼻を鳴らし、ゼウスの肩に身を委ねられる。アポローンは辺りを見渡し、神々の集いを確かめられると、ゼウスに何気なくお尋ねになった。


「多くの見知った神がおられますが、エリスがいらっしゃらないようですね」

「そうか」


 大神ゼウスは素っ気なく応じ、優れた息子から目を逸らす。草葉が擦れて揺れ、零れ落ちた果実が式場へと転がり落ちた。

 それに目敏く気づいた者は、眩い果実を拾い上げ、そこに文字の書かれていることに気づいた。不思議に思い、それを読み上げる。


「最も美しい女神へ・・・」


 ゼウスに寄りかかるヘーラーは飛び上がられ、アテーナーはその鋭い眼光を目敏く林檎へとお向けになった。優美に立ち上がられたアフロディーテは、鋭い眼光を向けるアテーナーに手を挙げて挨拶をし、黄金の果実を受け取りに向かわれた。そのアフロディーテを、二人の女神は止め諫めておっしゃった。


「お待ちなさい、アフロディーテよ。ここは神々の女王たる私が頂くべきだと思うわ」

「確かに麗しい女神アフロディーテよ、健全な肉体美こそが真に美しいものだ。ふくよかな肉感のある二の腕は確かに蠱惑的だが、ここは猛き腿を持つこの私、アテーナーが頂こう」

「あらあら、お二方。およしになって。愛の女神である私がどれ程殿方に求められているのか、お分かりになって?」


 アフロディーテは肉感豊かな体を見せつけるように躍り出ると、黄金の果実に触れようと手を伸ばされた。すかさずアテーナーがその豊満な二の腕を掴み上げると、ヘーラーに目配せを送られた。神々の女王たるヘーラーは即座にその神慮を汲み取られ、堂々たる威厳で座するゼウスに申し入れられた。


「雷を愉しむ君ゼウスよ、この場において公平な裁定を下せるお方は、あなたをおいて他にはおられません。その逞しい腕でこの黄金の林檎を取り上げ、神々に力を分け与えるのと同じく、私達のうちいずれかに与えて下さいませ」


 大神ゼウスはそっと目を伏せ、雄々しい髭の下で微笑み答えられる。


「ヘーラーよ。私の妻であるお前が、何を往生際の悪いことを申すのだ。神々の女王たる威厳に相応しからぬ判断ではないか」


 雷を弄ぶ神は飛び交う鷲の目を借り、天空から地上を遍く見下ろされると、動揺するヘーラーを退けて黄金の林檎をお取り上げになっておっしゃった。


「最上の女と問われて、妻を選ばぬ夫がどこにおろうか。例えばヘファイストスであってもそうであろう」


 大神がアフロディーテに一瞥をくれてそう仰ると、彼女は妖艶に微笑まれた。雷を弄ぶゼウスの右目が、天高く舞う鷲の中から、アレースを追っていた御使いのものを捉えると、鷲は裁定の目を受け入れて甲高く鳴いた。


「ヘルメイス!そこなイーデーの山奥にいる牧人に黄金の果実を届けよ。女神たちよ、白い腕を振り、ヘルメイスと共に牧人に裁定を委ねると良い。この場において公平な裁定を下せるものはいないのであれば、無知な凡人に託すのが上策であると言えるだろう」


 黄金のタラリアを履くヘルメイスはすかさず立ち上がり、伝令を告げるべく二対の蛇を持つ有翼の錫杖を取り上げられた。それこそが世に言うケリュケイオンであって、神々の伝令を告げる者の証である。黄金の果実を大神より賜ったヘルメイスは、麗しい三女神の前に恭しく跪かれた。


「確かに黄金の果実を受け取りました。見目麗しい美神の方々、どうかお遅れなさいませんように」


 アテーナーがすかさず戦車に飛び乗られると、二柱たちも後に続いて搭乗された。鞭打たれた神馬は嘶きを上げ、凄まじい速度で天空を駆る。ヘルメイスは暫く呆気に取られていたが、面白いものを見るように目を弧にしてお笑いになると、輝きの神アポローンに向かっておっしゃった。


「兄君、これはなかなか大変なことになってきましたよ」


 アポローンが冷ややかにヘルメイスを睨まれると、ヘルメイスはからからとお笑いになってイーデーの山へ向けて駆けて行かれた。


 かくて、裁定は始められた。最早人には抗うことも許されぬ。


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