恋焦がれるデーイポボス
かくしてデーイポボスは、釈然としない心を抱えたまま、宮殿への帰路につく。群衆が移動するのを見れば、パリスとヘレネーが移動していることを、容易に想像が出来た。
彼はサンダルを履いた爪先で小石を蹴りながら、拗ねた子供のように道を歩く。足元の輝く石の中には、宮殿で挨拶を交わすヘレネーの姿を幻視した。
宮殿に入っても上の空で柱に頭をぶつけながら、寝床へと真っすぐに向かって行く。良く磨かれた大理石は、華奢なヘレネーの白い腕を思わせた。
イリオンが誇る勇士ヘクトールは、ほんの偶然、すれ違い様にであったが、上の空の弟の、深刻そうな表情を視界に収めた。そこで、彼は、本人に直接ではなく、丁度同じ頃に帰還したアイネイアースを捕まえて尋ねた。
こそこそと弟とその妻のことを嗅ぎまわるデーイポボスが、群衆に紛れて二人を見ていたことをアイネイアースから聞くと、ぎらぎらと輝く兜を抱えたまま、親しい弟のデーイポボスを誘い出した。先刻外出から帰ったばかりで、外出するわけにもいかぬと、ヘクトールは槍の稽古をつけることを口実としたのであった。
両者は柄の長い槍を後ろで構え、半身を隠す円盾を前で構える。幸いなことに、パリスにせよヘレネーにせよ、武術の習いには無関心であったため、その場にわざわざ居合わせるということは無かった。
プリアモスの子らはいずれも手練れの勇士であるが、特にヘクトールは群を抜いた才を持っていた。人柄も良い努力家で、軍神アレースの寵愛を受けるのにふさわしい徳の高い男である。一方、デーイポボスは、ヘクトールほどの勇士ではないが武術に優れ、血統も手伝って力の強い男であった。
先ずはヘクトールがデーイポボス目掛けて槍を投げた。その力はすさまじく、デーイポボスの持つ、青銅の板を二枚重ね、さらに羊の皮を幾重にも重ねた分厚い盾を、簡単に貫いてしまう。デーイポボスも槍を投げる。勢いこそ凄まじいが、ヘクトールは難なくこの槍を避け、その足で僅かに前進する。イリオンが誇る輝く兜の勇士は、デーイポボスが次の槍を構える前に、避けて地面に突き刺さった槍を引き抜くと、デーイポボスの手元を目掛けて投げた。
盾を構えるのも叶わず、デーイポボスの腕を槍の柄が叩く。彼は構えようとした槍を取り落とし、体勢を立て直そうと試みた刹那に、ヘクトールは腰に帯びた青銅の剣をデーイポボスの喉仏に突き付けた。
一瞬の静寂が場を支配する。デーイポボスは身じろぎも出来ず、唾を飲み込んだ。ヘクトールは、剣身で相手の首を僅かに持ち上げ、口角を持ち上げて微笑する。
「まだまだ」
「・・・さすが兄君。完敗です」
ヘクトールは剣を収め、デーイポボスの手を取って立たせた。両者は互いの盾を優しくぶつけて互いを称え合い、それぞれの盾を交換した。
「いや、お前の投げた槍を抜いた時、地面に深く突き刺さっていたことが分かるぞ。投げた時の勢いでも良く分かったが、その槍なら私の盾を貫けただろう」
勇士の手にある、自らが射抜いた盾は、表面にある羊の皮が青銅板の中にめり込んでいる。ヘクトールの持つ盾は青銅が一枚で、そこに羊の皮を貼った大きな円盾であった。自らの持っている盾と、兄の盾を見比べて、デーイポボスは拗ねたように言う。
「それで避けたのですか。とんでもない人だ」
ヘクトールは弟の肩に手を回す。立派な盾から木製の槍を引き抜いて地面に放ると、弟を宥めて言う。
「そう邪険にしないでくれ。兄は立派な弟がいて誇らしいと言ったのだ」
「素直に、有難く受け取っておきます」
ヘクトールは弟の頭をくしゃくしゃと撫で回すと、ようやく本題に入ろうとこのように切り出した。
「ところで、宮殿から出かけていただろう。何か気懸りなことでもあるな?」
「・・・」
デーイポボスは押し黙ったものの、既に答えを知っている兄は、背中を押し、発破をかけて言う。
「兄に言ってくれ。出来ることならば力になるぞ」
デーイポボスはそれでも躊躇って口を開こうとはせず、そっぽを向いてしまう。見かねた笑み愛ずる君アフロディーテは気まぐれに、この男の耳に勇気を吹き込まれた。ようやく決心したデーイポボスは、兄に向かって答える。
「ヘレネー姫に一目ぼれをしました。何としてもパリスから奪い取りたいのですが、パリスが自分には相応しからざる夫だと、姫ご本人は認めていないようです」
「そうか。だが本当にヘレネーを思う気持ちがあるのであれば、アフロディーテ様がお答えくださることだろう。その為にパリスに力を見せてみたらどうか?」
「兄君はご存じだと思いますが、あのパリスは羊飼い、武器と言えば精々が弓矢でしょう。そもそも勝負になりません」
ヘクトールは、地面に放った木製の槍を拾い上げる。その穂先を逆に持ち、柄の先端を弟の頬に押し当てて笑った。
「お前もまだまだ未熟だな。二人で汗を流してみるといい。案外打ち解けるかもしれないからな」
ヘクトールはそう言うと、手に取った槍を返し、大笑しながらその場を後にする。あとに残された弟は、木製の槍を持ったまま、澄み渡る空を見上げて呟いた。
「なるほど、決闘か・・・」
パリスは新しい壺に水を張ると、そこに鬱金香の花を生けた。香りこそよくない花であったが、しなやかな曲線のある花弁が折り重なり、僅かに色彩のグラデーションを持つ花で、蕾は手を開くように徐々に反り返って咲く。この花は彼らの住む辺りに自生する見慣れた花であったが、勿論ヘレネーには物珍しく映ったのである。
「綺麗なお花ですね」
「花弁が開くと一層鮮やかになるよ。それがまた見事でね」
ヘレネーは未だ開きかけの花を見て目を輝かせた。畏まったように身をより重ねる花弁を、彼女は指でつつく。
「へぇぇ!楽しみだ」
「うふふ・・・」
パリスが思わず笑みを零すと、ヘレネーは冷静さを取り戻したのか、髪を耳にかけて苦笑する。耳朶は僅かに紅色に変わっており、そのいじらしい所作にパリスの表情も綻んだ。
二人は肩を並べて壺の中に納まる慎ましい花を眺めた。花弁を重ねて丸まった姿をじっと見つめていると、ヘレネーは思いついたように笑いだす。
「怯えている時のあなたにちょっと似ていますね」
「そ、そんなことないと、思うよ?」
パリスは取り繕って言う。ヘレネーが可笑しくなりくすくすと笑うと、パリスは不服そうに頬を膨らませて、唇を尖らせた。
そのような具合で、互いに花を眺めているところを見つけたデーイポボスは、パリスを大音声で呼ぶ。
「おい、お前!俺と決闘しろ!」
パリスは自分のこととは露ほども思わず、ヘレネーと肩を並べて微笑みあっている。
その姿が一層苛立たしくなり、面白くないデーイポボスは、パリスの胸倉を掴み、さらなる大音声で声を掛けた。
「お前だ、お前!パリス!俺と決闘しろ!」
「・・・ふぇい?」
目を瞬かせるばかりのパリスを、デーイポボスは乱暴に庭に引きずり出そうとする。尻が焼けるほど強く引き摺られたパリスは、混乱するままに声を上げて喚いた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!?いきなりなんですか!待って待って!お尻熱いですって!」
「うるせぇ、男なら一つ返事で応じやがれ!」
デーイポボスが引きずり出そうとするのを、パリスは石柱にしがみついて抗おうとする。とはいえ、パリスの力ではまるでデーイポボスには及ばず、愚図のパリスは石柱を掴んでは引き剥がされ、石柱を見つけてはそれにしがみついた。ほとんど泣きながら喚きたてるので、広い宮殿の至る所までこの大音声が響き渡り、何事かと王族がぞろぞろと駆けつけてくる。
石柱にしがみついて号泣するパリスと、彼を柱から引き剥がすデーイポボスの姿を見て、城中の王族が慌てふためいた。
「助けて!殺される!」
「殺さねぇから来いって!ちょっと勝負するだけだっての!」
「暴力反対!暴力反対!」
「ちょっとは男気見せやがれ、男女!」
「見てないで助けて下さい!見てないで、助けてっ!」
パリスが周囲の視線に気づいて助けを乞うが、状況がまるで飲み込めない王族たちは戸惑うばかりであった。老体を引き摺って慌てて駆けつけたプリアモスは、その騒動を一目見るなり、デーイポボスに向けて叫んで言う。
「これ、アレクサンドロスをいじめるな!」
「虐めてないし!」
デーイポボスが王へ反論すると、王は美しい脛当てを身に着けた兵士らに、デーイポボスを引き剥がすように命じる。舌打ちをしたデーイポボスは、パリスを放り出し、腰に帯びた剣を引き抜いて身構えた。
地面に尻もちをついたパリスは、泣きながらその場から逃げていく。プリアモス王は兵士に武器を収めるように命じ、丸腰のままでデーイポボスに近づいた。
デーイポボスは構えた武器を下ろす。プリアモスは凄まじい剣幕でデーイポボスに近づき、その滑らかな頬を打った。
「弱い者いじめは勇士のするべきことではないぞ」
王宮がしん、と静まり返る。石柱と石柱の間に響く悲しい平手打ちの音が、パリスの耳にも届いた。女神に愛されたパリスは、柱に隠れながら、父子の様子を窺う。俯きがちなデーイポボスは、赤くなった頬を押さえた。
「・・・父君のことも嫌いだ」
デーイポボスはそう吐き捨てると、逃げるようにその場を立ち去っていく。プリアモスは平手を打った側の手首を掴み、柔らかく拳を握りしめた。
パリスは赤く腫れた目でデーイポボスの背中を追う。恐怖のままに溢れ出した鼻を啜ると、彼は言いようのない胸の痛みを抱いた。
人も神々も眠りに沈む夜の中で、プリアモスの子アレクサンドロスは、広い宮殿を右往左往した。彼には柔らかい羊毛も亜麻のキトンも用意されていたが、そこに沈むにはあまりにも憂鬱な心を抱いていた。
太陽の登る地にも夜は巡るが、ヘリオスよ、その戦車で地上に恵みを齎すのならば、何故にいつまでも見定めて下さらぬのか。遍く照らすその戦車で、いつまでも天に留まっては下さらぬのか。
柱の間から吹き抜ける夜風は冷たく、温い慕情を抱えた心を冷ます。浮かない表情のままで城内を彷徨ったパリスは、巡るニュクスの中に浮く銀の戦車を、東の空に見つけた。良く空を眺めることの出来る建物の外で、巡る女神の逆光に晒されたデーイポボスの姿を見つけたのであった。
腰には剣を帯び、円盾を持たない無防備な様子で、身軽な腿丈のキトンを身に着けている。月光に晒される小麦色の美々しい肌は、この男が王族の中でも際立って高位の男であることを認識させるに足る。
パリスは森の中で自然に焼けた肌を月光に晒し、この美しい王子の元へ近づいた。
「何だよ」
パリスには何の言葉も無かった。言葉を取り付けられる目的も無かったのである。しかし、デーイポボスの心に、何かぽっかりと空いた隙間があることに気づき、ただ隣り合って月を眺めた。
横顔の月が星々を伴って進む。デーイポボスは剣の柄を指先で叩いて貧乏ゆすりを始めた。パリスが構わず空を眺めていたところ、彼は凄まじい剣幕で怒鳴りたてる。
「何なんだよ!」
怒りに任せて唾を飛ばす王子に、王の落とし子は粛々と応じた。
「寂しいね」
「何が」
「体は健やかなのに、何かが足りない感じがする。何かに魅入られて、何か大事なことを忘れてしまったような・・・」
セレーネーは地上にそっぽを向かれたまま、西へ西へと傾いて行かれた。その後を追う星々の中にあって、天を回すように極星が瞬いている。デーイポボスは美しい御髪をかき乱し、パリスの胸倉に掴みかかって言う。
「お前を見ていると苛々するんだよ!絶世の美女を手に入れて、絶頂の中にあるくせにさぁ!お前はいつも不幸の真中にいるみたいに、そうやって、同情買ってよぉ!」
「イーデー山での出来事で、選べるはずもないものを、選びそびれたように思ったんだ。デーイポボスも、何かを奪われたように思ったことはある?」
パリスが言うと、デーイポボスは黙ってパリスの胸に人差し指を突き立てた。この時、もしこの男が勇猛な戦士であったなら、たちまちに槍を構えて盾を突き合うことになったであろう。
しかし、パリスはどこまでも牧人でしかなかった。アレースの勇猛さも、アテーナーの狡知も持ち合わせてはいなかった。
「ヘレネーは、僕の持ち物じゃないんだよ。だから、僕には、彼女を君に譲ることは出来ない」
「臆病者」
デーイポボスが吐き捨てると、パリスは困ったように苦笑を零し、自嘲気味に答えて言う。
「そうだね」
デーイポボスはどうすることも出来ずに、空ぶった苛立ちをパリスの胸にぶつけ、肩を怒らせて自らの屋敷に戻っていく。月が空を巡り行く間、パリスはイーデーの山を見上げ、浮かばれぬ心に任せて、遠い日を思った。




