追跡者
若い姫君はトロイアの民から大層喜ばれた。何せ、絶世の美男美女である。パリスと共に町を練り歩く様は、眩いほどに神々しい。特に、ヘレネーは、妻を守ることはアカイアでは特別に不思議なことではないが、長く外出を制限されていた身である。この異国の香り漂う街を興味深く散策し、また無邪気に市民に話しかけていた。その甲斐もあって、ヘレネーは早々にイリオンの民に受け入れられ、その夫パリスも、一介の羊飼いから王族としての地位を固めることができた。
このように幸運なパリスであったが、連れ添いながら歩く二人を尾行する者が時折見られるようになる。はじめ二人は気づかずにいたのであるが、目敏い勇士アイネイアースは、家屋と家屋の外壁に貼り付いているその不審な男の気配に気づいた。
パリスが土色の壺を品定めしている間中、アイネイアースは注意深く不審な男に睨みを利かせ、壺を選ぶパリスの手元を覗き込むヘレネーに、声を掛けて言う。
「ここのところ、何者かがお二人を尾行しておられるようです。少し宮殿に籠られた方が良いのではないですか」
「そうなのですか?イリオンの町は豊かで興味深いですから、つい夢中になってしまいます」
ヘレネーはそう言うと、パリスの腕を掴み、首筋に口を近づける。壺選びに熱中していたパリスは、突然の出来事に大層驚き、壺を手から滑らせてしまう。
「パリス、アイネイアース様が、何者かにつけられていると仰っています」
唐突に温い吐息を耳朶に吹きかけられたパリスは、顔を真っ赤に染めて、機械のような動作でヘレネーを見つめた。
二人と不審な人物との間には、野次馬の大きな壁が出来ており、壁はパリスの視界を遮った。パリスはどうしても、当の追跡者を目視することは出来なかった。彼が不審な動きをすれば、周囲の市民も不審に思い、不安を抱くことだろう。辺りを見回すようなことも、彼には難しかった。
そこでパリスは、平静を装いつつ、アイネイアースに耳打ちをして言う。
「正体を確かめてきてくれませんか?」
「承知いたしました。いったん離れますが、くれぐれも、お気を抜かないように」
パリスは頷くと、壺を手元で触りながら、衆目にはいまだ器の品定めをしているように装う。しかし、店員には手つきが若干変化したことに気づかれ、店主はそれを訝しんだ。
一方、アイネイアースは市民の合間を縫い、不審な人物に近づいた。相手は人混みのあまりの多さにアイネイアースが近づいていることに気づかず、アイネイアースも家屋の影がかかって顔を視認できない。市民の壁は二人の考える以上に分厚く、アイネイアースはそれを利用して不審な人物の目前まで迫る。あと一人、通り抜ければ鉢合わせとなるほど接近すると、彼は人混みの中から不審人物に手を伸ばした。
がっしりとした勇士の腕が、育ちの良いきめ細やかな肌の感触を覚える。爪を立てて捕らえたため、相手は思わず小さな呻き声を漏らした。
そして、その声を聞いて、勇士はその男が何者なのか即座に理解し、思わず間の抜けた声を上げた。
「デーイポボス様?いったい何を・・・?」
「うげ、アイネイアース・・・」
デーイポボスは観念して、人混みの間に顔を捻じ込み、勇士の姿と向かい合った。アイネイアースは思惑を即座に理解すると、親戚に見せるような生温い表情を浮かべて、茶化すように言う。
「さてはヘレネー様の件ですね?」
顔を群集の腕に囲まれたデーイポボスは、顔を赤く染めつつアイネイアースに捕まれた腕を引っ張る。彼は拗ねたように視線を逸らした。
「言うなよ、あいつに・・・。あんな綺麗な妻は、あいつに似合わないだろう」
「とてもお似合いですよ」
「いや。俺が思うに、男は女を守らなきゃいけない。それが美徳って奴だろう。あいつじゃあヘレネーに降りかかる不幸を、払いのけられないだろうが」
「パリス様には勇士としての美徳は備わっていないと思われるのでしょう。しかし、それは大きな間違いです。その証拠に、ほら」
アイネイアースは、群衆の顔と顔の間から、ヘレネーを指し示す。
「彼女がここにいらっしゃるではありませんか」
デーイポボスは不服そうに顔を顰める。ヘレネーの、眩いばかりの美貌が、愛しく無邪気な笑顔で花を添えられている。ますます愛嬌のあるこの稀代の美女に、再びデーイポボスの心は射抜かれた。
「彼女のことを思うのなら、執拗に付け回すのではなく、見守って差し上げるべきではないでしょうか。私はそう思いますよ」
デーイポボス不満げに唇を尖らせつつも、ペタソスを目深に被りなおした。
「後で何をやっていたか、ちゃんと教えろよ!」
「はい、はい」
彼はそのまま、逃げるように去って行く。生温い笑顔で彼を見送ると、デーイポボスは群衆にもまれながら、二人の元へと戻っていった。
「誰だったの?」
パリスの問いに対して、アイネイアースは陽気に笑い返した。
「なに、可愛い『追いかけ』でしたよ」
パリスは訝し気に首を傾げる。アイネイアースは二人の肩を組み、満面の笑みだけで応えた。




