歓迎の宴
市場を一巡し、一行はいよいよ王宮へと向かう。王宮の前では、従者から帰還の報告を受けて、すっかり待ちくたびれたヘクトールとデーイポボス、プリアモス王らが立っていた。
パリスの顔を認めるなり、デーイポボスは大声で怒鳴る。
「いつまで待たせるんだよ、お前はぁ!?」
「うわぁ!ごめんなさい!」
パリスは勢いに負けて直角に頭を下げた。慌てて家族の元に駆け寄るパリスを、プリアモス王は両手で抱きしめて歓迎した。
「嗚呼、アレクサンドロス!君が帰ってくるということがどれ程嬉しいことか・・・!」
王の喜ぶ姿を見ると、デーイポボスもそれ以上怒ることは出来ず、抱き合う親子から視線を逸らす。ヘクトールは賑やかな弟の帰還を素直に喜び、小さく拍手を送った。
「ただいま、父君」
「うむ、うむ」
王は涙声で応じる。強い安堵を与える老王の胸の中で、パリスは自分がイリオンの王族であることを噛み締めた。
長い抱擁を終えると、パリスはヘレネーの手を握り、家族に紹介をする。
「彼女がヘレネー。僕の新しい妻になる人です」
デーイポボスは流し見たが、ヘレネーのあまりの美貌に釘付けとなり、目を見開いて驚愕した。プリアモス王とヘクトールは彼女と握手を交わし、互いに簡単な自己紹介をした。
「ほら、デーイポボス。何をしておる」
王が怪訝そうに顔を顰めると、デーイポボスは半ば放心したように間抜けな声で応じた。
「あ、あぁ・・・」
彼は恐る恐るヘレネーに近づく。日も落ちたイリオンの町を照らす篝火に照らされ、ヘレネーの透き通るような白い肌が輝く。息を呑むほどの細く滑らかな指先に触れられ、デーイポボスはたじろいでしまう。
「ご紹介に与りました、ヘレネーと言います。どうぞ、よろしく」
「あ、あぁ・・・」
ヘレネーが僅かに口角を持ち上げると、その白い歯が覗かれる。歯は明かりの中で一層美しく光った。
服装こそ素朴な装飾でありながら、ヘレネーの姿は夜闇の中で一層輝いて見えた。
それを、デーイポボスはパリスのそれ以上のときめきとして受け止めてしまう。彼は極度の緊張感から、ヘレネーの手を払いのけるようにして離し、逃げるようにその場を後にした。
「何と失礼な奴だ。あとでよくよく言っておきますので、どうかご容赦を・・・」
「いいえ、お構いなく」
プリアモスが丁寧な謝罪をする間、ヘクトールは初心なデーイポボスの姿を生温い笑顔で送り出した。
その夜、宮殿は婚姻の祝賀会で大盛況となった。町は王子アレクサンドロスの復位と結婚祝いに沸き、夜を明かさんばかりに騒ぎ立てた。その熱狂は宮殿にまで届き、宮殿の柱間から覗く丘の下には、至る所に松明の灯が輝いていた。
アポローン神殿の神官クリュセースに猛り狂ったカサンドラーを預けた王家一同は、今日ばかりは見目麗しい新郎と新婦を中心に席に着いた。
「アレクサンドロス、そしてヘレネー姫よ、御成婚おめでとう!乾杯!」
老王プリアモスは、高らかに杯を掲げ、乾杯の音頭を取った。杯を掲げ合い、異口同音に乾杯と叫ぶ。パリスは困ったように微笑んで、頬を掻いた。
神々の炉に捧げた羊の肉を切り分ける。デーイポボスはいの一番に肉を掬い上げると、皿に肉汁を滴らせながら頬張る。神々の恩寵は体に優しく、手についた脂まで彼を喜ばせた。
「お前も隅に置けないなぁ、この、この!」
「もう、兄さんったら・・・」
酔いの回ったヘクトールがパリスを小突く。パリスも兄と同じように顔を赤く染めて笑った。この時ばかりは、色々の困りごとも彼の脳裏を過りはしない。
「うん、うん。アレクサンドロスが立派に成長して、私は嬉しいよ」
感極まったプリアモスは、パリスの頭を撫でまわす。ヘクトールも、老王が歓喜をする様を、温かい視線で見守る。
ヘレネーとパリスは宴の席に相応しい柘榴の実を分け合った。赤い実の中にははち切れんばかりの果実が詰まり、イリオンの豊穣と子孫繁栄の願いが込められている。パリスはこれを受け取ると、少し心を悩ませてこの鮮血のような鮮やかな実を見つめていたが、やがて思いつめるのをやめて口へと運んだ。二人は神々への供物も切り分けて食べ、そうするだけで周囲の参加者が声を上げて祝福した。
「ヘレネー、あの・・・」
パリスは柘榴を食べ終えると、言いにくそうに切り出した。今後のことを考えれば、心が暗くなるのは何ら不思議なことではない。
ヘレネーは手を拭い、切り分けた肉をパリスと分け合った。彼も断るわけにもいかず、言葉を途切れさせて肉を受け取る。
そして、大きな肉を頬張り、指先についた脂も平らげたヘレネーは、パリスにだけ聞こえる小さな声で言う。
「人間の運命は決められているの。私達に出来るのは、その中から選択をするだけ。私は、私の選択をこれっぽっちも後悔していません」
ヘレネーは目を弧にして笑う。きめ細かな肌が艶やかに膨らみ、パリスの心を惑わす。動悸が止まらず、思わず胸を抑えたパリスを見て、ヘレネーは悪戯っぽく笑った。
人の子はとにかく愚かである。生き永らえる運命もあったろうに、こうして一時の感情に心を動かされては、のぼせ上り、やがて逃れ難い破滅へと向かって行く。
では、輝ける君・アポローンはどうであったか?やがて思い人が失われると知りながら、それに心を掴まれた輝きの君は。神はその運命を知り得るというのに、何故カサンドラーを抱かんとされたのか。神でさえ抗えぬ物があるというのか。
「ヘレネー。イリオンは滅びるとしても、せめて君がメネラーオスの元に戻れるように、そして彼が心を開いて君の自由を認めてくれるように、神へ祈ろう。幾度も僕を救ってくれた神がいるんだ」
パリスは牧杖を掴むように、膝の上に置いた手を握った。その手には、ヘレネーの手がそっと重ねられる。神々のうちでもイリオンへの思い入れが深い方々のことは、とうにパリスは知っていた。ヘレネーもその提案に否やはなく、彼の手を、そっと、持ち上げて笑う。
誰もが眠りの訪れるのを忘れて、このめでたい席を囲んでいる間、王子の成婚を喜ぶ市民も絶えず羊や牛を神々へと捧げた。捧げ物は煙となってオリュンポスの峰まで届けられ、ヘスティアーの守る炉には夜間中様々な恵みが齎された。市民は夜が明けるまで、臓物を食べ、肉を喰らい、神々の恩寵を取り込んで願う。イリオンに滅びの齎されないことを。
一方で、デーイポボスは腹を満たすと、始終ヘレネーのことだけを見つめていた。そうする間中、彼は飲食を忘れ、ヘレネーが視線に気づくなり、慌てて食事を手に取って口に捻じ込んだ。あまりに急いで飲み下すので、咀嚼するよりも多く噎せ返り、しきりに苦しそうに咳き込んだ。
弟がヘレネーにすっかり見惚れていることは、ヘクトールにはすっかりお見通しであった。一方でパリスはヘレネーを誘拐してきたこと、これからのイリオンでの生活など、様々な悩み事ですっかり余裕を失くしていたので、デーイポボスの不審な挙動に関心を持つ余裕もなかった。
そこで、パリスとヘレネーが食事を分け合い、酒を飲み交わしている間に、ヘクトールは席を外してデーイポボスの元へ近づく。兄が近づくのにも気づかずに、すっかりヘレネーに見惚れている彼は、後ろから肩を叩かれ思わず飛び上がった。
「兄君、なんですか」
「ヘレネーは良い女だな」
デーイポボスが目を瞬かせる。ヘクトールは彼の隣に座ると、弟の盃に酒を酌んだ。
「お前がすっかり心を奪われているのは良く分かっているが、それは仕方がないことだよ」
ヘクトールは、耳まで赤くしたデーイポボスの胸に盃を押し付ける。促されるままに酒を口へ運んだ彼は、麗しい葡萄の君に身を預けるままに、押し殺した声で言う。
「どうしてあいつなんですか?俺の方が勇敢で、兄君の方が強いじゃありませんか」
「女がそれだけに惚れ込むわけではないだろう。ヘレネーには、それより大事なものがあったのだな」
ヘクトールも、葡萄の君に身を委ねる。体中を巡った酒で、体が火照り、耳までのぼせ上った。デーイポボスは次には声を荒げて言う。
「そうは言っても、あいつはちっとも男らしくありません。臆病者だし、何より優柔不断でしょう。そんな奴が、妻を幸せにすることなどできようものですか」
「出来ないことも、したいと願うことも、またなることも違うものだよ」
ヘクトールが弟を宥めて頭をなでると、デーイポボスは一気に酒を飲み下し、乱暴に杯を置いた。兄は弟の為に酒を注いでやり、それもすぐに空になった。
「あの美しい女は幸せになるべきでしょうが。愚図のパリスにはそれが出来ない。俺はあいつを信用していない」
「そうだな。彼女がお前の思う通りの女なら、きっと幸せにはならないな」
デーイポボスは再び満たされた盃を、ヘクトールに押し返す。兄は柔和に微笑むと、その酒を口へ運んだ。
「あんなのでは、いつ死ぬとも分からないじゃありませんか」
「いつまで生きられるかなど、人の子の私には答えようもないよ」
夜は深まり、供物を運ぶ煙が次第に薄れていく。まず子供から眠りに誘われ、次には女たちが、そして喧しく騒ぐ男達が眠りに身を横たえる。次にまた、瞼が開くのだとすっかり安堵して眠りに身を預ける。




