ヘレネー、イリオンに降り立つ
最後の航海は、非常に快適な船旅となった。イリオンまでの海路は彼らを助けるかのように順風で、快速船のように船はアシアの地へと進んでいく。パリスは相変わらず船酔いにえずいていたが、波は低く、潮風も心地よく旅人の肌を撫でる。いまだアカイア勢は海の彼方で兵を集めるのに勤しんでおり、神々もパリス一行を御見逃しになった。
中でも、パリスの身を案じて彼を支えたのがアルテミスであった。遣いの熊に育てさせた幼子パリスに対して強い思い入れをお持ちであられた女神は、父ゼウスに乞うて海上の天気を快晴にして、アカイア勢の徴兵を遅らせるために、山の動物たちにその恩寵を吹きかけた。
アシアの大地が水平線の向こうからやって来ると、アイネイアースがそれを指し示し、船体から身を乗り出して大音声を上げて言う。
「王子、ようやく故郷が見えてきましたよ!母君に感謝ですね!」
「ようやく・・・」
パリスは安堵の声を零し、その旅路で最後となる吐瀉物を吐いた。もはや食事はなく、殆ど胃液と言って差し支えなかったが、美しい母の背に吐き出したことをパリスは詫び、笑み愛ずる女神アフロディーテはそれをお許しになった。
地上に船を寄せると、いの一番に降り立ったのはアイネイアースであった。思い切り背を伸ばし、手製の櫂に重心を預ける。勇士の後から続々と旅の付き人が上陸を果たし、船団を造ったペレクロスはアイネイアースと旅の無事を祝って握手を交わした。
スパルタから来たヘレネーの侍女が乗組員の後に続き宝物を持ち出して上陸する中、櫂に身を預けた勇士は、呆れた様子で船上に視線を送る。パリスが苦しそうに唸りながら出そうにもないものを吐き出そうとしていた。
「王子、そろそろ皆も家に帰りたそうにしておりますよ。新妻にイリオンの案内もして差し上げないと。ほら、ほら」
アイネイアースがパリスを引っ張り上げると、青白い顔の王子は呻き声を上げて勇士の手に身を委ねる。厚い胸板は大層頼りがいがあるので、パリスは生まれたばかりの子鹿のように震えながらそれを支えとした。
アイネイアースが彼を上陸させようと船から引き揚げようとすると、長らくパリスに寄り添っていたヘレネーがすくりと立ち上がった。彼女は礼儀知らずの娘のように船から飛び出し、目を輝かせて異国の地を眺望した。
「これがアシアですか!夢にまで見た異国の景色ですか!」
険しい岩肌の露出した小高い丘や山々、サンダル越しにさえ足を傷つける刺々しい植物と生き生きとした花の生えるギリシャの地とは異なり、沿岸部分はなだらかな平野が続く。内陸に行くにしたがって高い山々が聳える山岳地帯が続くことになるが、ヘレネーは知る由もない。イリオンの城壁は海から遠望することができ、これは大地を支える君ポセイダオンの築かれた城壁である。神はその報酬を得られなかったことを未だに怒っておられることは、先に述べた通りである。
神の御業である偉大な防壁は、ヘレネーには一層大きく見えた。何せ、スパルタには城壁がない。強大な兵士に守られたスパルタでは、城壁の必要がないためであった。
「凄い大きな城壁ですね!あれがポセイダオンの築かれたという城壁ですか!」
「えぇ、そうですよ。もっと近くで見たいと思うでしょう?」
アイネイアースが皮肉交じりにこう言うと、パリスは小さくえずいて返事をした。勇士はパリスの肩を小突き、歓喜に沸く新妻に案内をするように促した。船酔いが醒めないパリスは吐く物もないまま酷い呻き声を上げ、ヘレネーの手を取って歩み出した。
ふらつく王子の背中を、アイネイアースは微笑ましく見守る。ヘレネーは黄色い声を上げて、城壁の隅々に至るまでを指差してその名称やいわれについて尋ねた。
始めこそ酔いが醒めずに弱々しく応じていたパリスであったが、喧しく溌溂としたヘレネーの表情‐スパルタでは見られなかったものである‐を見て、徐々に気勢を取り戻した。
件の城壁が近づくにつれ、ヘレネーは喜び、目を輝かせてパリスに問いかけた。
「これほど立派な城壁は、やはり見たことがありません!イリオンの立派な町に相応しいものなのでしょう!」
「イリオンも立派な町だよ。毎日退屈しない。そしてあっちが・・・」
そう指を指した先には、イーデーの山があった。パリスは一瞬表情を曇らせたが、心を持ち直す。郷愁の思いと忘れがたい妻への思いとが心に重くのしかかったが、ヘレネーには関係のないことである。今は、彼女の望むに任せて、イリオンという異国の光景を案内してやろうと思いとどまったのである。
やがて一行は、イリオンの市街へと入城を果たす。石造の建物が並び立つ光景は、ヘレネーの目にも壮麗に映った。
「パリス!あの建物は何ですか?」
「あれはアポローン様を祀る神殿だよ。東側の正面に供物をささげる祭壇があるよ」
「ところで、この服も町で買ったものなのですか?市場には装飾品が売られているのですか?」
パリスの旅装は王族に相応しいものであったため、この装いにも、ヘレネーが彼を神と見紛う遠因となっていた。パリスは苦笑して答える。
「そうだね・・・。僕は元々牧人だから、プリアモス王にこれを譲り受けただけなのだけど・・・。市場を見て回ってみようか?」
ヘレネーはこの提案に喜び、意気込んで答えた。
「是非!お願いします!」
さて、市場の賑わいはすさまじいものであった。水揚げした魚や蛸が並ぶ、独特のにおいが漂う食品市場に始まり、パリスとヘレネーはここで多くの商人に声を掛けられた。どれも目移りするような艶やかな海産物ばかりであったので、二人は断るのにも大層苦労した。
食品市場から離れたところに、装飾品を売る市場がある。様々な装飾品があるが、いずれも見事なもので、ヘーラーのお喜ぶになるような美しいヴェールや、アテーナーが編まれた衣装にも似て絢爛な装飾を施された布地、さり気ないアクセントのつけられたサンダルなど、暮らしを彩る商品を、職人が作っている。これらのほかに、スパルタではもっと丹念に鍛えられているであろう武具なども売られ、特に、輝くばかりの青銅の兜や鎧は、見る者を圧倒する。
しかし、ヘレネーが何より喜んだのは、剣大の硬貨を持たず、小さな皮袋に入るほどの大きさの硬貨を見た時である。
「パリス、スパルタでは、重い剣ほどの硬貨が用いられているのですが、イリオンではこんなに小さいのですね」
「そ、それは・・・。僕はスパルタの財布事情の方にむしろ関心があるかなぁ・・・」
パリスは苦笑いで応じた。ヘレネーは窓から眺めていた光景とはまた異なる、溌溂とした市場の空気を肌で感じ、純粋な娘のようにはしゃいでパリスに笑いかけた。
「イリオンは楽しい町ですね!」
彼女の美貌が、無邪気な表情を一層愛らしくする。パリスは赤くなった耳を彼女に向けて、照れ笑いを浮かべた。
「・・・そうだね」
結局、彼らは日の落ちる閉場時間まで市場を巡るのに費やした。その間も、ヘレネーはスパルタでは見せなかった溌溂とした笑顔を見せて、時折パリスの心を射抜くのであった。




