怒る神、喜ぶ神
キュプロス島に辿り着いた一行は、一先ず女神アフロディーテと主たる神々へと感謝を捧げるため、スパルタから持ち込んだ戦利品を神々へと捧げることにした。
まず、ヘレネーが持ちこんだ宝飾品を、微笑みを湛える神アフロディーテに捧げた。次に、アイネイアースが宮殿から持ち込んだ槍を、都市の破壊者アレースへ、弓と矢を双子の神、銀の弓を引く君アポローンと金の矢を射る君アルテミスへ捧げた。そして、勇士アイネイアースの櫂と盾を、人都を守る主神ゼウスへと捧げる。ヘスティアーの守る炉に薪をくべると、彼らの捧げものはすぐにでも神の手に渡ることとなった。
パリスが島の南方に連なる山々を不安げに見上げ、神々の機嫌に思いを馳せていたところ、ヘレネーは彼に寄り添って、この遥かなる峰を共に眺めた。
「神は捧げ物を喜んで下さるだろうか?」
「あなたと私の犯したことを、お許しになるように祈るしかありません」
ヘレネーは、パリスの美々しい肩に寄り添い、幸福の絶頂にあったものの、先述の引け目を改めて思い返していた。
しかし、夫メネラーオスとの暮らしに幸福はなかったと思い直し、パリスの胸の中へと頭を預ける。
何せヘレネーは絶世の美女である。パリスの胸板にその柔らかい髪が当てられると、動揺を隠しきれない。心臓は高鳴り、激しい背徳感と共に襲い来る恋慕の情に見舞われ、目のやり場を失って身動ぎできなくなった。ヘレネーもこれを察し、いたずらに微笑みかけると、パリスの胸板に耳をあてがい、パリスの男としての情欲を、鼓動から感じ取った。
これらの営みは、アフロディーテの神域に相応しいものであったので、この美しい女神は大層お喜びになった。美しい男と女が、愛を分かち合う光景は目にも優しい。アイネイアースもその様子を優しげに見守り、彼の母への最上の捧げ物を喜んだ。
一方で、彼らを見おろすオリュンポスの峰ではどうだったのか。女神よ、貴女のお心の許す限りに、どうか語り給え。
神々の中で並ぶ者無きゼウスは、隣の玉座を睨んでおられた。
空の玉座の前には、猛り狂った女神ヘーラーが、髪を取り乱しておられた。神々の女王たるヘーラーは、男女の正しい契りと交わりを愛するお方である。秩序に違うパリスとヘレネーの行いは、全く許し難い権能へ対する侮辱であった。
ところが、ゼウスは様々な交わりも愛するお方である。ヘーラーのご権能を疎ましく思われることもおありだろう。それ故に、ゼウスはパリスとヘレネーのことを自然なことと捉えて、受け入れておられた。
「おい、ヘーラー。そう怒るな。お前は我が妻であり、正しく権威ある者であるぞ。人如きの交わりに目くじらを立てていては、身が持たぬではないか」
このようにゼウスはおっしゃったが、ヘーラーはすさまじい形相で雷を愉しむ神を睨まれ、髪を取り乱すに任せたまま、金切り声で訴えられた。
「はっ!あなたは私の契りを良く裏切るから分からないでしょうね!浮気者に振り回される苦しみというものが!嗚呼、お可哀そうなメネラーオス!誠実で勇猛な男であったというのに!パリスとは比べるべくもない!」
ヘーラーは地団太を踏まれ、それにオリュンポスの峰が揺り動かされる。激しい地鳴りは地上にまで伝わり、遥かな海さえ渡って津波を起こし、キュプロス島にも余波を伝える。キュプロス島に立つ二人は互いを支え合った。
白い腕の女神には、益々それが気に入らぬ。ヘーラーは歯軋りをしてゼウスに手当たり次第に物をお投げになって、激しく罵られて言う。
「この浮気男!いくつの女に鼻の下を伸ばしたのか、胸に手を当てて思い返してみなさい!それを見せられるこの正妻の心も思ってみせろ!エロジジイ!」
こうした夫婦喧嘩は日常茶飯事であったので、オリュンポスの峰に座する神々は、物を投げられて狼狽えておられるゼウス神のことも、猛り狂っておられるヘーラーのことも、特段気にも留めずにおられた。
例えば炉を守る女神ヘスティアーなどは、何事もなかったかのように沈黙し、祭壇の火に薪をくべておられる。丁寧に火ばさみで薪の番をしていらっしゃって、周囲の神々のおわす中でも穏やかでおられる。
捧げ物を受け取らなかったヘルメイスも、人の色恋沙汰を面白半分に茶化して、無類の友にこのようにお囁きになった。
「これは面白いことになってきましたね、兄君。兄君もなかなか隅にはおけませんね」
弓を捧げられたアポローンは、その弦で音を奏でつつ、このようにお答えになった。
「何のことだかは知らないが、夫婦の秩序を破ることはあまり好ましくないな」
「またまたぁ!私が言うのもなんですが、兄君がそのようなことをおっしゃるのですか?」
「・・・」
アポローンはこのようにお黙りになってしまわれる。それが大層面白く映ったのか、ヘルメイスは腹を抱えて笑われた。
デメテルも昔を思い起こされて、古い記憶に穏やかに浸っておられた。日向で寄り添い合う二人の眩さに、オリュンポスの峰においても穏やかな空気が漂っていたのである。
もっとも、それが面白くない女神はヘーラーだけではないのだが。
「父君、どうかお聞きください。あの男はイリオンを滅ぼす禍の種となりましょう。父君に懸命に捧げ物をしたイリオンの民を、あのような男を生かすことで滅ぼすことは許されることではありません」
雷を愉しむ君ゼウスは、右に左に女神の訴えに挟まれて、うんざりと心を沈ませてお答えになった。
「ヘーラーに答えた通りだ。人の営み如きに、神が何をそう騒ぐというのだ」
「重要なことなのです!」
パラス・アテーナーが語気を強めておっしゃると、ゼウスは雷霆を掴んで愛娘の首筋にお当てになった。
「黙れ。いかにお前でも、儂に勝てるはずが無かろう」
オリュンポスの座が一瞬にして静まり返った。女神も口を噤み押し黙ってしまわれ、狼狽えながら後退りをされる。ところが、神の雷霆はそのたびに伸び、瞬きながら女神を捕らえていた。
「お怒りを鎮めなさい、ゼウス様」
神々が囲む炉を守る女神ヘスティアーは、穏やかな口調でお諫めになられた。彼女は火ばさみをその場に置かれて、すくりとお立ち上がりになると、両の手を組んだまま、お人柄の現れる穏やかな表情で微笑まれた。
「ヘーラー様やアテーナー様のおっしゃることもごもっともです。神の主たるあなたが寛容であることも素晴らしいこと。ここは神々の家、争いごとならば外でおやりになって」
アテーナーも、ゼウスも、共に引き下がられた。ヘスティアーは再び火ばさみを持つと、再び団欒の炎の番にお戻りになる。彼女は、静まり返る神々の御座から、燃え盛る炎越しに、愛し合う二人の人間をご覧になる。その微笑みを崩されることは無かった。
神々は、些細な捧げものに免じて、パリスらを見逃すことをお決めになった。一部神々の中で諍いこそあったものの、いずれ滅びゆく人間などに、わざわざ策を弄するのも愚策とのお考えであった。
かくて神慮に従って、キュプロス島から嵐が去った。アイネイアースは太い流木を削り、櫂として作り替え、パリスは船団の指導者ペレクロスに船の修繕を任せた。パリスはその財と才覚を用いて、野生の羊や兎を集め、帰国までの旅程に必要な食料とした。
雲が晴れ上がり、天高く聳えるオリュンポスの鼻を遥か先に望むことが出来るようになると、パリスは牧杖代わりの木の枝を振り上げ、感極まって叫んだ。
「神よ!その寛大さに感謝いたします!」
「あら、あら」
航海に同行していらっしゃるアフロディーテが慈しみ深く微笑まれる。パリスに連れられて歩く動物たちは、鳴き声を鳴らし、あるいは喉や舌を弾かせて、無関心にパリスの声に応じた。途端に恥じらいの心が生じ、彼は耳まで赤くして、背中を丸めて歩く。アフロディーテはその様を、我が子を見るようにいじらしくご覧になった。
パリスら一行が合流すると、すぐさまイリオンへ向けての航海が再開される。オリュンポスの峰は遥か北西の霞の中へと消え、一行は東に突き出したカルパス半島へと向かう。そこは、イリオンへと真っすぐに向かう長い旅路の終わりを予感させる寄港地であった。
突き出した角の先には故郷がある。その予感に安堵と共に不安を感じたパリスは、帰国を一日後ろ倒しとし、夜の巡り来られた岬で、一人物思いに耽っていた。
水平線までの至る所に、点々と小島が散見される。露出した岬の岩肌には、激しく波が打ち付ける。海鳥のなく声の中にセイレーンの歌声を幻聴し、彼は意味もなく寒さに打ち震えた。
「パリス」
「ヘレネー。あそこを見て」
パリスは水平線の先を指出した。その向こうには彼の生まれたイリオンの地がある。目を凝らして遠望するヘレネーに向けて、パリスは自嘲気味に零した。
「あの先が、これから滅びるイリオンだよ」
「つまり、あなたの故郷なのですね」
パリスは黙って頷く。災いをもたらす子パリスは、打ち付ける波の音に攻められるように、体を縮こめる。さざめく夜の月が海原に反射して歪むように、彼は自らの心臓の打つ音に顔を歪めた。
「ここまで来てしまって言うのも烏滸がましいけど、君はここに残るべきじゃないかな。ここなら、見知った顔にもまみえることだろうし」
髪を取り乱したカサンドラーの形相が、彼の脳裏を過る。地上を仄暗く覆う女神のドレスには、天に昇った人々や生き物たちが描かれていた。
「いまさら何を言うのですか。いくらでも見飽きた顔を見たとしても仕方ないでしょう。私は、知らぬ顔を見て、知りたい」
―滅びゆくイリオンとそれを齎す自分があることに、果たして何の意味があろうか?-
人が神とその神慮を覆すことは叶わないというのに、なぜ人は生きるというのか。これは、神ならざる我ら人にとっての永遠の問いである。たとえエリュシオンに降ったとしても、自らが慈しむ形を失くせば、人の記憶と心から形を失えば、そこには何の意味もないではないか?神よ、もし語り手の竪琴の、甘美な音をお聞きならば、どうかお答えいただきたい。
歌え、歌え、女神よ。人の子の問いに答えよ。
神にも見紛う美貌のパリスは、その美々しき頬を涙に濡らし、ヘレネーの心に燃える炎から目を逸らした。
およそ一人の牧人では背負いきれぬ女の心である。海風は艶やかな肌を撫で、湿った頬を拭った。人の子パリスは、ここにもない賛同の言葉を返し、海から突き出した島々へと視線を泳がせる。
「まだ夜は長いと思うでしょう。すぐに朝が来てしまいますよ」
ヘレネーはそう言うと、柔らかい草の中に身を横たえ、明日の航海の為に眠りに身を委ねる。パリスは暫くぼんやりと海を眺めていたが、やがて大きなため息と共に、顔を膝に埋めて眠りに身を委ねた。




