メネラーオス、誘拐を知る
さて、祖父の葬儀を終えたメネラーオスは、帰国の支度を整えていた。クレータ島が誇るクノッソスの宮には石膏の広間があるが、足を擦る者が無いために欠くところなく整っている。メネラーオスもその従者もそのことに気を遣い、柔らかいサンダルを履いて歩いていた。
旅装を整え、栄えある港イラクリオンへと進み、いよいよ出港する運びとなったその時、晴れ渡る空に虹がかかり、メネラーオスとその従者はどよめいた。
「天翔ける女神イーリスが下られたのだ」
海沿いの市場には今まさに引き揚げられた魚や蛸の類が並べられていたが、イーリスが下られた際に起こる、その凄まじい風圧のあまりに、蛸は茹で上がり、魚は光沢を失った。
砂塵が巻き上がる中から、美々しきお姿を現わされた女神イーリスは、メネラーオスの肩を引き寄せ、耳元でこのようにおっしゃった。
「お前の客人、アレクサンドロスが、お前の嫁ヘレネーを誘拐したぞ。斯様なことはとても許されることではないと、私はそのように思っている」
メネラーオスは思わず土産物を手から落とし、目を見開いて硬直した。茹で上がった蛸を片付ける市民たちに、従者らが弁償をして回っていたので、イーリスのお言葉を聞く者はメネラーオスしかなかった。この勇士は真っ青な顔をして女神に取り縋った。
「神々の内で最も多くの者に真実を告げた女神よ、どうか嘘だと言って下さい。もしも真実のことであったなら、それはギリシャを巻き込んだ戦になりますよ!」
しかし誠実なイーリスは、メネラーオスの望んたことをお答えにならなかった。それどころか、女神は静かに俯かれると、この誠実な男を慰めるように彼の肩を叩いた。
メネラーオスが地面に崩れ落ちる。異変に気付いた従者たちがすぐに王を介抱しに回るが、当の原因を知らないので、誰もどのように慰めればよいのか分からない。天翔ける女神イーリスは、メネラーオスにサンダルを握らせると、再び天へと帰って行かれた。
メネラーオスは我に返り、女神より賜ったサンダルに履き替える。激しい憎悪と後悔の念を抱いた男は、従者たちに向けて、低い声で告げた。
「すぐにスパルタへ戻るぞ。戦と旅の支度をしろ」
旅人たちはヘルメイスへの祈りも怠り、慌てて船出をする。荷物も半分口の開いたようなありさまで、茹で上がった蛸を積み上げた船は右に左にと傾きながら、帰路へとついた。
スパルタの地に降りるなり、メネラーオスは勇士たちに取り囲まれた。彼らはパリスを取り逃したことを王に報告し、潔く謝罪をした。
怒りに打ち震えるメネラーオスは、こうした謝罪を冷静に受け止め、部下たちに「戦と旅の支度をしろ」とだけ告げる。王に荷物を押し付けられた従者たちは、慌てて盾と槍を取りに家へと戻った。
メネラーオスの家では、慌てふためく侍女たちが、娘ヘルミオネーをあやしている。その姿を見て、父はヘレネーの無謀な試みに確信を抱き、真実を囁く女神イーリスの信じがたいお言葉をようやく受け入れた。
父がやって来たので、ヘルミオネーはその腿に取り縋って泣きついた。父は娘を憐れんで抱き上げ、共に悲しみを分かち合いながら、勇士らしく泣くのをこらえて語り掛けた。
「可愛い娘よ。不甲斐ない父を許しておくれ。そして、お前の母を必ずや取り戻してくるからね。良い子にして待っているのだよ」
「あの、陛下。これからどうするのですか」
ヘルミオネーの涙で肩を濡らしたメネラーオスは、怒りを抑えた低い声で従者に答えた。
「兄アガメムノンにこのことを伝えに行く。こうなってしまっては、最早私一人では収拾がつかぬ。すぐに発つぞ。支度をしろ」
メネラーオスはスパルタ人らしく勇ましく短い言葉で、従者たちに指示を出した。すぐに従者らもそれに答え、戦の為に必要な人員と、市民らへの伝令とを飛ばした。
かくして、ゼウスの神意の趣くままに、アカイア勢はアガメムノンに率いられて、イリオンへの侵攻を試みることとなったのである。
ところで女神よ、ヘレネー誘拐に始まる一連の戦に勇士が集う、そのきっかけともいえる誓いについて、語り給え。
それは、ヘレネーの特殊な出自故に始まる。ヘレネーは、スパルタの王テュンダレオースとその后であるレーダーの子として生まれた。しかし、実際には彼女の血の半分は、テュンダレオースの血ではなかった。王自身もそれを知ったうえで、認知をしたのである。何故なら、人間が卵から生まれるはずはないからである。
ヘレネーは、レーダーが産み落とした卵から孵った子であった。しかしながら、赤子は大層可愛らしく、こうした不可解な出来事を皆忘れ去った。それからヘレネーは、美しい少女として成長し、白鳥の如き御子として、大層に持て囃された。
幼いながら美しい彼女は、高齢の英雄テセウスを含む多くの男から求婚を受けることとなる。特に取り上げたテセウスは、アルテミスの神殿で祈りを捧げる彼女を、友人と共に惑わし、アッティカへと連れ去ってしまった。
結局、彼女の兄弟である双子座の英雄ディオスクローイらによって連れ戻されることになるが、この一件が、王テュンダレオースが彼女を守るために一計を案じるきっかけとなった。
テュンダレオース王は、ヘレネーが攫われることの無いように、ギリシャを巻き込んだ見合いを開催することに決めたのである。機略縦横のオデュッセウスが発案したこの見合いには、一つ約束事があった。「彼女が攫われるか奪われるか、ヘレネーに関わる問題に直面した場合には、ここに集った者たち全員で問題の解決を図る」という約束である。求婚者は数多く、ギリシャの名高い人々が各地から集った。そして、メネラーオスが彼女を妻に娶る運びとなり、彼は誠実な王となった。
ところが、事が事だけに、彼は彼女が騒動に巻き込まれぬように彼女の自由を制限した。その為に彼女の見合いに関わった人々は、安心して過ごすことが出来たのであるが。
こうした愛ゆえの庇護は、彼女の望むことではなかった。夫は誠実であると知っていたものの、彼女の不満はやはり拭えなかった。
そんな時に訪れたのが、神にも見紛うパリスである。女神アフロディーテの手助けがあったとはいえ、それは避けられぬ運命だったのであろう。ヘレネーは多くの者に愛されたが故に、その咎を背負ったのである。
こうしたヘレネーの思いを、パリスは未だ知る由もない。長い船旅の間は船酔いに喘ぐあまりに彼女を労わる余裕もない。ヘレネーも、傍らで女神の背中に吐くパリスを介抱するのに夢中で、そのことに思い至る余裕もない。
激しい嵐の中を船は進む。パリスは揺れる船尾で喘ぎながら、自らが吐き出したものごと海をかき出す。アイネイアースの舵取りが殆ど頼りで、この勇士は激しい嵐を体で受け止めながら、ひたすらに海をかいた。海原はうねりを上げ、船を飲み込まんと欲するが、微笑みを湛える女神アフロディーテの執り成しによって、舟は形を保ちながら、命からがらにキュプロス島へと到達した。




