神々によるヘレネー誘拐
ところで、これらパリス一行の航海を、天におわす神々はどう思われたのか。女神たちよ、あなたが見聞きする限りにおいて、どうか語り給え。
まず、天見晴るかす君ゼウスは、これらの物事を鷲の目を通して隈なくご覧になられていた。それは他ならぬ主神の神慮に違わぬことであったために、ゼウスはただの少しも驚かれなかった。
この報せをオリュンポスの峰に齎されたのは、伝令神ヘルメイスであった。神はまずこの報せをゼウスにお伝えになり、それを共に座すヘーラーもお耳に入れられた。
忽ち猛り狂ったヘーラーは、すぐさまイーリスをお招きになり、姿をくらましたヘレネーを探して狼狽えるスパルタの兵士らにお伝えになった。
ヘーラーが怒りに任せておっしゃるには、
「ヘルメイス!すぐに私の権能に泥を投げかける者について教えなさい!」
「その者は、アレクサンドロスというトロイアの王子です。あなたもよく存じておられる、私も良く知る羊飼いパリスですよ」
ヘルメイスがそうおっしゃるなり、言葉尻もお聞きにならず、ヘーラーはすぐにオリュンポスの座から、スパルタに目を凝らされた。しかし、視界の先にはゼウスの御創りになった巨大な雷雲が垂れ込めており、いかに神の中の女王と雖も、到底容易に見つけることはおできにならなかった。
ヘーラーは玉座から立ち上がり、凄まじく地団太を踏まれると、隣で肘掛けに頬杖をつくゼウスに唾を飛ばして訴えられた。
「あなた!このような非礼をどうしてお許しになるのですか!ヘレネーの誘拐は、私の権能へ対する明らかな裏切りです!すぐにその雲を晴らし、忌人どもを私の眼下に晒してください!」
ゼウスは気だるげに雷雲を僅かに薄められる。ヘーラーはオリュンポスの峰から身を乗り出され、地上をお探しになる。その様を、ヘルメイスは横目で眺めながら、頭上で手をお組みになった。
「これは大変なことになりましたね。メネラーオスの怒りは鎮めるに鎮まらぬでしょう」
面白そうにそのようにおっしゃると、この剽軽な神に心を許しておられるゼウスは、口元を僅かに綻ばせて、「然り」とだけお答えになった。それで神慮をお察しになったヘルメイスは、愉快そうに腹を抱えてお笑いになり、この比類なき神に釘を刺しておっしゃった。
「天見晴るかす父君とて、女の秘め事を軽んじられるのは関心致しませんよ」
主神はそのお言葉に眉を顰められたが、女神ヘーラーにも秘め事のあることを軽んじられた。
分厚い雲に守られた中から、女神はアイネイアースのイリオン風の装いを見つけられる。パリスとヘレネーは戦車の中で丸まっていたために、アイネイアースの姿が何よりの証拠となったのである。
「イーリス!イーリスはどこですか!?」
「あー、あー、あー・・・」
ゼウスを流し見られつつ、ヘルメイスは茶化すようにそう零された。
イーリスは主の呼びかけにお答えになって、すぐさまサンダルが焼けるほど素早く馳せ参じると、怒り狂うヘーラーの前に跪かれた。
「イーリス!スパルタの者たちに、あの者達の居場所を直ちに伝えよ!何としても討ち漏らしてはならぬぞ!」
ゼウスが思わず身を起こされたが、時すでに遅く、俊足のイーリスはオリュンポスの峰を駆け下りられて、その足跡、三色の虹を我々にお示しになった。ヘルメイスは悪戯っぽくお笑いになり、ゼウスはヘーラーの肩を無理矢理引っ張り、その御顔をご覧になった。ヘーラーはご満悦になり、その大きな胸に抱かれて、以下のようにおっしゃる。
「海を渡らせなければ、あのような軟弱者は取るに足らぬ。あなたが傲慢な態度を取られたから、私もそれに意思をぶつけたまでですよ」
「女が。馬鹿なことを言うな。貴様など、雷霆で腹を裂き、子宮を潰すことも容易いのだぞ!」
そうおっしゃると、雷を愉しむゼウスは雷霆を手に取られ、キュテーラ島とクレータ島との間に巨大な嵐を下ろされる。アカイアの子らに仇なすこれらの嵐に、慌てふためいたヘーラーは、ゼウスの胸に取り縋られて、以下のように請われた。
「何をされるのですか。これでは私共の愛する子らが多く命を落とすではないですか!あなた、その嵐を御止めになるか、あるいは、イリオンの者たちを同じ数だけ殺してください!」
このようにおっしゃったヘーラーも、意外に思われたことだろう。ゼウスはそのお言葉を聞くなり、躊躇いなくギュテイオンの港に雷霆を落とされた。これにより、凄まじい嵐が地上に起こり、海を渡る一向に襲い掛かる。それをゼウスもヘーラーも、満足げに見守られたのである。
考えてみれば当然のこと、神が縁もない人の子如きに心を許されるはずもない。ゼウスからすれば、ヘレネーとパリスを御隠しになっても、そのままイリオンに巨大な禍を起こされることは容易であっただろう。それを、神と神との仲、即ち雷を愉しむゼウスと白い腕のヘーラーの仲を取り持つのに使われるのは、何も不思議なことではなかった。
しかし、面白くないのは輝きの君アポローンであろう。ヘルメイスは色々と神々の元を巡られてこのことをお伝えになったが、腹違いの兄弟であり無類の友でもあるアポローンはこれをお耳に入れるなり、月桂冠の葉を取り落とされ、直ちにオリュンポスへと向かわれた。
ゼウスとヘーラーを訪れたアポローンは肩を濡らし、地上に降り注ぐ雷雨を受けて美々しき巻き毛を額に垂らしておられた。
「父君、ヘーラー様!このような仕打ちがあってはなりません!秩序を犯したパリスらへの罰はともかくとして、罪なきメネラーオスや、パリスに付き従った従者らにまで、怒りに任せて罰するなど、秩序に反することです!」
「あら、あら。何をおっしゃるかと思えば。アポローン様は随分と、お優しいことですね。流石は尻軽女の御子、尻軽女のことを守るために、斯様な詭弁を用いられるとはね?」
ヘーラーは、その艶やかな唇で、ゼウスの雄々しい肌を撫でられた。ゼウスは満足げに口角を持ち上げられて、御子を以下のように諭された。
「確かに秩序は必要だな。それがこの私なのだが。さて、アポローン、デルフォイの宮に引き下がるか、あるいはもう一度イリオンの城壁を築いてみるか、自由に選ぶがよい」
アポローンは歯を食いしばり、全てを見晴るかす瞳を睨んでおられたが、直ぐに自らの本分を思い起こされて、仕方なく引き下がられた。




