ヘーラーの試練
未だ波の高い海の上に、夜が空を巡り行かれ、クラナエー島に行き着かれた。
クラナエー島の空を群青が占め、眠りの誘いに従って町の灯火が消されていく。アイネイアースは席を外し、砂浜で見張りに出ていた。
ヘレネーとパリスはどう言葉を交わすべきかを知らず、昏きに浮かぶ白い星々を、膝を抱えて見上げる。女神のお導きに従って、パリスは自然とヘレネーに身を預けた。
「今後のことを考えると、気持ちが暗くなる」
パリスはぽつりと呟く。空の色よりなお暗い心持ちに耐えられず、パリスは一筋の涙を零した。
パリスの意に反して、次々に神慮は遂げられていく。あの栄えあるイリオンに身を預け、取りすがりたい気持ちと、このままどこかに身を隠し、イリオンの栄光を未来へと繋ぎたい気持ちとに天秤が揺れ動き、今更になってヘレネー誘拐の罪に苛まれていた。
パリスに頼られたヘレネーは、しかし、満天の星空を眺めてくすくすと笑う。その声を遮るものは、波の音だけだった。
「ほら、あれを見て下さい。かつて天に昇られた数多の人や動物たちがありますよ」
ヘレネーは、本当にそれを言葉としてしか知らなかった。どれがどれであったのか、今を生きる人の顔ほどは認知しえなかった。しかし、それを見ることを禁じられてから、彼女はそれらを熱望していた。
「これ程清々しい気持ちで、空を見るのは初めてです。このままあなたの物になって、喜びを与りたい」
「それは違うよ」
パリスは、細く弱弱しい声で否定した。ヘレネーが意外そうにパリスの顔を覗く。真珠のような丸い雫が、パリスの腕を伝って砂浜へと零れ落ちた。
「僕の物なんかじゃないよ。ヘレネーの心は、ヘレネーの物だよ」
彼はいじけたように顔を腕の中に埋める。天を巡る黒い烏が、二人を見おろして飛び去っていく。ヘレネーは後戻りのできない旅路で出会った、僅かばかりの希望に静かに身を委ねた。
微笑みを湛えるアフロディーテよ、あなたの背に取り縋った瞬きの命をご覧ください。この憐れな泡沫がどうか寄り添って消えられるように、取り計らっては下さらぬか。
嗚呼、世にも尊き輝きの君よ、あなたのその禍の矢で、アカイアの勇士たちからこの泡沫を守って下さらぬか。
そう歌えども、すべては神慮の赴くまま。波は行きつ戻りつし、ニュクスは来ては去り、その子らモイライは糸を紡がれる。ゼウスは天より滅びを見晴るかし、瞬きの内に消える命の糸が切れるに任せられた。
そして、海は凪ぎ、昼はクラナエー島へと巡り行く。
スパルタからほど近いクラナエー島からは、一刻も早く離れねばならない。パリスはヘレネーの無事を約束するために、直ぐにトロイアへと戻らなければならなかった。
しかし、彼らの視線の先には、荒れ狂う海があった。かつてヘラクレスが挑んだ十二の試練の、その発端となる神であらせられる、ヘーラーの手なる試練であった。黒々ととぐろを巻く雲が空を覆いつくし、激しく吹き付ける風は微々たる白い雨をパリスとヘレネーに当てつける。降り注ぐ細く絶え間ない雨は、視界を奪うだけでなく、大粒の雨よりも重く肩にのしかかる。高く海面を打ち付ける津波は青黒く、言葉にするにも悍ましいほど、大きく禍々しい渦を巻いた。
アイネイアースはあまりに大きな怒りに狼狽え、パリスとヘレネーを気遣って言う。
「これでは船を出しても港に押し流されてしまいます。ヘーラー様のお怒りを鎮めるべく、この場で捧げ物をしてはいかがでしょうか」
「それは名案です、アイネイアース様。私が薪の支度をしましょう」
ヘレネーに否やはなく、早速立ち上がったが、パリスは全く乗り気ではなく、険しい表情でヘレネーの手を掴んだ。
「畏れ多くもヘーラー様は、僕に容赦をされないだろう。何故ならあの呪うべき不和の林檎を、僕はアフロディーテ様に渡してしまった」
パリスの言葉に、ヘレネーもはっと罪を思い起こした。彼女は夫がありながら、別の男の胸に抱かれようと逃れたのである。神の愛する秩序を逃れようとしたその罪は、むしろパリスよりも深いものとなっていた。
いずれも助命の余地なしと、そう思われた矢先、文武優れたアイネイアースは一計を案じ、ひらめきと共にヘレネーの手を掴むパリスの手を引き剥がした。
「いいえ、捧げものをしましょう。ただし、アフロディーテ神に」
こう言うと、アイネイアースは早速青銅に羊の皮を張った盾を地面に埋め、風雨を避けつつ焚火の場を作る。手の離れたヘレネーは砂浜に打ち寄せた枝木や布を集め、それを焚火の場に集め始めた。
「待ってください!そんなことをしたら、ますますヘーラー様の怒りを買って・・・」
「海を越えるためには、神の怒りに見合う加護を得ることしかありません。臆病者のアレクサンドロス様では、それだけの勇気は持てませんか」
アイネイアースはこのように、翼ある励ましの言葉をパリスに向けた。波誘う風には遠く及ばぬ言葉ではあったが、先の恐怖と後の恐怖とを秤にかけたパリスは、渋々捧げものの羊や牛を探して山へと入った。
パリスは口笛を吹きつつ、牧杖代わりの木の枝で身を支え、襲い来る風に抗う。重くのしかかる白い雨も、唇を震わせるのに役立った。
やがて、羊飼いパリスの優れた手腕によって、捧げものとなり得る羊や牛が口笛に従って山を降って来る。パリスは一頭一頭の腹を撫で、彼らに降りかかる重い雨を払いつつ言う。
「ごめんね」
物言わぬ羊は鼻を鳴らして鳴き、牛はその蹄をパリスの方へ向ける。パリスは彼らを従えて、アイネイアースの待つ焚火の場まで戻った。
布を張り、屋根までこさえた盾の焚火は、祭壇の様相を呈していた。荒れ狂う風に力なく揺さぶられる襤褸布が、燃え盛る業炎を守っている。凄まじく煙を巻き上げる炎の渦の元へと戻ったパリスは、アイネイアースとヘレネーに、視線で供物を示した。
アイネイアースは生きたまま齎された供物に目を丸くして驚き、「これ程の腕前があるとは」と、感嘆の言葉を零した。
彼は手に持つ刃で牛や羊の首をかき切ると、血を抜き、皮を剥いだ。血濡れの聖地に滴る血の一滴まで神へと捧げ、三人は炎を囲んで風雨から焚火を守った。
浮かない顔をしたパリスのしとどに濡れた髪は艶やかに額に垂れ、美しい肌は雨に塗れて一層に輝きを放つ。アフロディーテは供物の数々が放つその香ばしい恵みにあやかり、三人は聖なる灰を浴びつつ焼けた肉を食らう。アフロディーテの御慈悲は三人の体を巡り、女神は彼らの心に勇猛な心と自信を吹き込まれた。
しかし、ヘーラーのお怒りは凄まじく、荒れ狂う海に無策に船を出すのはあまりにも無謀であった。そこで、アイネイアースはパリスの連れてきた牛と羊らに、襤褸布や冠を被せ、幾つかの急ごしらえの舟に乗船させた。
あらかじめそれらを海に放つと、舟は海に攫われて忽ちに視界から消えていく。アイネイアースはその汚れた手で櫂を手に取ると、ヘレネーとパリスを船に招じ入れる。
「さぁ、彼らが囮となっている間に、直ぐにこの海域を脱しましょう」
「ヘレネー、行こう」
パリスは雨に濡れたヘレネーの冷えた手を取り、彼女を舟へと乗せる。自らは砂浜に打ち上げた船を押し、波に乗ると直ちに船へと飛び乗った。波に攫われるあまりにも頼りない舟を、アイネイアースはペレクロスにも似た櫂捌きで、浅瀬伝いに漕ぎ出していく。パリスも牧杖代わりの枝木を櫂代わりにし、鬼神の如きアイネイアースの操舵に合わせて、舟を漕ぎだした。
「ねぇ、アイネイアース!行きとは行路を変えましょうか!」
パリスは豪雨に劣らぬように大音声を上げて、アイネイアースに語り掛ける。その妙案に、アイネイアースはすぐさま同意した。
「王子、名案です!それではキュプロス島へ舵を取りましょう!」
舟を漕ぐたびに分厚い雲は細く小さくなり、やがて彼らは嵐を抜けた。海に放した牛や羊たちは、既にアイデスへの捧げ物となっていたが、神はとうとうパリス一行の行方を見失われたのだ。
穏やかな海風に安堵した一行は、キュテーラ島の付近を通りかかる。今は遠い港の遠景に望郷の思いを抱きつつ、各々が物思いに耽っていると、遂に暗雲は彼らを見つけ、女神の神意に従って、彼らへと降り注いだ。海は再び表情を変え、彼らをクレータ島へむかって流そうと試みる。何を隠そう、そこにはメネラーオスが、祖父の葬儀の為に参列していた。
パセリの冠を被るメネラーオスが、海を渡るヘレネーとパリスを見たならば、忽ちに冠を取り落とし、箙を肩に掛けるだろう。そうなれば羊飼いのパリスなど、容易に射殺してしまうに違いない。そういうわけだから、船がクレータ島へ流れ着くのは、何としても避けねばならなかった。
彼らは命からがらにシードーンの港へと辿り着く。神々の怒りに任せて舟はすっかり壊されてしまったので、修繕の必要があったのである。彼らは一度この港に身を隠し、女神が彼らを見失うのを待った。
やがて数日の後に嵐が止むと、彼らはアフロディーテに縁あるキュプロス島へと渡った。




