ヘレネー誘拐
メネラーオスの玉座の前で、ヘレネーはパリスに柱に隠れるように促した。意味も分からずパリスが身を隠すと、ヘレネーは深呼吸をして、王の御前へと向かった。
アトレウスの子メネラーオスは、スパルタ人の象徴である長い髪を靡かせて、特徴的な雄々しい顔で、ヘレネーを見おろした。ヘレネーは王の下に頭を下げて、沈んだ声音でこのように言う。
「メネラーオス、私の夫よ。あなたにご挨拶をしたいという人が来ております」
「その者は通せ。その前に、ヘレネーよ。お前はまた屋敷の外を見ていただろう。世の中の男がお前のことを欲することをよく承知の上でしたのか?その顔を外に見せれば、たちまち騒動が起こるかもしれぬ。どうしてお前は私の言う事を聞かない?」
メネラーオスは凄みのある威圧的な声で、ヘレネーを問い詰めた。ヘレネーは身を強張らせ、肩を震わせる。身を隠すパリスの傍で見守っておられたアフロディーテは、僅かに身を乗り出し、ヘレネーに勇気を吹き込まれた。
ヘレネーは忽ち恐怖に克己して、手をしっかと握る。そして、覚悟を決めて顔を上げると、メネラーオスに抗議した。
「あなたの言う通り、私は以前アカイア人の多くを巻き込んだ騒動を起こしました。ですが今はあなたの夫、どのような騒動があっても、あなたの『物』であるのです。外を見るような自由さえ、奪われてはとてもかないません」
ヘレネーがそう言うと、メネラーオスは肩を怒らせてヘレネーに歩み寄り、そしてその隆々たる筋肉を用いて、ヘレネーに平手打ちを食らわせた。
屋敷中に反響するほど、凄まじい音を上げて打たれたヘレネーは、あまりの衝撃でその場に倒れ込んだ。
驚愕するパリスを尻目に、メネラーオスはその大音声でヘレネーの耳に説教を吹き込む。鼓膜の破れんばかりの、凄まじい怒号である。
「お前を手に入れるために、どれだけの男が関わったか!お前とて分かるはずだ、お前の美貌がどれ程危険かを!お前が誰それに連れ去られれば、アカイアを巻き込んだ騒動になるのだぞ!」
「ひどい・・・」
幸いにも、パリスの囁きはメネラーオスの耳に届かなかった。それほどに、王の怒号は大きかったのである。メネラーオスはヘレネーがこれ以上外の者と接触できぬように、顔が赤く染まるほどに両の頬を叩き、罵詈雑言を浴びせた。それは偏に、スパルタの平穏を保つために、彼がとった防衛策であった。
ヘレネーが人に手を借りてその場を後にすると、不機嫌な声をしたメネラーオスが、訪問者を呼びつける。パリスは内心では恐怖と軽蔑の念に駆られながら、彼の前に跪いた。
「お初にお目にかかります。私は、イリオンはプリアモス王の子、アレクサンドロスと申します。この度は、先刻競技大会で私を手助けして下さったアレース神へ、手ずから捧げものをするために、スパルタを訪れました」
メネラーオスは先程とは豹変して、陽気な表情でパリスを迎え入れる。玉座を降り、温かい抱擁をして、言葉少なに答えた。
「よく来たな、アレクサンドロスよ。歓迎する」
彼はそれだけを伝えると、パリスに一人分の部屋と一人分の食事を与えて労った。ひどく淡白な応接を受けたパリスは、装飾のない室内で、質素な食事を前にして、アフロディーテに言った。
「神よ。私は、決めました」
アフロディーテは彼を慈しみ、目を細められた。二王の内の一人の王から賜った質素な食事は、パリスの心をますます勇気づけた。
スパルタの王宮の者たちは、天見晴るかす君ゼウスの習いに従って、パリスを丁重にもてなした。しかし、太陽に見紛う緋のガウン、その下から覗く煌びやかな服に身を包んだアシアの王子には、スパルタ風のもてなしは必ずしも十分とは思えなかった。
何せ、スパルタは王であっても民と同じものを食し、特別に与えられた一膳も、同じ食事を食べる家臣へと贈り、功労を労うためのものであったのだ。質素で剛健なスパルタ人のもてなしは、却ってパリスの抱くヘレネーへの思いを強くさせた。
さて、女神よ、ここでアイネイアースがパリスの為に、色々と策を弄したことについて、歌い給え。アイネイアースははじめ、スパルタ王のもてなしに忙しく応じるパリスに代わって、ヘレネーに、近づいた。
ヘレネーには、雄々しいアイネイアースの姿も好ましく思われたが、優し気なパリスの美貌の方に、神の尊きお導きを感じていた。そこで、この男に、パリスの様子を尋ねて言う。
「女神の子アイネイアースよ。私はあの美貌神にも見紛うアレクサンドロス様のことを考えると、夜も眠れないのです。あの人は今も元気に過ごしておられますか?」
メネラーオス王の堅実さは却って頭が固く思われる。ゼウスの神慮とは言え、パリスに丁重なもてなしをして、その自由を奪ったのだ。もっとも、それはヘレネーが美しいためにパリスを狂わせ、無用な騒動を避けるためでもあったのだが。
恋焦がれ、もどかしい思いを抱くヘレネーに、アイネイアースはますます彼女の思いを強めるために答えて言う。
「アレクサンドロスは大いに元気であられます。また、夫に打たれて意気消沈されていた、ヘレネー様の身を案じておられました」
そう言うと、ヘレネーはますます心を許して、周囲の目も憚らずに愚痴を零した。
「夫メネラーオスは立派な勇士であることは間違いないのです。しかし、私とて外を覗く自由くらいは欲しい。夫があって、どうして妻の心が動くというのですか?」
ヘレネーは、女神の執り成しによって、既にパリスに魅せられていたが、アイネイアースはそれを意識させることなく、このように返した。
「それはその通りです。あなたには外を覗き見る権利があります。もっとも、その自由は、夫の許しがあってのものですから、メネラーオス王の妻である以上は、それに従うよりほかにはないでしょう」
ヘレネーはその言葉を聞き、テーブルに突っ伏して深い溜息を吐いた。その白い肩が服から覗くのを、アイネイアースは涼しい顔をして一瞥する。彼は母からして美貌であって見慣れているので、男であれば心を踊らせるような仕草も、却って自然に受け入れられた。
アイネイアースは、ヘレネーに向けて、イリオンでのパリスの生い立ちを語る。頭陀袋のパリスの悲劇は、ヘレネーに同情の念を抱かせ、ますます彼女はパリスを強く求めるようになった。
このようにしてアイネイアースは、パリスの為に外堀を埋めていく。一方パリスは、一計を案じるよりは素直にもてなしを受けたり、目的の一つである祈祷を済ませたりして、故郷の豪奢な暮らしに思いを馳せながらも、穏やかにスパルタでの時を過ごした。
そして運命の時が訪れる。パリスが訪問をして10日の後に、メネラーオスの祖父、カトレウスが没した。メネラーオスはその葬儀の為に、スパルタを離れ、クレータ島を訪れることとなったのである。報せを受け、メネラーオスはその日のうちに支度をし、宛ら鳩が投げ込まれた石に驚き飛び立つように素早く、スパルタを発った。すぐにでも葬儀を終えて帰らなければ、ヘレネーに何事か起こると警戒していたためである。
そして、その警戒は現実のものとなってしまった。
夜半、雷を楽しむゼウスは、光を湛えるオリュンポスの峰とスパルタとの間に、暗い雲をお創りになった。世に並ぶもの無き神が暗雲に向けて雷霆を放たれると、雷雨は屋根をしとどに濡らす。そして、神の座と人の地を隔てるように、暗雲が神々の視界を遮った。
パリスは宮殿の客室で目覚め、煌びやかな衣服を身に纏うと、声を殺して女神アフロディーテを呼ぶ。
「アフロディーテ様、ヘレネーと私を、どうかお守りください」
アフロディーテはすぐに答えて姿をお現しになり、パリスに麗しいキトンを預ける。そのキトンは、踝までの丈がある長いもので、パリスは驚きアフロディーテを見た。アフロディーテはパリスの髪を解きほぐし、短いその髪に女の髪で作った長い鬘を被せて、キトンを着せた。
「アフロディーテ様、これは一体?」
「あなたなら問題ないはずです。ほら」
アフロディーテはそうおっしゃると、水の張った桶でパリスの姿を見せた。元々優し気な風貌のパリスは、女の装いをすると宮仕えの美女のように見えた。パリスは慌てて鬘を取り、アフロディーテの胸に押し付けると、顔を耳まで赤くして狼狽えて言う。
「アフロディーテ様、ふざけるのはおやめください。これでは私が女のようではないですか。ヘレネーが侍女と思っては大変ですよ!」
「それでいいのです。似合っていますよ。ほら、行きなさい」
アフロディーテはパリスに無理やり鬘を被せると、せっせと背中を押して部屋から送り出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと!?」
一度外に出てしまっては、最早後戻りは出来ない。パリスは仕方なくその姿で動きにくそうに裾を気にして歩き、夜の宮殿を進んだ。
驚くべきことだが、声を殺して俯くパリスを、誰もあの客人だとは思わず、アイネイアースの元に訪れた際も、数人に見られはしたが、誰も気に留める者はなかった。却って、残念がる男がいたほどである。
アイネイアースは装いを改めたパリスの姿を見て、思わず吹き出し、気さくに肩を叩いて言う。
「そのままヘレネーを連れてきてください。車を用意しておきますよ」
アイネイアースは楽しそうに言うと、宮殿の外へと出てしまう。パリスは助けを乞うように手を伸ばしたが、颯爽と歩く彼の手を掴むことは叶わなかった。
「もう!何なの!もう!」
パリスは怒りを露わにしながらがに股で道を歩く。あまりに騒ぎ立てたので、目撃者も多数現れたが、不思議なことにパリスの正体に気づく人は居なかった。アフロディーテは実に愉快そうに、彼の後ろから見守られた。女の姿をしたパリスのあまりの自然な振る舞いには、女神も予想外だった。
怪しい女などどこにもいないまま、すんなりとヘレネーの眠る場所へと辿り着いた。ヘレネーは人の気配に身を起こし、寝ぼけ眼でパリスを見やる。爛々と輝く美しい瞳や、神にも見紛う艶やかな肌を見て、彼女は一目でそれが意中の人だと見抜いた。
ヘレネーは驚き、素肌を晒さぬように布を肌に巻いてパリスに近づく。
「アレクサンドロス様!いかがなさいました?王より、丁重にもてなすように伝えられておりますから、何でもお申しつけ下さい!」
パリスは慌てて人差し指を立てて言葉を遮る。ヘレネーは何事かと目を瞬かせる。
「ヘレネー、助けに来たよ。行こう!」
装いこそ奥ゆかしい女のそれであったが、パリスは眼裏に燃える炎を宿し、ヘレネーの手を取って言った。
その澄んだ瞳に魅入られて、ヘレネーは再び心の内にある炎が燃え上がった。ヘレネーは心のままに彼の手を取り、二人は宮殿を駆けだした。
正面玄関を避け、柱の間を抜けて裏口から脱出した二人の前に、アイネイアースが手綱を握る戦車が到着する。パリスは戦車に飛び乗ると、ヘレネーを手助けし、戦車の中に身を潜めて息を殺した。
「ヘレネー様がいないぞ!」
宮中の見張りが声を張り上げる。アイネイアースは凄まじく泥をはね上げて、馬車を走らせ、スパルタ市を一気に駆け抜けていった。
いくらスパルタを脱したからと言って、神々が易々と許すはずはない。何故なら、女神ヘーラーは、男女の契りと交わりを厳格に守る女神であるのだから。
アイネイアースが走らせる戦車を、オリュンポスの峰から見定めておられた目敏き女神ヘーラーは、スパルタへと俊足のイーリスを送られた。イーリスはスパルタまで雲を散らしながら駆け下り、その足跡として三色の虹が空に弧を描く。スパルタの男達が膝まで泥に浸してアイネイアースの戦車を探す様を見つけると、イーリスは足が焼け付くほど土の上を滑らせて足を止められ、男達に翼あるお言葉をかけられた。
「お前たち、その泥の上に描かれた轍を辿れ!その先に、ヘレネーを奪ったものがいる!」
戦士たちはイーリスの言葉に従い、アイネイアースの残した轍を辿っていく。しかし、足を取る泥が轍を隠し、その行く手を阻んだ。
一方、戦車の中で肩を濡らしていた三人は、実りの兆しを促す雨水を取り込み、増水したエウロータス川を越え、ラコニコス湾を臨むギュテイオンへと至る。
ここに至って、三人はアイネイアースの操る戦車を乗り捨てた。
パリスとヘレネーは、早速、港に停泊していた船に乗り込む。アイネイアースは激しく波がぶつかる湾の前で立ち止まった。命の危険さえある荒れ狂う海が川の向こう側に広がっていた。三色に瞬く虹が雲を払い、遍く星々の目に彼らを晒した。
雨が上がり、空にイーリスの足跡が浮かぶその下で、薄明の光を受けた美々しき乙女と青年の肩が艶やかに輝く。
「今海へ漕ぎだすのは危険です。一旦身を隠しては?」
アイネイアースの進言を、パリスきっぱりと断った。
「スパルタの兵士達に捕まれば、あなたはともかく僕達は助かりません。ただの牧人の僕には、勇猛な戦士と戦うというのはとても・・・」
するとアイネイアースは、一度深く考え込んだ後に、パリスとヘレネーの乗る船へと乗り込み、櫂を取った。
「お二方、あの島が見えますか。あの島はクラナエー島と言います。あの島の中に身を隠し、海が凪ぐのを待ちましょう。いかなスパルタの勇士と雖も、あそこまで追っ手を出して探ることは難しいでしょう」
「分かった。君を信用するよ。連れて行って欲しい」
パリスが答えると、アイネイアースに否やはなく、早速櫂を漕ぎ、船を出した。荒れ狂う波に当てられた船は大いに揺れ、パリスの脳を揺らす。道中ポセイダオンの怒りに触れた時のように、パリスは船の揺れるのに任せてよろめき、海の上に吐いた。それでも、ヘレネーの手を離すことも、その胸に泣きつくこともしなかった。神々の助けを得ずに、彼は耐え難い恐怖に抗っていた。逞しいアイネイアースがパリスの姿を見守りながら、勇ましく声を張り上げて波に抗う。スパルタははるかに遠く、水平線の彼方へと消えていく。彼らは命からがらにクラナエー島に辿り着き、急ぎ船を降りた。
パリスは下船と同時に地面に吐き、濡れたままの肩を震わせる。ヘレネーは彼の身を案じて、その背中を摩った。
「アレクサンドロス様、よく頑張りました!」
アイネイアースは大胆に笑い、パリスを労う。パリスはやつれた顔で照れ笑いを返したが、口元を抑えてまた吐いた。
アイネイアースはヘレネーに寄り添われたパリスの代わりに、船を砂浜の岩陰に隠す。パリスが元気を取り戻すと、二人は島の茂みに身を潜めて、海が凪ぐのを待った。




