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イリオンの矢  作者: 民間人。
ヘレネー誘拐
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運命の女ヘレネー

 スパルタ市に入ると、客人たちの異様な様に、スパルタ人は奇異の眼差しを向けた。勿論、驚いたのはパリスも同様である。何せ、スパルタの男達は装飾のない短い裾の腹巻を、一枚腰に巻いて恥部を隠しているだけであったためだ。彼らはその長い髪をはためかせ、短く切り揃えた艶やかな髪のパリスを、物珍しそうに眺める。その眼光は鋭く、言葉少なに道を行く様もパリスを益々委縮させたのである。


 アフロディーテはパリスに暗い靄を吹きかけ、スパルタ市民の奇異の視線を遮られた。眼前を横切る監督官に、彼のひ弱な姿を見られては、何を言われるか分からなかったためである。

 屈強な男達が横切る中を、パリスは緊張した面持ちで歩く。装飾の少ない素朴な建造物と、疎らに建ち並ぶ石造の建物は、イリオンの壮大さに比べればあまりにもこぢんまりとして見えた。


 しかし、遥か先にある競技場からさえ、市民の雄々しい声が聞こえる。彼らは鍛錬の中で言葉少なな応答を繰り出し、木の槍と盾をぶつけ合っていた。盾を構え、列をなして歩く足並みはすっきりと揃い、横切ったパリスを大層驚かせる。戦争ともなれば、およそ勝てる見込みはないのではないか、と身を縮めた。


 やがて、パリスは王座へと至る。そこに至ってようやく、パリスはスパルタの驚くべき光景に声を上げることが出来た。


「柱の上にある銅像は何だろう?」


 アカイアの人々はあまり作ることのない、個人を象った像が、支柱の上に建てられている。この像が連なる先には、剥き出しになった石造の建物があった。


「代々の二王の像ですよ」


 アフロディーテは言葉少なに答えた。


「王が二人いるのですか?」

「このうちの一人が、挨拶に向かうメネラーオスですよ」


 アフロディーテの子、アイネイアースは涼しい顔で答えた。

 パリスは思わず身構える。スパルタの偉大な王の前に至るのであるから、当然の心持ちであろう。並び立つ二王の記念碑を抜けると、スパルタの都心を分けるようにディオスクローイの立像が彼らを出迎える。逞しい筋肉を持つ双子の武神が見おろす道へと、パリスは緊張した面持ちで踏み込んだ。


 パリスの姿に奇異の目を向けている市民に紛れて、アトレウスの子が住む宮殿の中から、パリスを眺める視線があった。緊張のあまり強張ったパリスの表情は凛々しく見え、素性を知らぬ者には勇敢な若い勇士に見えたのであろう。視線の持ち主はこちらへ近づいてくると気づくなり、扉を開け放ち、パリスを邸内へと招き入れた。


「そこのお方、どうぞお越しください!」

「えぇ?は、はぁ・・・」


 アフロディーテは眩いものを見るように目を細めた。パリスが促されるままに邸内に入ると、パリスを眺めていた女は彼女の部屋にパリスを招き、嬉々としてその美貌を眺めていた。


 困惑するパリスは背筋を伸ばして視線と向かい合っていた。一方で、一時も視線を外すことのないこの女は、パリスの目にも美しく見えた。あまりにも眩い羨望の眼差しを受けて、目のやり場に困るパリスは、装飾の少ない天井を見たかと思えば、両手で頬杖をつく女のキトンの中を、さり気なく覗き見たりした。不意に鼻の下を伸ばすことを耐えられず、パリスはすぐに視線を泳がせる。それほどまでに美しい女は、パリスの戸惑う様に、徐々に違和感を覚え始めた。


 神よ、どうかお怒りをお鎮め下さい。いやしくも、その時のパリスは彼女にとって、斯様に美しく思われたのです。

 女から見たパリスははじめ、夫メネラーオスとの仲を取り持つエロース神であるかのように思われた。しかし、パリスは船出の際に武器を持たずに来たので、箙を背負っていないパリスがエロース神ではないことが分かった。

 そして、ならばパリスは、娘を守る酩酊の神、ディオニューソスに思われた。神々の間でも輝きの君アポローンと並ぶ美貌の神であらせられるデュオニューソスではないかと勘繰った。しかし、パリスはこれからスパルタの王に赴くのであるから、葡萄の冠ではなく、涼やかな月桂冠を被っていたうえ、葡萄酒も持ってはいなかった。そこで、女は初めて、この者が神の類ではないと気づいたのであった。

 そして、今度は素性の分からぬこの者が、一体何者なのかという不安に駆られた。


「あの、高貴なお方。あなたは一体誰なのです?スパルタ中、いや、アカイア中のどこにも、私はあなたのような御方を見たことはありません」


 パリスは緊張を隠しきれずに答えて言う。


「私はパリス、イリオンという地から参りました」

「イリオン!?海の向こうではないですか!」


 思わず声を上げる女に、パリスはたじろいだ。その様はあまりに間抜けに見えたので、見かねたアフロディーテはパリスに少しばかりの冷静さと、心を惑わす美の蠱惑に打ち勝つ余裕とをお授けになった。

 さらに、この美しい女神は自らの帯をこの女の肩にかけ、眼前の男に魅了されるように取り計らった。


 何を隠そう、この女こそが、災いの子パリスの妻となる女、ヘレネーであったのだ。


 ヘレネーは胸を締め付けるような恋慕の情が沸き上がり、言葉少なになっていった。一方、パリスは冷静さを取り戻し、ヘレネーに旅の目的を伝えた。


「私は、イリオンの王、プリアモスの子、パリスです。ここに来たのは、その。神々のお導きと申しますか、何といいますか。尊きアフロディーテ様のお約束を果たすために、参りました」

「アフロディーテ様ですか?」


 そこでヘレネーは、思わず女神の名を聞き返した。運命の帯が彼女の双肩に掛けられたのを、ヘレネーは知らずに肩に乗った帯を正した。それが衣服だと思ったためである。しかし、その為に、彼女の心臓に帯が近づいてしまったがために、彼女はますますパリスの美貌に魅入られてしまった。


「そうです。もし、よろしかったら、メネラーオス王にご挨拶をしたいと考えております。今、王はいらっしゃいますか」


 ヘレネーは王の名を聞き、思わず表情を強張らせた。やがて、彼女は意を決したように、このように答えた。


「王の御前へと、ご案内いたしましょう」


 ヘレネーに導かれるままに、パリスはメネラーオス王のいる玉座へと向かった。


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