輝きの君との邂逅
悲劇を歌え、女神よ。
プリアモスの子アレクサンドロスの‐‐イリオンに数知れぬ慟哭を齎し、尊き勇士らの猛き魂をアイデスに投げ与え、その肉体を野犬や野鳥の餌食とした、かの、悍ましき悲劇を。
神慮は抗い難く、ゼウスの望むままに運命の糸は紡がれたが、はじめゼウスの御子輝ける君・アポローンと、羊飼いパリスとが、縁を繋ぎ、袖を振り合う時より語り起こし、歌い給えよ。
牧人は広大なイーデーの山にあって、草木を食む羊を飼いならしつつ、山奥の家を目指していた。牧人の名をパリスという。彼はイーデーの山奥に捨てられたところを牧人に助けられたが、その名は、その際に頭陀袋に入れられていたことにちなむ。彼は本来の生家を知らず、また義父もそれについて語ることを渋った。
彼も妻帯者となった今では、過去のことをあれこれと詮索することはしない。
急峻な聖なる山を、鉤付きの杖をつきながら進めば、その妻の待つ家へと帰ることが出来た。
そんな折、瞬くばかりの陽光が斜面を降りていく。木々の間を埋め尽くすような大きな光に目を細めたパリスは、そこに巻き毛の青年があることを認めた。
一目でやんごとないご身分であらせられると分かるその御柱に、パリスは礼を尽くして跪く。眩いばかりの光明を湛えた御柱は、その手に銀の弓を持ち、長い睫の下にある理知的な目で一瞥をくれた。
「神慮めでたく、我らが牧人の守護神、栄えある輝きの君・アポローンよ。この至福の邂逅に、感謝申し上げます」
御柱は無言で表情も変えられず、その輝くばかりの御尊顔をパリスに向けて立ち去ってゆかれる。パリスは誠に不釣り合いな邂逅に感謝し、連れ添う羊の一匹をその場で神に捧げた。羊はまるで御柱が初めから主人であったかのように神に寄り添い、神もまたそれを当然のものとして凛とした表情を崩されず、イーデーの山を降りてゆかれた。
一方で、頭陀袋の子、パリスは興奮が冷めぬのに合わせて、身のこなしも軽く、急峻な聖なる山道を登っていく。軽やかな足取りで、浮ついた心に任すままに言う。
「こんな下賤な身分では、一生かけても出会うことなど出来ない筈なのに、あのような高名な神様に会えるなんて、なんて素晴らしい日だろうか!」
機嫌のよい歩みを見て、御柱も快く思われぬはずもなく、無表情ながら俯き山を下り行かれつつ、横切る雌熊に伝えておっしゃった。
「良い巡り合わせもあったものだ。双神の寵愛を一身に受けるとは。それだけに幸多からんことを。人の子が神々の愛を受けることは、時には神々の諍いの中に身を委ねることもあるのだからな」
雌熊もそれに答えて言う。
「愛しい主の弟君、輝ける君・アポローンよ。そのような不吉なことを申されるな。永遠なる神の諍いなど、人の身で耐え得る筈もあるまい。そうなれば牧人は必ず死に、不幸な末路を迎えることになるぞ。そうあってはならない」
雌熊の答えに、御柱は俯きがちにそれを睨まれた。その凄まじい眼光に、雌熊も身震いし縮こまる。暫くすると御柱は木々の揺らぐに任せて移ろう木漏れ日を眺めつつ、一羽の黒い烏が彼の肩にとまるのをお許しになった。
死の色を纏う烏が御柱に以下のように耳打ちする。
「主よ、畏れながら、雷を弄ぶ神ゼウスによれば、女神テテュスの婚礼の儀が、海を臨むペーリオンの山にて執り行われるとのことです。神々の全てがそこに集い、甘い神酒の垂らされる壮大な祝宴となりますので、どうかご参加くださいますように、とのことでございます」
聡明な御柱は肩に降りた烏の首を掴み上げると、暴れる烏の姿が嘘偽りないことをお確かめになった。彼が死の色を纏う所以となったその多弁の性質を、改めて咽喉を締め上げて戒めつつ、御柱は黒い羽根を振り落として喚く彼をお放しになった。烏は一直線に地面へと落ちた。
「・・・何事も無いと良いが」
御柱はざわつく木の葉の中を、狼となって下りゆく。不穏な影を連れ行くように祈りつつ、ペーリオン山への道を急いだ。
神々の思惑を語る前に、女神よ、プリアモスの子パリスが忌まわしき選択をする所以を語らせたまえ。
さざめく神輝ける君・アポローンに出会って間もなく、その神にも似た美貌を持つパリスは妻の待つ慎ましい家へと帰った。精霊であった妻オイノーネーは、パリスが戻るや否や、薪を焚く侘しい家を飛び出し、パリスを抱擁で以て迎え入れる。
パリスは彼女の手厚い歓迎に抱擁で答え、牧人の杖を立てかけると、羊たちを柵の中へと導いた。丁度羊の首を包み引き揚げることの出来る鉤を持つ牧人の杖に導かれた羊たちは、柵の中へとたちまちに納まった。パリスは、彼らが簡単に奪われることの無いように、柵の戸を閉める。
彼は侘しい家には似つかわしからぬ広い土地で、柔らかな草を食む羊たちを養っていた。
妻の手厚い歓迎に対して、パリスは冷めぬ興奮に任せて、幸福な邂逅について妻に伝えた。
「ただいま、オイノーネー。先程、本当に幸運なことに、羊飼いの守護者、アポローン様にまみえることが出来たよ。羊一頭を捧げたので、きっといいことがあるよ」
それに対して、オイノーネーが答えて言う。
「それは素晴らしいことです。あなたが善い行いをすれば、理性に優れた神であらせられるアポローン様は必ずや答えて下さるでしょう。さぁ、先ずは家へ戻り、その身に掛かる疲れを拭い落してくださいませ」
パリスは妻の献身に感謝を述べると、その慎ましい家へと入っていく。羊と異なり戸もなく、また平坦な床もない家は、一本の支柱を中心に二つの領域に分かれる。
柱より左手には薪を焚き、家事をするための台所がある。そこには幾つもの壺があるが、これはオイノーネーが疫神であらせられる輝ける君・アポローンから賜った薬学の知識を用いて作った霊薬であった。牧人のパリスは牧人として御柱から齎される恵みを授かり、妻であるオイノーネーもまた、その並外れた知恵は御柱より賜ったものであった。このように恵み深く、また時に恐ろしい輝きの神に、イーデー山の民は深く敬服していたのである。
右手には二人のうら若い夫婦が身を委ねる、羊の毛を刈って集めた寝床がある。夏の時期に羊の毛を短く切り揃えると、パリスは決まってその場所に羊毛を集め、妻の美々しい肌が傷つくことの無いように敷くのである。冬を越すにも温かく、二人の夫婦が身を寄せ合うには丁度良い広さもある。
パリスはその羊毛の中に身を横たえると、オイノーネーに思いついた限りの恩恵を話し始める。
「知恵深き神に手ずから捧げ物を出来たことは幸運なことだね。丁度牛の審査会があるから、神は過ちを犯さないように僕を導いて下さるだろうね」
賢いオイノーネーは行き過ぎた興奮で浮ついた夫を諫めて言う。
「そうであれば大変嬉しいものです。何せ、神の預言は正しいものの、とても解し難いのです。あなたでは読み解けないかも」
他ならぬ自分に軽率なところがあると知っているパリスは、妻の忠告を尤もだと感じ、愛想笑いを返す。オイノーネーは夫の子供のように無邪気な仕草に心を許し、彼が寝る羊毛の中に身を委ねた。
「とにかく、いい牛に出会えることを楽しみにしよう」
二人は互いの身を寄せ合って、静かな微睡の中へ誘われていく。