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夏休みを挟み、時は流れ、季節は秋になった。タイガはナイトの言葉を忘れ、再び僕に暴力を振るうようになった。あの時も、僕はタイガにズタボロにされていた。集団リンチを食らい、私物を撒き散らされ、暴言を浴びせられていた。
そこをナイトに助けられたんだ。ズタボロになった僕を鮮やかに救い出したあいつは、悔しいけれどさながらヒーローのようだった。それから僕は教室を飛び出し、一人で屋上に逃げた。あそこなら誰も来ないから。ずっと一人でいられるから。
今ではタイガの横暴にも慣れたけど、当時は全然だった。暴力を受けるたびに頭の中はぐちゃぐちゃになり、まともな考えなんてできなかった。
どうして自分は救われないのか。
どうして自分は報われないのか。
そればっかり考えて生きていた。
この日もそうだった。屋上で一人、柵を痛いほど握りしめ、ずっと歯を食いしばっていた。自分を痛めつけるタイガたちが憎くて。それを見て見ぬふりをする周りの連中が憎くて、仕方がなかった。
でも、それだけじゃない。
ナイトに助けられた自分が惨めだった。
僕はナイトが嫌いだ。それはこの時も同じだった。僕からアヤちゃんを奪おうとするあいつの存在を、認めるわけにはいかない。あいつを認めることは、今までの僕自身の人生を否定することになる。そんなことはできない。できるはずない。
でも、僕はそのナイトに助けられた。認めるわけにはいかない相手は、迷いなく僕に手を差し伸べた。それでも僕は、あいつを認めることはできない。ましてや感謝なんてできやしない。ずっと救われたかったはずなのに、自分を助けたナイトに対して敵意を向けるのが情けなくて。
そんな自分に嫌気がさして。
それでも、僕はナイトのことが大嫌いで。
それに気づいて、また自己嫌悪。
「……どうして」
なんで、ナイトなんだ。
「どうして、僕を助けるのはあいつなんだよっ……!」
叫ぶことしかできなかった。ナイト以外のやつだったら、僕は素直に感謝できるのに。こんな惨めな気持ちにならなくて済むのに。
だいたい、なんであいつが僕を助けるんだ? あいつに、そんなことする理由なんてない。そんなことするメリットなんて、ないはずだ。それに、あいつは僕のことをアヤちゃんのストーカーだと思っていた。そしてあいつはアヤちゃんのことが好き。なら、僕はあいつの敵であるはずなんだ。少なくとも、僕にとってあいつは敵だ。それなのに、なんであいつが僕を助ける?
まさか……僕なんか敵じゃないって、そう言いたいのか? 僕はあいつの敵にすらなれないっていうのか?
「……違う」
確かにあちこちで噂はされていた。ナイトとアヤちゃんは両想いなのだと。いつ付き合い始めてもおかしくないと。
「違、う」
だから僕みたいなイカレ野郎の入る余地なんて、もうどこにもなくて。
「違う……!」
僕のしてることは、アヤちゃんの迷惑にしかなっていない。
「違う、違う……!」
僕は邪魔者で。アヤちゃんには相応しくない。
相応しいのはナイト。誰が見たってそう言う。
「違うっっっ!」
頭に響いてくる声を、絶叫で無理やりかき消そうとした。
「アヤちゃんに相応しいのは、僕だ! ナイト、お前なんかじゃないんだ! だってずっと……ずっと、僕が……!」
「そうか」
「ひいっ!?」
突然、背後から声がした。いつの間に来たのか、いつからここにいたのか、僕には全くわからなかった。
「な、ナイト……なんで」
「俺は桜庭に相応しくない、か……なるほど」
「お、お前いつからここに……?」
「お前が『違う、違う』って呟き出したあたりからだ」
「……っ!」
聞かれた。僕の惨めな叫びを、よりによってこいつに聞かれていた。
「タイミング悪かったな、すまん。でもおかげでやっとわかった」
「な……なんだよ。何がわかったっていうんだ」
こいつにはわからない。わかって欲しくない。
これ以上、僕の中身を見られたくない。
「あの程度じゃダメなんだな。俺は、お前を助けられてなんかいなかった。タイガから守る程度じゃお前は救えない」
「……そうだよ。お前の助けなんていらないんだ。だいたい、お前どういうつもりなんだよ。僕なんかを助けようなんて、正気かよ」
「正気だよ。よしマッド、じゃあこうしよう」
「なに」
「俺たち、友達になろう」
「……は?」
「そうすれば全部解決だ。友達が友達を助けるのは当然だろ?」
「え、いや、それは」
「確かに今まで、でしゃばりだったな。突然助けるとかなんとか、気持ち悪いにもほどがあった。お前が困惑するのも当然だ」
でも、とナイトは爽やかに笑う。
「これからは違うぜ。なにせ俺たちは友達になるんだからな。これでお前を助けられる」
「な、え……はぁ……?」
ダメだ。こいつが何を言ってるのか、さっぱりわからない。
「じゃあマッド、今日一緒に帰ろう。教室で待ってろよ、迎えに行く」
「お、おいナイト、僕は……!」
友達なんていらないんだ。
と言う前に、ナイトは屋上から出て行ってしまった。僕は無言で、一人立ち尽くすしかなかった。
そして、その日の放課後。
教室は話し声で溢れかえっていた。部活に行くもの、帰りに寄り道する場所を話し合うもの、その内容は様々だ。
「……」
そして僕は……自分の席でひとり、無言で固まっていた。
いつもなら、授業が終わればすぐに帰る。誰よりも早く教室を出て、誰にも会わずに校門までたどり着く。そして校門でアヤちゃんを待つ。
教室からアヤちゃんと一緒に帰りたいけれど、そんなことを学校でする勇気はない。だから僕は、まず誰にも見られないところまで一目散に移動する。それがいつもの下校の仕方だ。これは今も昔も変わらない。
でもこの日は、僕はそうしなかった。なぜすぐ帰らなかったのか、今でも疑問に思う。
たぶん、期待したんだ。あるはずもないことを、期待してしまった。救われたいと、願ってしまったんだ。ナイトには、僕を救えない。そのことを、まだ僕はわかっていなかった。
「……」
周りの視線が痛い。いつもと違う僕の行動を、不審に思っているのか。不快に思っているのか。
『早く帰れよ』という無言のプレッシャーが伝わってくる。
ちくしょうナイトのやつ、来るなら早く来いよ……。自分から誘っておいて待たせるなんて、非常識だろ……。
そう、ナイトはまだ現れていない。
授業終了のチャイムが鳴ってから、もう五分も経っている。五分も僕は、こんな居心地の悪い教室で待たされていた。
「なんなんだよ、もう……」
誰にも聞かれないように、そっと呟く。
まさかあいつ、忘れてる? 自分から言い出しておいて、僕のことすっかり忘れてるのか?
いや、もしかしたらこれはナイトの攻撃なのかもしれない。わざと遅れて、僕を教室に留まらせることで、僕にダメージを与えようとしてるに違いない。
当時の僕は、そんなことを考えるまでに追い詰められた。
「……」
胸が苦しい。自然と呼吸が荒くなる。この攻撃は、絶望的に僕に有効だった。
そもそもこの日は、ナイトが僕を助けたせいで、僕への注目度が普段より増していた。今でこそゴミのような扱いにも慣れたけど、クラス全体からの悪意ある視線を耐え凌ぐのは、当時はまだ難しい時期だった。
アヤちゃん……アヤちゃんは、もしかしたら僕を助けてくれるかもしれない。藁にもすがる思いで、僕は周りを刺激しないように、こっそり教室の様子を伺ったりもした。しかし、アヤちゃんはいなかった。既に教室を出てしまったようだ。
しかも教室を見回す途中で、全く別の生徒と目が合ってしまった。その生徒の、僕を不審がる目が、突き刺さる。
「……っ」
ダメだ。もう限界。帰ろう。
別にナイトとの約束なんか、反故にしたって構わない。僕はあいつのことが嫌いなんだ。僕はあいつの敵なんだ。
そもそもあいつとの約束を守ろうとしていたことがおかしいんだ。いや、まずあれは約束じゃない。ナイトが勝手に言い出したことなんだから。僕はそれに了承もしてない。
よし、決めた。僕は帰る。一人で帰る。
決心して、席を立とうとする。しかしここで僕は気づいた。
今から、一人で帰る?
放課後の学校は、至る所に人が溢れてる。教室から校門まで、そこら中に人がいる。そしてそいつらは、すべからくグループで行動してる。
多数のグループがひしめく中、一人で帰る?
それは、とても惨めだ。
きっと周りから笑われる。嘲笑われる。それこそサーカスの見世物だ。そうなるのが嫌で、いつも誰もいないうちにさっさと帰ってたのに。
この頃の僕は、他人からの評価をひどく気にしていた。タイガに暴力を振るわれたことがきっかけで、自分がなぜ標的にされるのかわからなくて、自分が他人からどう思われるのかを気にするようになっていた。今では、もうそんなことに惑わされることはなくなったけど。この時はまだ、僕は弱かった。
足がガクガクと震えだす。僕は上げかけた腰を、ゆっくりと席におろした。
ダメだ、動けない。まだ学校から出るわけにはいかない。こうなったら、学校から人がいなくなる時間まで……下校時刻まで、ここで粘るか?
僕は再び、教室を見渡す。
「……ぅぅ」
無理。こんなところにいられない。教室内の全員が、僕が帰るのを今か今かと待っている。もちろん、さっさと帰れよって意味で。
八方塞がり。僕には、どうすることもできない。
ちくしょう、ナイトのやつ許さない。ふざけんな。なんで僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。全部お前のせいなんだからな。何が友達だよ、わけわかんないことばっかり言いやがって。
あいつ、やっぱり僕を騙したんだ。友達になるだなんて嘘だった。当然だ、僕と友達になりたいやつなんて、この世のどこにもいないんだ。でも、僕だって友達なんかいらない。あんなやつこっちから願い下げだ。僕は、あいつのことが、世界で一番大っ嫌いだ。
自分が惨めで仕方がない。あまりの惨めさに、涙まで浮かんできた。
もう、ダメだ。死にたい。誰か僕を殺してくれ。
ナイトなんて信じたのが間違いだった。僕にはアヤちゃんさえいれば、それで良かったのに。それだけで十分だったのに。絶望し、机に顔をうずめたその時だった。
「悪い、待たせたな」
ハッと顔を上げる。そこには、僕が世界で最も嫌いな顔があった。
「な、ナイト、お前……」
「すまん、担任に捕まったんだ。俺クラス委員でさ」
知らねえよ。
「いや、それにしても待っててくれるなんてな。絶対帰ってると思ってた」
帰りたくても帰れなかったんだよ。お前のせいでな!
「そんな怖い顔すんなよ、悪かったって。じゃあ帰ろうぜ」
「……」
僕はナイトを睨みつけながら席を立ち、自分のカバンを持った。ナイトが教室を出て、僕もその後に続く。
教室を出る時に、クラスのやつらの会話が聞こえてきた。
「マッドと帰る……?」
「ありえない……」
「ナイトのやつ、本気かよ……」
僕は誰とも目を合わせないように、急いで教室を出た。