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「どうした? マッド」
「……え? いや、なんでもない。僕のことなんか気にするなよナイト」
「どっか痛むのか? こっぴどくやられてたみたいだったけど」
「……大したことない。気にするなってば」
僕とナイトは、二人で屋上に座り込んでいた。あれから僕は、教室からナイトに連れ出され、ここに連れてこられたんだ。今頃、騒ぎに気づいた教師たちがタイガたちに事情を聴いているんだろうか。まあ、あの教師たちがタイガに説教できるとは思わないから、ほとんど意味はないだろうけど。
今やこの屋上は僕の一時避難場所、かつ僕とナイトの集会所と化してしまっている。まあナイトがここに来るのは、最近は頻度が増えているとはいえ、ごく稀のことなんだけど。
「あれだよ、ちょっと……昔のこと思い出してただけ。前もこういうことあったなって。ほら、去年のあれ」
「えっと、去年っていうと……ああ、あれか。九月のあの最悪の日のことだな」
「そうそう、それそれ」
「どうだ。あの時みたいに、今日は久しぶりに一緒に帰るか?」
「絶対嫌だ」
「冗談だよ、お前が頷くわけないもんな。……お前さ、まだあんなこと続けてるのか? 夜な夜な動物殺して回ってるって噂、全然消える気配ないんだけど」
「……秘密」
「あっそ。この町のペット捜索願いがゼロになるのを、心から祈るよ」
「ははっ、他人事かよ」
「勘違いするなよ。俺が動かないのは証拠がないからだ。証拠があがる前に改心しておいたほうが身のためだぞ」
「一応、覚えとくよ。お前こそ、いつまで偽善者やるつもりだよ。無償の善意って、無差別の悪意より気味が悪いぜ」
「俺は当たり前のことをしてるだけだよ。善意は振るってなんぼだろ」
「……ふん。もしかしてお前って、神社で世界平和とかお願いするタイプ?」
「よくわかってるじゃないか」
「いや冗談だろお前……」
「ところで、今日のタイガたちはやけに荒れてたな。お前なんかしたのか? あいつら怒らすようなこと」
「別に何も。さっきも言ったろ、大したことないって。ほんの挨拶程度だよ」
「ふーん……挨拶にしちゃ随分ダイナミックで一方的だったみたいだけどな」
ナイトは、僕の薄汚れた制服を眺めながら言った。
「まあね。でもいつもの事だから」
「タイガには、後で俺からも言っとくよ」
「やめとけって。無駄だから」
「でも、言わなきゃダメだ。でなきゃ何も変わらない」
「『変わらない』んじゃない、『変えられない』んだ。あいつに言葉は届かない。あの単細胞には日本語を理解する知能がないんだから。この学校の教師もあてにならないし、タイガのことは気にするだけ無駄だ」
「放ってはおけないだろ。現にお前が傷ついてる」
「じゃあなんだ? 殴って言うこと聞かせるのか?」
「そんなことしないさ。そんなことしたらタイガと同じだ」
「なら打つ手なしだな。もう僕のことは気にするな」
「そうはいかない。俺が絶対にタイガを止める」
「お前のそのセリフは何度も聞いたよ。でも何も変わらなかった。お前の理想は無意味だ。それじゃ誰も救えない。この僕でさえ救えない」
「それでも、俺は諦めない。お前を改心させて、タイガも何とかしてみせる」
ナイトの言葉と同時に、チャイムが鳴り響いた。これは、午前の授業終了のチャイム……ってことは、もう昼休みか。僕たちは随分と長い間、ここにいたらしい。
「じゃ、俺はタイガと話してくるから。マッドは少ししてから教室戻ってこいよ。うまく俺が出るタイミングでな。一緒に戻るとタイガに難癖つけられそうだし」
「……いいけどさ。もしかしてお前、僕と一緒に戻るのが嫌なだけなんじゃないの? 地味に傷つくなー。僕はナイトに嫌われてたのかー」
答えはわかりきってるのに、僕はあえて意地悪を言ってみた。
「バカお前、今さら何言ってるんだ。そんなの決まってんだろ」
そして彼は、僕の予想通りの返答をしてくれた。
「俺はお前が大嫌いだ」
「知ってる。ちなみに僕は、お前のことが世界で一番大っ嫌いだ」
「ったく、んなことお互いわかりきってるだろうに……んじゃ俺行くからな」
「はいはい、頑張ってね。クラスも違うのによくやるよ、ホント」
ナイトが走って屋上から出て行く。それを見届けてから、僕は校庭に目を向けた。スプリンクラーの散水を見ながら、一人呟く。
「……アヤちゃん、今日の昼休みは何してたんだろ」
最近、学校ではアヤちゃんの様子を見れてない。休み時間中とかは、特に。
「僕がしっかりしなきゃ……アヤちゃんを守るのは、この僕なんだから」
やがてスプリンクラーは動作を停止し、水に濡れて黒々としたグラウンドだけが残った。
「ちぇっ、虹でも見えるかと思ったのに。つまんないな」
スプリンクラーの散水の後には、たまに虹ができることがある。しかし、どうやら今日は運が悪かったらしい。まあ、虹が見えたところで面白くもなんともないんだけど。
「……そろそろ教室に戻るか。ナイトのお節介もそろそろ済んでる頃だろう。まあ、どうせ無駄に終わってると思うけどね」
と、思っていたが。
教室に戻ると、意外にもタイガは大人しくしていた。僕が教室に入ってきても、突っかかってくるどころか、睨むことすらしなかった。ナイトの説得とやらが効いたのか? でもそんな様子には見えない。ナイトに何かしら言われたのなら、もう少し不機嫌そうにしてると思うんだけど、どうもそんな感じじゃない。どちらかというと……心ここにあらず、というか。何かを考え込んでいるみたいだ。
ナイトのやつ、説得するとか言っといて何か妙なことしたんじゃあ……いや、ありえない。ナイトは嘘をつかない。そんなことをするやつじゃない。間違いなくあいつはタイガを説得しようとしたはずだ。だが、タイガにはそれらしい様子が見られない。なぜだ? ナイトとタイガが本気で向き合ったにしては、タイガの反応が不自然すぎる。お互い自分の主張を曲げるタイプじゃない。絶対に揉め事が起きたはずだ。なのに、この静けさはなんだ? 何も起きなかったのか? 一体どうして?
「……まあ、いいや」
僕には関係ない。きっと、ナイトの言うことをタイガが全部聞き流したとか、その程度のことだろう。そこまでタイガが考え込むなんて、よっぽどのことなんだろうけど……僕に被害が及ばないのなら、何も気にすることはない。タイガが大人しくしているのなら、僕にとってはむしろ都合がいい。今日の午後は平和に過ごせそうだ。
実際、放課後になるまで僕は平和に過ごすことができた。タイガが絡んでくることもなかったし、ナイトと顔を合わせることもなかった。素晴らしい。こんな時間がずっと続けばいいのに。しかも今日は金曜日。明日は学校もないし、まさに最高の気分だ。
そして今週最後の放課後も、僕は校門前でアヤちゃんが出てくるのを待つ。道ゆく生徒はみんな僕のことを不審そうに見るが、気にしない。アヤちゃんの取り巻きどもにも睨まれたが、素知らぬ顔で受け流す。
というか、あいつら今日はアヤちゃんと一緒じゃないんだな。完璧だ。僕の言葉をきちんと理解できたのか、偉いぞ。そしてそのまま二度と顔を見せるな。
「……むぅ」
それにしてもアヤちゃん、今日はとびきり遅い。そろそろ完全下校時刻を回る。アヤちゃんの帰りが遅くなるのはよくあることだったけど、こんなに遅いのは初めてだ。
「何かあったのかな」
用事とか? いや、完全下校時刻を超える用事ってなんだ。もしくは、アヤちゃんが既に帰っていて、僕がそれを見逃した……あり得ないな。僕がアヤちゃんの姿を見逃すはずがない。アヤちゃんは校門から出ていない。そしてこの学校に、出口はこの校門しか存在しない。
「……」
僕は無言で待ち続ける。しかしアヤちゃんは出てこない。もう完全下校時刻を三十分もオーバーした。
校門前には人っ子一人いない。こんな状況なら、なおさらアヤちゃんを見逃したりしない。
つまり、アヤちゃんはまだ学校にいる。完全下校時刻を過ぎても、なお。
「……心配だ」
どうする? 探しに行くか? でも、僕が校門前から離れた隙に、僕の目を盗んで一人で帰るつもりなのかも。いや、今までそんなことは一度もなかった。やろうと思えば、いつでもできたのにも関わらずだ。今日になって、急にそんなことをするとは思えない。
「やっぱり変だ。どうしたんだろ」
何かあったのかもしれない。僕は急いで校内に戻り、アヤちゃんを探すことにした。
「……アヤちゃーん?」
校内は静まり返っていた。どんなにゆっくり歩いても、足音が廊下に響いてしまう。完全下校時刻を過ぎているのだから、生徒は誰も残っていない。教師たちは校舎に残っているだろうけど、姿は見えない。好都合だ。見つかれば面倒なことになるに決まってる。誰かに見つかる前に、早くアヤちゃんを見つけないと。
僕はしばらく校内を歩き回り、アヤちゃんを探した。
「……ん?」
廊下に響くかすかな声。誰の声かまではわからない。でも、教師の話し声って感じじゃない。教員室はかなり離れたところだし、教師がこんな時間にこんなところに来たりしない。静かな校内だからこそ、ギリギリ拾えた小さな会話。
なんだ? 誰だ? 何を話してる?
僕は必死に声の出処を探る。
「……そこか」
そして僕は、とある部屋の前にたどり着いた。間違いない、ここだ。話し声はここから漏れてる。
「ーーーーろ? ーーーーなぁ」
「ー、ーーーー」
くそっ、よく聞こえない。内容までしっかり聞き取るためには、もっと近づく必要がある。僕は部屋のドアにぴったり張り付き、耳を澄ませた。
「ーーやっぱ、金だな。黙ってて欲しけりゃ金よこせ」
「ーーい、いくら?」
「んなっ……!?」
危なかった。あまりに驚いて声が出てしまった。幸い、部屋の中の人間には気づかれてはいないみたいだが……。
この声は。
タイガと、アヤちゃんだ。
「いやぁまあ、そうだなぁ。十万くらい?」
「そ、そんなに持ってないよ……」
なんだ、どういうことだ? タイガとアヤちゃんは、普段全く話さない。アヤちゃんはああいう男が嫌いだし、タイガもわざわざ話しかけたりはしていなかった。それが今、誰もいない学校で、二人っきりで話してる。
「あっそ。なら仕方ねぇな、このことは学校中に言いふらす。文句ねぇよな?」
「だ、ダメ、それは……!」
僕はドアをほんの少しだけ開けて、中の様子を窺う。タイガは普段と変わらない下卑た笑いを浮かべていた。アヤちゃんに何かを要求しているらしい。というより、むしろこれは……強請っている?
「そうか。そんなに言って欲しくないのか」
「う、うん……」
「じゃあ、そうだなぁ……別の払い方を考えなきゃいけねぇよなぁ」
タイガはゆっくりとアヤちゃんに近づく。アヤちゃんは震えながら距離を取ろうとしたが、タイガがそれを許さなかった。
「お前はもう、俺のモノだ。何されても文句は言えないはずだぜ」
……やめろタイガ。アヤちゃんに何する気だ。
「そうだろ? なぁ」
タイガがアヤちゃんの肩に手を置いた。そしてがっしり掴んで離さない。まるで獲物を捕らえて逃がさない肉食獣のように。欲望のままに、動く。
「いいよな? 桜庭」
タイガが舌なめずりをした。そして浮かべた笑みは、とても醜悪で。その醜い笑顔のまま、アヤちゃんに顔を近づける。アヤちゃんが必死に顔を背ける。目を閉じ、必死に逃げようと身体をよじらせる。
やめろ。
しかし逃げられない。タイガに力では勝てない。ましてや女子のアヤちゃんでは。
やめろ。アヤちゃんに触れるな。お前なんかが触れていい相手じゃないんだ。僕を痛めつけるのは構わない。僕を辱めるのは構わない。
でも。
でも、その女を穢すことだけは。
タイガの舌が、アヤちゃんの頬に触れた。
それだけは。
僕は、決して。絶対に。
絶対に、許さないーーーー!
「ぁあぁぁああああぁああぁぁああああああああああああああああああ!!!」
そして。
僕の視界が、真っ赤に染まった。
気がつくと、僕はナイフを握り、タイガの首に押し込んでいた。刃が根元まで入るように、ぐりぐりとねじ込んでいく。
「ーーーー、あ」
床にへたり込んでいるアヤちゃんが呟いた。アヤちゃんも放心状態だったのか、今の今まで何も言わずにうずくまっていた。
「大丈夫? アヤちゃん」
僕は優しく声をかける。
「え? ひ、泥谷くん、なんでここに……」
そしてアヤちゃんは、僕の握っているナイフと、タイガの死体を見て息を呑んだ。
「な、なに、してっ……!」
「静かに。誰かに見つかったら困るだろ」
僕は小声でアヤちゃんを諭した。動転するのもわかるけど、もう少し落ち着いてほしい。運よくまだ見つかってはいないけど、この後見回りが来ることだって十分にあり得る。
「ごめん、アヤちゃん。今日は先に帰ってて。僕はこれを何とかしないと」
これ、とピクリともしないタイガの身体を指差す。
「あ……あなた、なんで……どうして……」
「どうして、って変なこと聞くね。僕はアヤちゃんを守る。いつもそうだったじゃないか。いつだってそうしてきた。アヤちゃんのために、アヤちゃんのためだけに、僕は生きてきたんだ。アヤちゃんのためなら何でもするよ。そう、こんなことも」
さらにナイフに力を込める。ナイフの刃は完全にタイガの首に埋まり、もう外からは見えなくなっている。
「あ、そうだアヤちゃん。わかってると思うけど、このこと誰にも言わないでね」
ナイフを引っ張り、少しずつ抜いていく。ここまで深く刺し込んでしまうと、引き抜くのも一苦労だ。
「でないと、色々面倒だ。僕だけじゃない、きっとアヤちゃんも面倒なことになる。それは嫌でしょ?」
もう少しでナイフが抜ける。もうひと踏ん張り。
「だから、これは僕とアヤちゃんだけの秘密。そういうことにしよう」
やっと抜けた。血に濡れたナイフを眺め、僕はそれをアヤちゃんに見せる。見せつける。
「ね?」
「ーーーーっ!」
コクコクと、アヤちゃんは無言で何度も頷いた。そしてそのまま教室から、ふらつきながら走り去る。パタパタと響く足音を聞きながら、僕は思考を開始する。
さて。大事なのはここからだ。
このタイガの死体を処理する必要がある。人間一人。それもけっこうなサイズ。これを処理しなければならない。僕はポケットの中のビニールを取り出した。
「……」
しかし、すぐにポケットに戻した。
「……無理だよな、さすがに」
今までの飼い犬やら野良猫やらとはわけが違う。こいつを隠すには、今までのやり方じゃダメだ。こいつを消すには、何か別の方法を考えなければならない。
「どうしたものか……」
僕は一人で考える。
どうする。どうする。どうする。
どうやってこの場を切り抜ける?
僕はナイフをしまい、辺りを見回す。
何か。何か使えるものはないだろうか。なんでもいい。僕の助けになりそうなものは、何か……。
「……あれ」
床に、何か光るものが落ちていた。見覚えがある。これが何か、僕は知っていた。
「アヤちゃんの、ナイフだ」
護身用にもならなそうな、可愛らしいピンクの果物ナイフ。アヤちゃん、落としていったのか。いくら慌てていたとはいえ、この場面で持ち物落とすかなぁ? おっちょこちょいだなぁ、まったくもう……。
……。
……。
……。
……待てよ。
僕の頭を、一気にアイデアが駆け巡る。
これは、使える。そうだ、これがあれば……この場を切り抜けるどころか、もっと面白いことができる。そうさ、切り抜けるなんて生温い。この状況をうまく利用できれば。
これがあれば、『あいつ』を潰せる。せっかくタイガがいなくなったんだ。この際、『もう一人の邪魔者』も処理してしまおう。
もちろん代償もある。そして、大きな賭けになるだろう。でも、構わない。これが賭けだと言うのなら、僕が勝てばいいだけだ。ああそうだ、決着をつけよう。絶好の機会じゃないか。僕たちは、潰し合うべきなんだ。
準備期間は……一週間ってところかな。
始めよう。
標的は、僕がこの世で最も嫌いな男。
僕の宿敵。
内藤 光騎。お前を潰す。
勝負だ。ナイト。