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僕が教室に着くと、それまで騒がしかった教室が一瞬で静まり返った。クラス中からの冷ややかな視線が、一斉に僕に突き刺さる。しばしの静寂の後に、ひそひそと会話が再開され始めた。僕はそれらを無視して、真っ先にアヤちゃんの姿を探す。僕より先に歩いてたんだから、当然いるはずだ。
……いた。
アヤちゃんはクラスの女子たちと楽しそうに談笑している。僕のことを見ようともしてくれない。僕はちょっと悲しくなったが、これもいつものことだ。
そして僕は、まっすぐ自分の席に着く。ここは僕の領域。ここだけは、僕のためのパーソナルスペース。この教室に、アヤちゃん以外の価値はない。話し相手なんていない。味方はいない。アヤちゃんに話しかけたいのは山々だけど、そんなことをしたらアヤちゃんに迷惑がかかる。僕だって、自分の立場くらいは把握している。スクールカーストなんてくだらない概念も、十分に理解している。
だから僕は、ここでは一人。楽しさなんて欠片もない。僕は静かに机に突っ伏し、狸寝入りを始める。
僕に構うな。僕を見るな。僕に一切関わるな。
そんな断固たる意思表示。僕は世界を拒絶する。そんな僕の気持ちとは裏腹に、色んな会話が耳に入り込んでくる。
「マッドはヤバい」
「ナイフを持ち歩いている」
「夜な夜な動物を殺しているらしい」
「そういや昨日、飼い犬がいなくなったって近所のジイさんが」
「またかよ」
「連続ペット失踪事件?」
「毎日どっかのペットが消えるよね」
「マッドのせいだな、それは」
「その犬もマッドが殺したってウワサだぜ」
「なるほど、連続ペット失踪の犯人はマッドか」
「異常者じゃん」
「そりゃマッドだし」
「あいつ学校来んなよ気持ち悪い」
「死ねばいいのに」
「死ねよ」
「死ね」
マッド。僕のあだ名……というか蔑称。僕の本名、泥谷 真士をもじったものらしい。mud(泥)とmad(狂った)をかけているのだろう。蔑称とは言ったものの、僕自身は割と気に入っていたりする。
それにしても、今の会話の内容……噂ってのは広まるのが早いな。全く、火のないところに煙は立たないというか、火があるから煙が出てくるというか……。まあ僕の趣味は昔から続いているものだから、今さらそんなこと言われてもって感じだけど。
「アヤ、今日元気ないね。もしかしてまたマッドに嫌がらせされたの?」
「う……うん」
次に聞こえてきたのは、アヤちゃんたちの会話だ。
「ストーカーされてるんでしょ? 早く先生とかに言った方がいいって」
「警察に通報でもいいよね。犯罪だし」
アヤちゃんの取り巻きが騒がしい。いつもアヤちゃんに引っ付いてる三人組だ。
「いや……大事にはあんまりしたくないしさ。周りに迷惑かけたくないんだ」
「アヤ優しすぎだよー。相手はマッドなんだし、刑務所に入れた方がみんなのためにもなるんだって」
こいつはフツ子。普通だからフツ子。もちろん本名じゃない。というか本名は知らない。どのクラスにも一人はいるだろ? なんの取り柄もないクセして、人柄だけで友達付き合いうまくやってるようなヤツ。他人の意見に同調し続けて、周りの機嫌を取ってるヤツ。こいつはそんなタイプだ。
「で、でも変に騒いだら、し……仕返しとかあるかもよ」
今の声は地味子かな? こいつはとにかく目立たない。そして暗い。前髪が目を隠してるもんだから、なに考えてるのか全然わからない。その上、アヤちゃんたち以外と話してるのを見たことがない。友達とか全然いないんだろうな。ま、僕が言えたことじゃないんだけど。
「うわヤッバー。それ考えてなかったわ。ストーカーとかマジ死すべき」
こいつはギャル子だ。ギャル子の声はすぐわかる。うるさいから。何かと主張が激しいんだこいつは。髪は明るい茶色で、爪とか手首とかに無駄な装飾をガチャガチャつけている。僕は、こいつと地味子がつるんでいるのが不思議でならない。話が合うとは全く思えないんだけど。
「あたしたちも襲われちゃうかもね~」
黙れフツ子のくせに。お前らみたいな一般人を誰が相手にするもんか。
そもそも、お前ら程度がアヤちゃんと馴れ馴れしくするんじゃない。お前たちは、アヤちゃんに相応しくないんだから。
「先生がダメなら、せめてナイトくんには相談しときなよ。彼氏でしょ?」
「か、彼氏じゃないってば!」
「またまたぁ〜」
ナイト? ナイトだと? よりにもよってあいつが彼氏だって? 笑わせるな、あんな世界一アヤちゃんに相応しくない男が、アヤちゃんの彼氏?
「……ナイトくんは、あたしにはもったいないよ。ナイトくんのこと好きな人、きっといっぱいいるし」
「でもナイトのヤツも、アヤのこと意識してると思うけどなぁ。しょっちゅう会いに来るしさ。クラスもちげーってのに」
「そ、そうだよね……アヤちゃんのこと、絶対好き、だよね。たぶん、一年生の頃からずっとだよ」
「去年からずっとかぁ。ナイトくんも一途だねぇ。いいなーアヤ。あのナイト様に見初められるなんてさー」
「もう、違うって言ってるのに……」
アヤちゃんはそう言って、席を立った。トイレにでも行くのか、そのまま教室を出て行ってしまった。良かった。これ以上ナイトの話を聞いてたら、僕の精神がどうにかなるところだった。僕は、あいつの名前を聞くだけでもうんざりするんだから。
うつ伏せのまま、僕が安堵のため息をついた時だった。
「おい、マッドくん。ちょっと顔貸せよ」
しまった……。女どもに気を取られて、僕がこの世で二番目に嫌いな人間の存在を忘れていた。いつもなら、こいつに近づかれる前に距離を取るのに……なんたる不覚。僕としたことが、こんな凡ミスをやらかすなんて。
「なぁ起きろよマッドくん。おいってば」
くそ、うるさいんだよ。鬱陶しいったらありゃしない。仕方ない、話を聞いてやろうかな。いや、せっかくだしもう少し焦らしてやろうか。今僕は寝たフリをしているし、すぐに起きるのは不自然かもしれない。ここはもう少し待って……。
「起きろっつってんだよこのクソマッド!」
響き渡る怒号。それと同時に、頭に鈍い衝撃が走る。
机を下から蹴り飛ばされたんだ。僕はたまらず床に倒れこんだ。
「このタイガ様がよぉ、顔貸せって言ってんだよ。すぐ起きて挨拶すんのがテメェの身分ってもんだろ、あ?」
この単細胞め……誰がお前に挨拶なんかするもんか。
「ンだよその反抗的な目は。マッドのクセに、クソ生意気な」
タイガ……足立 大牙は、そう言って僕を背中から踏みつけた。この図体がバカでかい単細胞生物は、力だけは異常に強いんだ。おかげで僕は、うつ伏せのまま床から起き上がることができない。
「マッドくんさぁ、最近調子乗ってるっしょ。弁当も持ってこないし、俺たちには冷たくするし。どういうつもりなワケ?」
どういうつもりもクソもない。お前なんかと関わりたくないんだよ僕は。
「マッドくんの立場的に、俺たちに弁当献上したり、色々お使いしてくれたりすんのが普通っしょ? その辺わかってる?」
僕はお前の下僕じゃない。お前なんかの言いなりにはならない。
「なんとか言えよコラァ!」
タイガは、僕の胸を思いきり蹴り上げた。口の中に広がる血の味。視界が明滅し、息ができなくなる。
「おいお前ら、手伝えや。マッドくんが俺のこと無視すんだよ、ちっとヤキ入れてやんねぇと」
呼びかけに応じて、タイガの仲間がゾロゾロと集まってくる。そして、僕の身体をドカドカと踏みつけ始めた。
「ぐ……ぎぃっ……」
腕、腹、頭。次々と襲いかかる痛みに、僕は強く歯を噛み締め、耐える。教室の他の連中は、一切見て見ぬフリをしている。哀れみや同情さえもない、完全なる無視。
この教室に、味方はいない。
僕を踏みつける奴らは、みんな笑ってる。そしてそれを無視する奴らは、何の感情も示さない。この教室での僕の扱いは、まさにゴミそのものだ。厭うべきもの、忌むべきもの、居なくなった方がいいもの。それが僕。僕という汚物を、共通の敵として蔑むこと、それこそがこの教室でのルール。誰もが信じて疑わない、腐りきった規則事項。
僕はポケットの中のナイフを握りしめ、ただ耐える。
殺す。お前らいつか殺してやる。
心の中で必死に叫ぶ。僕はお前らとは違うんだ。僕は特別なんだ。お前らなんかに足蹴にされるような、そんな存在じゃないんだ。お前らなんか死んで当然だ。殺してやる。殺されたって文句は言えない。文句なんて言わせない。お前らの方こそ、ゴミのように扱われるべきなんだ。いつか。いつかきっと、ゴミのようにズタボロにしてやるーー!
「明日は弁当持ってこいよ。で、俺が呼んだら即座に返事すること。わかったか?」
「ぐ……う……」
まともに声も発せない。痛みが過ぎ去るのを、僕はただ待つ。返事もままならない状況でも、僕は絶対に屈しない。こんなやつに負けたりしない。
だって、僕の方が強いから。本気を出せば、こんなやつら全員殺してやれるから。
ポケットの中のナイフを握り、昨日のジョンの感覚を思い出す。
そうだ、僕は強い。あんなことできるのは僕だけだ。タイガにはできるわけない。あいつにできないことが、僕にはできる。
「なんとか言えよマッド。おい」
またタイガが僕を蹴る。でも僕は何も言わない。
「頑固だなマッドのクセに。チッ」
タイガは舌打ちしながら、僕のカバンを掴み上げ、中身を床にぶちまけた。ノートに教科書、筆記用具がバラバラと散らばる。
「ロクなもん持ってねーなぁ。財布もなけりゃ弁当もねぇし。全部ゴミじゃねーか」
タイガは笑いながらノートを踏みつけ、遠くへ蹴り飛ばす。カバンに大事なものは入れないようにしている。こいつが僕のカバンをよく漁るからだ。最初は僕も必死に抵抗したりしていたけど、今ではもうなんとも思わなくなった。
「ゴミは掃除しねーとなぁ」
僕の筆箱は廊下に蹴り飛ばされた。続いて教科書も放り投げられる。
「ったく、持ち主がゴミなら持ち物もゴミか。生きる価値、ナーシ。あ、そうそうマッドくん。今度から俺の前で狸寝入り禁止ね」
タイガはそう吐き捨て、ゲラゲラ笑いながら教室を出て行った。
痛みがようやく収まってきた。僕はのろのろと身体を起こし、散らばった私物を拾い上げる。廊下に筆箱を取りに行くと、教室のドア前で立ち尽くしている担任教師と目が合った。ホームルームの開始時間はとっくに過ぎてる。でも、こいつは教室に入らずにこんなところで突っ立ってた。
こいつはずっと、外から様子を見ていたんだ。ただ、見ていただけだった。教室に入れば、注意しなければいけないから。暴力を止めなければいけないから。だから教室には入らず、僕への暴力が終わるのをずっと待っていたんだ。
担任教師は、僕と目を合わそうとしない。気まずいのか、それともただ無視しているだけなのか。僕はそいつから視線を外し、筆箱を拾い上げて教室に戻った。
この学校に、僕の味方はいない。
一人も……いない。