プロローグ
その日。
僕は彼を殺し、彼は彼女を殺し、そして彼女は僕を殺した。
月明かりもない真っ暗な夜。吹く風は生温く、僕の身体をゆるりとなぞる。歩いていても汗はかかず、ただぼんやり暖かいという感覚のみがある。こんな夜に一人で外を歩いていると、どうしても無駄な考え事をしてしまう。
たとえば、こんなこと。
世の中には、二種類の人間がいる。まともな人間と、まともじゃない人間だ。そして、この二つのカテゴリに当てはまらない人間は存在しない。こんなのは至極簡単な話で、誰にだって理解できる。
難しいのは、果たして自分がどちらのカテゴリに属しているのかということ。自分ではまともだと思っていても周りはそう思っていなかったり、その逆だってあり得る。
そんな中で、自分がどちら側なのかを正しく理解できている人間は、この世の中にどれだけいるのだろうか。
ほとんど? 半分? それともゼロ?
割合に大した意味はない。僕らにとって大事なのは、何よりも自分のことだ。自分がどちら側の人間で、周りからはどう思われているのか。それが全てなのだから。
さて。それでは一体、僕はどちら側の人間なのだろう?
そんなことを考えて、僕は一人でため息をつく。考えるまでもない。そんなこと、今更考える余地もない。僕は自分に呆れながら、自分の持っているビニール包みに目をやった。
手の平に、感覚が蘇ってくる。先ほど自分のしたことが、鮮明に思い出される。
足下に横たわる一匹の犬。よく手入れされた毛、そして首輪。首輪には『ジョン』と書かれていた。野良じゃない、飼い犬だ。このツヤツヤの毛並みを見るに、きっと大事に飼われていたのだろう。今頃飼い主は、このジョンのことを探しているのだろうか。心配しているのだろうか。
そんなことを考えながら、僕は周りを見渡した。うん、誰もいない。ジョンの身体の下にビニールを敷き、準備は完了。ポケットの中の馴染みの感触を確認し、息を整える。
「よし」
ポケットから取り出したのは、大きめのサバイバルナイフ。ナイフのカバーを外し、狙いを定める。僕は一息の呼吸の後に、ジョンの喉元めがけて、思い切りナイフを突き立てた。そして一気に引き下ろし、腹を裂く。ザクザクと肉を引き裂く感触。ブチブチと繊維を断ち切る感覚。それらがナイフを通して、僕の掌に伝わってくる。
「……ぎひっ」
僕は歯をむき出しにして、口角を上げ、笑う。この感覚、もう何度目になるだろう。こみ上げてくる感情を必死に抑え込む。
「ぎっ、ぎひっ」
口から笑い声が漏れ出す。ダメだ、あまり物音を立てないようにしないと。こんな夜中だって、誰かが通りかからないとも限らない。
僕は手早く作業を進める。まず四肢を断ち、次に身体のパーツを関節ごとに切断し、さらに傷口から内臓を引きずり出し、ジョンの身体をただの肉塊へと変えていく。四肢と胴体、内臓。分けられたパーツは、さらに細かく切り刻まれ、徐々に原形を失っていく。ばらばらと、ぐちゃぐちゃと、解体されていく。
解体。それが僕の趣味。
完全に解体された死骸は、最早死骸とは呼べない。死骸とは、生前の姿を残していて、そこにかつてあった命の面影を想わせるものだ。ある意味、命の残滓とも言える。
しかし、僕はそれを殺す。命の残滓など欠片も残さず、一片の余地なく解体し、殺し尽くす。
「ぎっぎひっぎひひ、ぎっ」
気づけば、僕はよだれを垂らして笑っていた。声を抑えようと歯をきつく噛み締めているのに、口角は上がって歯はむき出しになり、声が漏れてしまう。
仕方ない。僕は声を抑えるのを諦め、急いで作業を終わらせることに専念した。
解体を切り上げ、最初に敷いたビニールの四隅を持ち上げて、風呂敷のようにして肉塊を包み込む。これでこの包みは、家庭用のゴミ袋程度の大きさになった。このビニールは僕の愛用品で、外から中身がほとんど見えない。誰かがこの包みを見ても、せいぜい生ゴミを入れたゴミ袋としか思われないだろう。さらに口をきちんと縛れば、臭いもほとんど漏らさない。まさに後処理にうってつけ。ホームセンターで見つけて以来、ずっと重宝している。僕は完成したビニール包みの外見をチェックし、首輪もきちんと見えない位置に包まれていることを確認した。
うん、完璧。これで誰が見ても、この中にジョンがいるとは思わない。ジョンは僕に解体され、その死は誰にも知られることはない。たった今、ジョンが死んだという事実は闇に葬られた。一片の余地なく消え去った。
僕は、ジョンの死を、殺した。
ここまでが一連の作業だ。死骸を解体し、ビニールに包み込む。もうこの作業もだいぶ手慣れたものになった。自分の手際に満足し、僕はナイフをポケットにしまった。
こうして作り上げた包みを持って、今僕は自分の家に向かっている。もう我が家は目の前だけど、このまま帰るわけにはいかない。
僕の家の、隣りの家。立派な二階建ての一軒家で、家の前に小さな門がある。門にはインターホンと表札。表札には『桜庭』と書かれている。僕の幼馴染、アヤちゃんの住む家だ。
僕は門の前で立ち止まり、二階のアヤちゃんの部屋を見上げる。カーテンが閉められているから中の様子はわからないけど、電気はついているみたいだ。もしかしたら、僕に気づいて顔を出してくれるかもしれない。そんな淡い期待をしてみたけれど、窓は堅く閉ざされたままだった。
うーん。残念だけど、今日はもう帰ろう。また明日、学校で会えることだし。
「アヤちゃん、気に入ってくれるかな」
そんなことを呟いて、門の前にビニール包みを置いた。最後にもう一度アヤちゃんの部屋を見上げ、心の中で呟く。
おやすみ、アヤちゃん。
また明日。
ピピピッ。ピピピッ。
「ん……」
いつも通りの朝。目覚まし時計の音で、目が覚める。もう少し寝ていたいけど、そうも言っていられない。そろそろアヤちゃんが学校に向かう時間のはずだ。
僕は素早く制服に着替え、身支度を整える。もちろん、ナイフとビニールも忘れない。この二つは常に持ち歩くようにしている。
準備を終え、窓を開けて外の様子を伺う。僕の部屋も二階にあり、アヤちゃんの家の全貌がよく見える位置にある。というか、そういう位置の部屋を僕の部屋にしたんだけど。
アヤちゃんはちょうど家から出てきたところだった。アヤちゃんは門を出ると、すぐに僕の置いたビニール包みに気がついた。そして、それを二階から眺めている僕に気づき、僕の方を見上げてくる。その表情は固く、視線は鋭い。まるで睨みつけられているみたい。
僕はにこやかに笑いかけ、手を振り返してあげた。しかしアヤちゃんの反応は悪い。すぐにそっぽを向いて、包みを近くのゴミ捨て場に持って行き、そのまま学校に向けて歩きだした。
「うーん……毎度のことながら反応が悪いな」
なんでだろう。絶対喜ぶと思ったのに。
しかしこの冷たい態度も慣れたもの。気を取り直して、早く学校に行かなければ。学校になんか行きたくないけど、学校に行かなきゃアヤちゃんに会えない。
僕は一階に下り、玄関に向かう。
「真士、朝ごはんは?」
家を出る直前で、母さんに声をかけられた。
「いらない」
「お弁当……」
「いらない」
僕の返答はたった一言。でもこのやりとりもいつものことだ。僕はそのまま外に出た。
急いで通学路を駆け抜け、アヤちゃんに追いつく。
「おはよう、アヤちゃん」
「ひっ!? お、おはよう、泥谷くん……」
「今朝のプレゼントは気に入ってくれた?」
プレゼントとはもちろん、あのビニール包みのことだ。どうしても感想が聞きたくて、追いかけてきてしまった。
「ぷ、プレゼントって……『あれ』のこと?」
「そうだよ。今日のは自信作だったんだ。外から首輪も見えないようにできてたし、中身が何かもわからない。完璧だったでしょ?」
「……」
「ん? どうしたの?」
「ね、ねぇ泥谷くん……もう、こんなことやめてよ」
「え?」
「もう、あたしに付きまとわないで……お願い」
「……? なに言ってるのさアヤちゃん」
「話しかけたり、しないで。もう近づかないで」
「どうして? 僕たち、幼馴染じゃないか」
「い、家が近いってだけじゃない……」
「そんなことないでしょ。昔から一緒に遊んでたじゃないか」
「あたし、怖いの。あなたが怖いのよ。もう関わりたくないの」
そう言ってアヤちゃんは、震える手でカバンからあるものを取り出した。
「……それは」
「もう……嫌なの」
アヤちゃんが取り出したのは、可愛らしいピンク色の果物ナイフ。護身用にもなりそうにない、そんな小さな代物。それをアヤちゃんはお守りのように握りしめ、僕を睨みつける。
「あ、あたし、本気だよ。い、いつでも、あたし……」
「そのナイフを、どうするの? 僕に使うの?」
「あたしはっ……!」
「知ってるよ。ずっと持ち歩いているんだよね、それ」
「えっ……!?」
「なんで知ってるんだ、って言いたいの? でも、知ってるのも当然じゃないか。僕は誰よりもきみのことを見てきたんだ。ずっと、見てきた。だから全部知ってるよ。アヤちゃんのことなら、全部知ってる」
アヤちゃんが後ずさる。僕から一歩でも離れようと距離を取る。しかし僕がそれを許さない。僕はアヤちゃんに歩み寄り、告げる。
「きみは、逃げられない。きみがそのナイフをどう使おうと、事実は変わらない。揺るがない」
「きみに最も相応しいのは僕だ。『あいつ』じゃない。それを早く認めようよ」
「い……いやっ!」
アヤちゃんは叫び、僕から逃げ出す。僕はそれを静かに見送った。無理に追いかけることはない。クラスは一緒なんだし、どうせ教室ですぐ会える。
焦ることはない。きっと、いつかアヤちゃんもわかってくれる。僕はそれを、ただ待てば良い。
僕はゆっくりと学校へ歩き始めた。