44.シドーニエの家
ふたりは海上から移動し、シドーニエは顔なじみの魚屋の男性にデビルフィッシュを渡し、己の屋敷にバルを連れていく。
転移魔術を使わずに徒歩で移動しているのは彼女なりのこだわりであり、連絡なしに押し掛けた形の彼はそれに従う。
茶色のフードつきローブで体と頭を隠し、仮面で顔を隠している男はいかにも怪しかった。
一緒にいるのがシドーニエだから人々は奇異な目を向けるだけで何も言わなかったが、そうでなければ領主の私兵が動いていたかもしれない。
「その恰好、やはり人目を集めてしまいますわね」
シドーニエはバルにだけ聞こえるように魔術で調整して話しかけてくる。
「仕方ないさ。素顔を出す気にはなれないからね」
彼の声にはあきらめの境地があった。
「どうしてです? 素敵なお顔立ちですのに?」
彼女の声には真剣な色が強い。
この手のことで冗談を言ったりからかったりしてくる女性ではない。
それだけにバルは苦笑してしまう。
「勘弁してくれ。顔がバレたらのんびり暮らせなくなるじゃないか」
「それは仕方ないのではありません? 八神輝とは抑止力でもあるのですから」
シドーニエの声にも彼とは別種の諦観がこもっていた。
八神輝は耳目を集めるし、若くて美しい女性となればさまざまな感情をぶつけられる。
彼女もすっかり慣れてしまった。
「八神輝になることは承知したが、そのあたりの件は承知していない」
「屁理屈ですわね」
バルの言い分を聞いた彼女はクスリと笑う。
彼は特別扱いされている。
理由は彼が最強だからという単純なものだ。
地上最強と謳われる男を帝国の戦力として数えられるのであれば、最高権力者である皇帝も貴族たちも大概の要求に応えるのは道理である。
それに彼の要求は実力に対してささやかなものだった。
シドーニエは実のところ彼をうらやましいと思うが、負の感情はみじんも持っていない。
彼のほうも承知しているからこその不意をつく形で訪問したのに、一向に悪びれていないのだ。
シドーニエの屋敷は海が臨める高台にある、白い建物である。
貴族の血を引く女性、もしくは八神輝の一員が住む家としてはずいぶんと小さく、庶民の賃貸住宅と大差ない。
しかし、彼女本人はとても気に入っている。
「いらっしゃいませ、バルトロメウス。私の家を訪れた殿方は、あなたが初めてですわ」
玄関の赤いドアに手をかけながら、シドーニエは笑顔で彼に告げた。
「……君の父上は来たことがないのかい?」
バルに聞かれた彼女は一瞬で真顔になる。
「あの男はカウント外ですわ」
今までのていねいな口調がウソのような、吐き捨てるような言い方に彼は己の失敗を悟った。
「すまなかった」
「いいえ。そのあたりのお話をあなたにした覚えがないのですもの。人のうわさ話だけで決めつけない点は素晴らしいと思いますわ」
ただちに詫びた彼に対して、シドーニエは再び笑顔を向ける。
「フォローが上手いね。見事なものだ」
バルが褒めると彼女はクスリと笑っただけで答えなかった。
家の中も二等エリアにある彼の自宅と大差ない造りになっているが、これは帝都の住宅としては一般的である。
それが嫌ならば金を出せというのが帝国の住宅事情だった。
「ただいま戻りました」
彼女が声をかけると、四十代後半と思われる狐人族の女性があわてて顔を見せる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お客様ですか?」
狐人族の女性は黒い目を驚いたように動かすと、シドーニエはにこやかに答えた。
「ええ、同じ八神輝のバルトロメウスよ」
「え? ええっ? えええええっっっ?」
狐人族の女性はよほど仰天したのか、目を大きく見開いて絶叫する。
シドーニエは素早く耳を抑えつつ、いたずらが成功した童女のような笑顔を浮かべていた。
バルは彼女以上のスピードで両耳をふさぎながら呆れていた。




