35.インヴァズィオーン
かつて魔界扉が開き、魔界の勢力が地上に侵攻してきたことがあったという。
トイフェルと名付けられた強大な力を持った悪魔たちの大攻勢の前に、七つの大陸のうち六つが制圧されてしまい、地上の生命は追い詰められた。
追い詰められた生命たちは種を超えて結束し、反攻のために勇士を募る。
危険な撤退戦に何度も志願して多くの命を救ったあげく自身も生還した人間の勇者ラインハルト。
その矢は数キロは飛び、雲を射抜くと言われた鳥人族の弓兵ブラージウス。
使える魔術は二千を数え、対悪魔用の魔術をいくつも開発したエルフの賢者デュオニュース。
巨大な岩を片手で担ぐ腕力と、無類の打たれ強さを誇った熊人族の重戦士フランツペーター。
悪魔の侵攻が始まる前は大怪盗という呼び名で知られ、戦いが始まってからは多くの生命を食わせるための食料の確保を分配に奔走する義賊に変身した小人族のギーナ。
回復魔術に関してはデュオニュースを凌駕し、聖人と称えられたグントラム。
水中戦では無敵と言われ、事実トイフェルすら一対一で倒せた経験もある魚人族最強の戦士ハンスイェルク。
彼らは危険の果てに魔界扉を閉ざすことに成功し、ついには元帥と呼ばれていた首魁を打倒し、世界に平和をもたらした。
「……『インヴァズィオーン』は余も幼少の頃何度も聞かされた話だが、まさか実話なのか……」
当代皇帝は私室にてバルから聞かされた内容に絶句する。
彼の近くに控える皇太子や近侍たちも同じような表情だ。
「デュオニュースこそがヴィルへミーナの祖先であり、『これは創作ではなく事実だ。また起こるかもしれない』と警告を遺言代わりに残したのだそうです」
「よくぞ知らせてくれた」
皇帝は一気に老け込んだように見えたが、まだまだ青い瞳からは強い光が消えていない。
「バルトロメウスやヴィルへミーナがうそをついているとは思わぬが……それでも信じられぬ」
アドリアンはうつむきながらけわしい声でぽつりと言う。
この場にいる者全員の気持ちを代弁したものであったことはバルも分かる。
「私も殿下と同じ気持ちです。しかし、万が一現実になってしまった場合、恐ろしいことになりかねません」
彼があえて否定しなかったせいか、皇太子も受け入れやすかったようだ。
「そうだな。だが、ヴィルへミーナはそれ狙いの割には敵のレベルが低すぎるとも言っていたのだろう?」
皇太子はミーナの特定の言葉を信じたいらしい。
彼の気持ちは分からないでもないが、この場合は現実逃避になりかねなかったためバルは仕方なく言い返す。
「だから実験をくり返しているのかもしれません。今は無理でも、いつかは引き起こしてやろうと」
これを聞かされた者たちは全員が真っ青になる。
「バルトロメウスの言うことはもっともだと思う」
皇帝は重々しくバルの発言を認めた。
「少なくと余たちはそれに備えておかねばなるまい。魔界の軍勢が敵と仮定した時、八神輝すら勝てるとは限らない存在がいるかもしれぬからな」
「八神輝が勝てない……?」
近侍のひとりが限界まで目を見開き、喘ぐように言う。
彼が恐怖する気持ちは皇帝にも分かる。
と言うよりも皇帝こそ最も考えたくない立場の人物だ。
八神輝は帝国最大戦力であり、ひとりで騎士団ひとつをも超える。
そんな彼らでも勝てないとなるど、どれほどの被害が出てしまうのか。
「バ、バルトロメウス様、バルトロメウス様なら……」
すがるような眼を向けられたバルは困ってしまう。
頼りにされて悪い気持ちはしないし、敵を倒すのは自分の立場だと分かっているが、伝承にしか登場しない存在に勝てるのかと言われても答えようがない。
「最善は尽くす。私が言えるのはそれだけだな」
「話が飛躍しすぎた気がするな」
バルの言葉にかぶせるように皇帝が発言する。
「まだインヴァズィオーンが起こると決まったわけではない。乱暴だが起こる前に敵組織を叩きつぶせばよい」
と言えば近侍の表情が明るくなった。
それくらい気づけない者がこの場にいるはずはないのだが、やはりインヴァズィオーンが起こるかもしれないという情報は、彼らの心に計り知れない影響を与えたのだろう。
(早めに伝えに来て正解だった)
あまり近づきたくない帝城に来た甲斐があったとバルは思った。
事前情報なしに起こってしまえば、帝国中枢が衝撃のあまりマヒしてしまったかもしれない。
だが、起こるかもしれないと覚悟しておけばずいぶんと違ってくる。
「礼を言うぞ、バルトロメウス」
皇帝に感謝の言葉を投げられ、バルは礼をもって応えた。




