125.北の異変
帝国の海の向こう。
北の大陸にある法国の辺境にて、ソレは起こった。
夜、草木も眠るころに黒い靄をまとった人影がするりと都市に忍び込んだのである。
「地上……ねたましい……にんげん……うらやましい……」
黒い靄は一つの家に入り込み、寝入った男性に覆いかぶさる。
声すらあげることなく男性は絶命した。
そして血の気が引いた顔で目を開く。
生前は青かったはずの瞳の色が赤黒く濁っていた。
「なかま……なかま……ふやせ……ふやせ……」
黒い靄の指示にうなずき、隣で寝ている妻の上にのしかかる。
苦悶まじりの悲鳴は小さかった。
黒い靄は入ってきた要領で家の外に出て、別の家に入り込む。
同じことを何度も繰り返し、靄は仲間を増やしていく。
「ちじょう、ちじょう、せめおとす……なかま、なかまふやす……」
夜が明ける頃、都市の多くの人々が生前のものとは違う赤黒く濁った瞳になっていた。
黒い靄は外に出てどこかに話しかける。
「団長……めいれい……やった……」
「よくやった。次にいけ。目標は都市四つだ」
団長と呼ばれた男の声は明瞭だった。
「りょうかい……つぎ、つぎ」
黒い靄は物陰に潜みながらゆっくりと移動する。
黒い靄が交信していたのは【魔界】だった。
「ヒルゲン団長。上手くいくと思うか?」
「さあな。わからんから試してるのではないか」
ヒルゲン団長と呼ばれた異形は同僚にぶっきらぼうに答える。
彼らは地上の侵攻に積極的な派閥だ。
元々は彼らが主流派だったのが、元帥ゲヴァルドゥが地上の何者かに敗れて滅びて以降、慎重派に逆転された。
地上侵攻は彼らの悲願だという点は両派閥とも一致している。
今すぐ攻め込みたいというせっかちな派閥と、時機を十分見てから動くべきだという派閥だと言ったほうが適切だろう。
「断片的な情報を集めた結果、地上の民どもは一部突出した力を持った者がいるだけだという」
「ならばこそ攻め込めばいいのでは?」
「突出した奴らとまともに衝突すれば被害が大きい。元帥が敗れる相手だぞ。我らでは瞬殺されてしまう」
ヒルゲンの言葉に相手は黙った。
魔界は完全に強さで序列が決まる実力至上主義である。
作戦立案能力も考慮したほうがよいのではないかという意見は、提案されるたびに無視されてきた。
作戦立案能力が考慮されるのであれば、ヒルゲンは将軍にはなれていただろうと自分で思う。
「だからまずは伝染・侵食タイプの雑兵を送り込む。じわじわ国の力を削いでいく。地上の民はどれだけ強くとも飲まず食わずではいられない。国の力が弱くなれば奴らの力も弱っていくのだ」
「迂遠だな。慎重派が好みそうな手口だ」
ヒルゲンは相手の指摘にうなずく。
彼は自分のやり口が周囲にどう思われるのか、自覚していた。
「俺は少しでも早く侵攻したいが、同時に被害は減らせるほうがよいと思ってる。少なくとも自分を瞬殺できる奴らと正面衝突は避けたい」
「それは否定できないな」
ヒルゲンの言葉に説得力はある。
魔界の民は好戦的ではあっても、自殺願望があるわけではない。
「迂遠なようでいても確実だぞ? 何しろこちらの雑兵は百万を超えるし、勝手に増える。定期的に送り込んでやれば奴らは疲弊していくだろう。そして寿命でも死ぬ」
とヒルゲンは言ってにやりと笑う。
相手も笑ったが、すぐに笑みを引っ込める。
「ところでなぜ北のほうを選んだのだ? 大敵は帝国とやらなのだろう?」
「帝国とやらはたしかに強い。対応も迅速だ。しかし、すべての国家がそうではない。帝国とやら以外が脆くなってしまえば、実質帝国対魔界という構図に持ち込める」
ヒルゲンは自身の狙いを語った。
「帝国は他国を救うため疲れるだろう。助けないなら孤立していくだろう。そこを叩く。これこそ上策というものよ。何も万全な相手と戦う必要はない」
「さすが策士ヒルゲンだな。同じ元帥を主とあおぐ戦友でよかったと思うわ」
相手の称賛をヒルゲンはうなずいて受け止める。
「敵を弱らせたあとは貴殿の出番だぞ、ヒューゴー将軍」
「わかっておる」
ヒューゴー将軍はうなずいた。
組織の序列で言えばヒューゴーのほうが上司なのだが、彼らは生まれた時から友達付き合いしている。
他に誰もいない場所では子どもの頃のようなやりとりをしているのだった。
「それによかったのは我らが元帥殿、そしてその上の公爵様が慎重派で俺の考えに理解がある点だな」
「それは違いない」
両名は笑いあった。
……魔界でそのようなやり取りがおこなわれた後、法国では三つの都市が壊滅的打撃を受けた。
政府はようやく気付いて軍隊を派遣して鎮圧したものの、大きな被害が出たことには違いなかった。




