雪国に花が咲く
自分の目の前に広がる雪原に赤い花が咲いて、ようやく自分が口の端を切っていることに気が付いた。あまりの寒さに皮膚が切れたのだ。しかし、このチクチクとした痛みがなければ、自分はとうの昔にここに倒れて息絶えていただろう。痛みが霜で重くなったまつ毛をどうにか持ち上げて、体を起こした。気付け用の酒はもう空になってしまった。氷漬けになっているかのように動かない四肢を懸命に動かして雪原を歩く。人ひとり姿がない。遠くにほんの少しだけ見える灯りを頼りに、歩いた。
何のためにここまで生きているのかわからない。あの戦争の最中、僕は何度も死のうと思った。こんなこと無意味だと思ったし、友達が何人も死んで、家族も亡くした。偶然生き残ってしまって、何もかもが嫌になった。生きていたって仕方ないってそう思って。でも、いつも誰かが見つけたり道具が見つからなかったり用事が入ったりして、結局戦いの終わりをこの目で見届けてしまった。その後、僕は郵便局に入って……そうだ、手紙を頼まれたんだ。本来なら雪馬車が届けるんだけど、非常事態だからと下っ端の僕に仕事が回ってきたんだ。戦いが終わって、国に住む二つの種族は片方を全滅させることで終結した。法制が変わって、お金は戦費に使ったからほとんどないし、交通手段も道路がぐちゃぐちゃだから使い物にならなかった。僕の働く郵便局の局長さんは熱い人で、戦いの間もずっと手紙を届け続けたらしい。その点は尊敬する……するが、この雪の中ではそんな熱血ですら凍ってしまいそうだ。
身が切れそうなほど強い風が吹く。思わず体勢を崩して雪に体が埋まる。もうだめだ。ここから一歩だって動けない。手紙を。手紙を。誰か。僕のことはどうでもいいから――
目を覚ました時、温かい空気が自分を包んでいて、てっきり僕は死んだのかと思っていた。でも、天国にしてはリアリティのある風景で、木で作られた天井があって、パチパチとはぜる音がして。暖炉だろうか。ところでここはどこだろうか。体がだるい。長く目を開けていることもままならない。もうひと眠りしたらどこに行ってしまうのだろうか――
「起きたか」
「え、あ」
突然、視界に入ってきた男は茶色の口ひげを生やしていて、髪が白かった。急なことで焦点の合わない目がククンッと動いてよく見えない。
「……その様子ならそのうちはっきり見える。手足も大丈夫そうだ……まさか雪山で長い時間いたというのにここまで無事とは……」
「ここは天国ではないんですか」
「何をばかげたことを。ここは地獄よりもつらい人間界だ」
「……生きてる?」
「ああ、生きている。俺が拾った」
「……手紙!」
ここで僕はようやく意識がはっきりとしてきて、忘れかけていた手紙の存在に気が付いた。こんなことでは郵便局員失格だ。飛び起きようとして体に力が入らず、すぐに仰向けに戻る。そうか、僕が寝ているこのふかふかとしているのは布団か。首だけ横に向けると、男が振り向くのがわかった。どうやら先ほど口ひげだと思っていたものはあまり綺麗とは言えない茶色いスカーフのようだ。
「そのことか。先ほど届けておいた。偶然にも俺の近所だったからな」
「……ええっと、あの、ありがとうございました……」
こんなこと局長に報告したら、「赤の他人に、しかも利用者に郵便物を届けさせる郵便局員とは何事だ!」と怒られてしまうだろう。それに、この人が本当に手紙を届けたどうか分からない。
「あの、僕はどうしてここに……」
「わからんか。俺が拾って来たんだ」
「ほんとになんとお礼したらいいか……」
「構わん。帰り道に死体など見たくなかっただけだ」
「ここはどこでしょうか」
「マアシュヌ。お前が届けたがっていた住所の国だ」
そうか、僕はこの国を目指していて、それで……。いや、まだこの場所がマアシュヌの国内であるとは限らない。この男が僕に真実を告げているなんて可能性はほとんどないんだ。僕は懐剣に手を伸ばした、が。
「お望みのものはこれか」
「ッ、返せ!」
「先ほどまで大人しく寝ていたというのに、これを俺に向けたら真実か否かどうかわかると? その体で俺に勝てると、そう思っているのか。馬鹿な奴だ」
「――くそっ」
「お前はここで寝ていればいい。完全に回復してから俺に刃を向けることだな。今のお前では話にならん」
男は嘲るように目元を細めて眉を上げた。かあっと体が熱くなって僕はきつく目を閉じた。
目を覚ますと、次はぴたりと天井の木目が見えた。男の姿を探すと、男は暖炉の前で読書をしていた。
「どうだ、調子は」
「結構よくなりました。ちゃんと見えます」
「そうか。それならよかった」
立ってみろ、と言われ、そろそろと地面に足を延ばす。立てたが酷い立ちくらみで、男が支えてくれなければ倒れていただろう。僕の身長と体重は同い年の、十七歳の平均くらいなのだが、明らかに年上の男の――病弱そうに見えない太い腕が僕を支えながら震えていて、少し不思議に思った。
「ええと……ありがとうございました……それでは僕は……」
「お前雪国なめてるのか? 死ぬぞ?」
「で、でも僕は早く帰らないと……」
「家に帰る前に土に還ることになるぞ。いいから泊まっていけ」
正直引き留められたのはすごく嬉しかった。口ではああ言っておきながら、外に出ることが怖かったのだ。暗いし、寒いし。獣なんていたらたまったものじゃない。僕はああいった肉食動物は特に苦手なのだ。腕や足をもがれたり、腹を食い破られる痛みなんて想像しただけでも胃がムカムカする。
「お礼は……おいくらですか……?」
「雪山で死にかけてる人間を助けて金をせしめなきゃ生きていけないほどじゃねえよ。安心しろガキンチョ。お前が元気ならそれでいい」
「どうして僕を助けてくれたんですか?」
「雪山で死にかけてたから。それだけだ」
男は僕に背を向けてスタスタと歩き、左奥に見える扉の向こうに消えた。ベッドに座ってしばらく考える。
「まさか僕を使ってあの郵便局を襲おうってわけじゃないだろうな……」
もしかして、今入っていった扉の向こうには仲間がいるのかもしれない。僕の働く郵便局はそんなにすごいところではないので、脅したところで手に入るかねなんてたかが知れていると思うのだが……。先ほど生活苦ではない様なことを言っていたが、生活苦じゃなくてもそういった犯罪行為を楽しむ人たちがこの世にはごまんといる。戦争も、そんなところがある。非日常になった瞬間、人は自我を保つことが苦しくなるもので、それが戦争ならなおさらだ。あらゆるもの、権利を剝奪され、自らの命さえ差し出す状況。目の前でさっきまで動いていた人が殺され、家族が殺され、友人が殺されたりなんかして、それでもなお生きている自分を見て、果たして人は正常でいられるんだろうか。僕は、そうは思わない。今はどうにかして死にたいって、時々思う。でも、最近は、もうそう思うことさえめんどくさくなる時間がふっと訪れる。思うがままに流されるように生きていけば、いつかは寿命が来る。そのときに僕は死ぬことができる。局長はそんな状態の僕に一番最初に気が付いてくれた人だ。馬車にひかれようと飛び込んだ時、強い力で後方に引っ張られた挙句、半ば無理やり連れてこられた郵便局で、「せめて、死ぬまでの時間をここで過ごしてみないか」と、悲しそうに言われたことを今でも思い出す。他の局員さんに聞いたところ、僕は戦争で亡くなった、所長の一人息子によく似ているのだそうだ。
ぼうっと考え事をしていると、例の左奥の部屋から物音がして、現実に戻された。懐に手を伸ばして、そういえばさっき取り上げられていたことを思い出す。そっと拳を固めて、胸の前でファイティングポーズをとる。僕は、寿命が来るまで死ねないんだ。
「飯だぞ……って何してんだお前」
「えっ、いや、あの……」
「毒は入ってないぞ」
「い、いただきます……」
焼いたパリムの香ばしい匂いと、あたたかい野菜の匂いに腹の虫が鳴きだして、拳を開いてから男が料理を置いたテーブルに向かった。
「久しぶりの客だから、一般的な味がわからなくてな……味がおかしかったらすまない」
「いえ、お食事まで頂いてしまって……ありがとうございます」
「なんか年に合わねえような言葉使うよな。もっとくだけた口調でいいんだぞ?」
「僕は、今のところ郵便局員ですので」
「そうか。まあ別にお前がそれでいいならそれでいいけどな」
別に郵便局員だから必ず敬語を使えというわけじゃない。単に男といる時間が長いせいで、僕が気を許してしまいそうになるからあえてこうしているだけだ。気づいているのかいないのかは知らないが。
食えよ、と言われたので、料理に手を伸ばした。銀製のフォークしか見えないあたり、全部これで食べなければならないのだろう。幸いにも器は全部フォルクの先が当たってもキイキイ言わないタイプのものだった。二つのパリムと、野菜入りの白い汁物。焼いた肉。何年ぶりに食べる豪華なディナーだった。パリムはふかふかで、口に入れた瞬間香ばしいオーグ麦の匂いが広がって嫌というほど焼きたてを想像させた。
「この汁物は何ですか?」
「チャウド。ユシュウの乳を野菜と煮て、だしを入れて作るスープ。そっちはユシュウ肉を焼いただけのだ」
チャウドを口に入れる。少し獣臭さがあるが、野菜が良く溶け込んでいて、だしの風味を感じる。一般的な味がわからないとさっき言っていたが、なんだったのだろうか。
ユシュウ肉も、焼いただけと言っていたが、香辛料が絶妙に効いていて、骨付きのそれにかぶりついた。美味しいことを告げると、少し目を細めて男が笑った。こう優しく笑ったことがあまりなかったのだろうか、笑顔が少し引きつっていた。
お腹が満たされたところで、少し笑いながら男が訊ねてきた。
「お前、名前はなんていうんだ」
「クシュール・セクリフェスです」
「年はいくつだ」
「十七です」
若いな、と男に言われてから、なぜ僕は本当のことを告げてしまったのかと後悔した。いくらなんでも流されやすすぎる。いくら悪意を感じないからといって、そんな気持ちを読み取るような魔法なんてないのだから雰囲気だけで信用しない方がいい、と友人に言われたこともあるというのに。沈黙を破るように僕は男の名前と年齢を訊ねた。顔を伏せたままの僕に、少し硬い声が聞こえた。
「ヤロスラフ・アルジャコワ 三十四歳」
「お一人で住んでいるんですか?」
「ああ」
「ご職業は何を?」
「……研究者だ」
「何を研究されてるんですか」
「……植物だ」
なんとも歯切れの悪い返答に何かを隠しているのかと、少し不思議に思い顔を上げたが、その疑いはすぐに消えた。
「どうしたんですか?」
「なんだ」
「すごい顔してましたよ」
「すごい顔とはなんだ」
「これ以上聞くのはやめておきます」
人には誰しも知られたくない秘密というものがある。それを根掘り葉掘り聞くことは例え気心の知れた友人に対しても、家族に対してもしてはいけない。ヤロスラフさんは、ひどく悲しそうな顔をしていた。こんな草一本生えない凍土で植物の研究をしている理由はわからないまま、気まずい雰囲気で食事を終えた。
「客に皿洗いをさせるわけにはいかない」と、てきぱき片付け先ほどの左奥の扉の向こうに消えていった。
また時間が空いてしまった。こうも自由な時間が多いと少し周りにも目を向けてしまう。自分が今いるのは暖炉の前。男が別の部屋から持ってきた椅子は少しガタついていて、座れないほどではないが、前に後ろに揺らすとガタガタするので、椅子から立って歩いてみた。暖炉の近くには先ほどまで夕飯を食べていた机と椅子があり、真後ろにベッドがある。壁の右端には四人掛けのソファがたくさんのものを抱えて鎮座している。もう座られることはしばらくなかったのだろう。右奥は玄関で、先ほどヤロスラフさんが入っていった左奥の扉はキッチンにつながっているのだろう。ここは男が一人で住むには少し広い空間だ。男一人しか住んでいないはずなのにダブルベッドは合わない。他に誰か住んでいたのだろうか。絨毯も、柄がところどころズレていたり、糸がよれていて、手作りであることを想像させる。ヤロスラフさんが作ったのかもしれないが、大抵こういうのは女性がするイメージがある。女性がいたのだろうか。
絨毯を触っていると、ヤロスラフさんが戻ってきた。
「何かあったか」
「いえ、何も」
「いい時間だし寝るか。お前はベッドを使え」
「いえ、そんな!」
「男二人でそのベッドはキツイぞ。いいから寝ろ」
ヤロスラフさんはそういうと、ベッドの隣にあるクローゼットを開けていくつか布を出してソファに横になり、目を閉じた。
「あの、ヤロスラフさん……?」
「いいから寝ろ。お前明日帰るんだろ。少しでも寝ておかないと死ぬぞ」
「ありがとうございます……」
これ以上話しかけても、もう何も帰ってこないと判断して、僕はベッドに横になった。
次に目が覚めた時、ヤロスラフさんは部屋にいなかった。一晩寝ていても傷一つついていないので、僕はすっかりヤロスラフさんを信用していた。外はまだ太陽が昇っていなくて、部屋は暗い。どこへ行ったのだろうと辺りを見渡していると、左奥の扉が開く音がして、ドスドスと歩く音と共に「クシュール、朝だ」と声がした。「おはようございます」と返すと、「起きてたのか。おはよう」と帰ってきて「待ってろ、今朝食の準備をする」と、続いたので「手伝わせてください!」と言うと、少し悩んでから「まあ、構わない」と帰ってきたので、急いで着替えてヤロスラフさんと左奥の扉の奥に入った。
想像通り、やはりそこはキッチンで、やはり男一人で生活しているとは思えないような物の多さだった。カップは二つ、器も二つ、そのほかの食器も二つずつで、まさか客人のために用意したとは思えない。そして、やたら量の多い香辛料。どれも南方の香辛料大国にあるものばかりで、男が料理好きなのか、はたまたやはり誰かいて、その人の好みだったのか想像してしまう。それに、先ほど出てきたにしてはなんの準備もされていない。ここにはキッチンしかないのに。
「たくさん調味料がありますね」
「料理が好きだからな」
「何をお手伝いすればいいですか?」
「お前どこまでできる」
「自炊しているので、一通り」
「そうか、偉いな。じゃあそこにあるユシュウ肉の燻製を焼いてくれないか」
「わかりました」
焼いていると、寒気がして、絨毯越しに床から冷気が来ていることがわかった。それに、先ほどから床下でひゅうひゅうと風の吹く音がしている。下は空洞なのだろうか。
「この下って空洞なんですか?」
「まあそんなところだ」
「家崩れませんか?」
「支えるべきところは支えている。問題ない」
「そうですか」
いつもの僕なら変な建築だなあと思うところだったが、今までのことから、この下に何かあるような気がしてならなかった。それが何かを考える前に燻製肉が焦げそうになっていて、慌てて皿に移したので、すっかり忘れてしまった。
朝食も昨夜の夕食に負けず劣らずの美味しさで、腹を満たした僕は、少しだけ帰るのが惜しくなってしまった。こんな美味しいごはん、家ではきっと作れない。謎は深まるばかりだが、ヤロスラフさんはきっと悪い人ではないだろうし、ベッドの寝心地も良かった。良い点を上げればキリがないが、全てに謎が付きまとって、僕は気になって仕方がなかった。
「何から何までありがとうございました」
「礼を言うのはまだ早いぞ。外に雪馬車を準備している。送ろう」
「そんなことまでしていただくわけには……!」
「辿り着けなかったやつが何を言うんだ。買い物をするからそのついでだ」
「ありがとうございます……」
「あとこれだ」
そう言いながらヤロスラフさんは一つの封筒を取り出してきた。
「うちの長からだ。お前のとこの郵便局長に渡してくれと。郵便局員のために、雪馬車を一台準備してやってほしいとの要望だ」
「ええっ、そんなことまで……」
「なんだ、いらないのか」
「いります! ありがとうございます!」
国、と言えど小規模で、村みたいなものだ。それでも長からの要望はこの国の要望で、僕が局長にお願いするよりもずっと力がある。
「本当にありがとうございました」
「手紙、忘れるなよ」
そういってヤロスラフさんは馬車を馬車置き場に泊めて、「じゃあな」というと人で賑わう市場に入ってしばらくすると見えなくなった。
「クシュール・セクリフェスです。ただいま戻りました」
「クシュール! 無事だったか!」
「心配していたんだぞ!」
「何事もなくてよかった!」
「いったい何があったんだ!」
郵便局に戻ると、様々な声に出迎えられた。駆け寄って僕の体に触って存在していることを確かめたりとか、慌てて局長を呼びに行く人とか。利用者のおばあさんに「あなたがいないせいで、今日一日ピリピリしていたのよ」と笑いながら言われて、うれしいながらも少し恥ずかしかった。奥の局長室から局長が出ていて、「大事ないか」と聞かれたので「はい」と頷くと、「疲れただろう、配達ご苦労だった。今日は帰って休んでもいいぞ」と、少し微笑みながら肩を叩かれた。あまりに上機嫌だったので、郵便物を別の人に渡してもらっていたことは言えなかった。
「局長、マアシュヌの国長さんからお手紙を預かっています」
「わかった、あとで読もう」
「それと……」
「それと?」
「僕を、雪国地帯の専属配達員にしてください」
あの日からほどなくして、すぐにマアシュヌへの配達物が届いた。雪国専属配達員に任命された僕は、何度か使った郵便局所有の雪馬車に荷物を載せて、出発した。もう一つ、菓子折りも個人的に持っていくことにした。もちろん、ヤロスラフさんにだ。
「こんにちはー、郵便局です」
「はーい」
ガチャとドアを開けた女性は僕の顔を見ると、少し顔を強張らせ、荷物を受け取ってすぐにドアを閉めてしまった。僕を見て何か思い出したのだろうか。少し不思議だった。最初に向かった国長さんは、喜んで受け入れてくれていたのに。そのあとも三軒配達に行ったが、三軒とも似たような対応だった。違和感を感じながらノックした四軒目で、ついに僕は違和感の正体を知ることになる。
「あなた、ちょっと前にアルジャコワさんの家にいた子でしょ。あのときの郵便物、ちゃんと受けとったわ」
綺麗な黒髪を緩く束ねた五十代くらいの見た目をしたご婦人だ。「はい、僕です」と、答えると、「ちょっとお上がんなさい」と言われ、玄関に入った。郵便物はちゃんと届けられていたみたいで、胸をなでおろした。
「アルジャコワさん、昔からあそこにいるんだけどねえ。私も付き合い長いのだけど、愛想が悪くて、ちょっと嫌われているの。奥さんがいたときはもっと普通だったんだけど……」
「奥さんいたんですか?」
「ええ、そうよ。かわいい奥さんでねえ。吹雪で立ち往生していたキャラバンを助けた時に乗っていたその子にアルジャコワさんが一目ぼれして、割とすぐに結婚したわ。でも、この国は流行り病に襲われてね。奥さん亡くなったのよ。それからね、今まで必死に働いてたアルジャコワさんが、急に仕事をやめて引きこもっちゃって。聞けば研究者になったとか。私は外から来たからわかるんだけど、この国には、研究者とか錬金術師とか、そういったちょっとおかしな人間を好まない人たちが多くてね。今でも魔法使いを信仰しているの。あなたの国の魔法使いが戦争で全滅したって聞いた時、この国の人間はかなり落ち込んだのよ。まあいいのよこの話は。それでね、アルジャコワさん、決して悪い人ではないんだけど研究とか始めて、家から一歩も出なくなって、評判はガタ落ちね。それに、この国にはこの国の死者の弔い方があるんだけど、それも彼は拒否して。私たち、奥さんのご遺体を一度も見たことがないの。それもあって、気味が悪いからって結構避けられてるの。だからあなたもこちらとしては、ああ、私を抜いてね。受け入れにくい存在なの」
「そうなんですか……」
おしゃべりなご婦人に礼を言って去ろうとすると「あなたも彼には気を付けてね」と言われた。なんだ、結局この人もヤロスラフさんが苦手なんじゃないか。
しげしげと舐めるように見られながら五軒目を終えて、残ったのは僕のだけになった。遠い地域や、日帰りが困難な地域は事前に申請すれば、必要な日数泊まってから帰ることが許されている。僕は今日だけ泊まって帰る予定だ。雪馬車を引いてくれたフューガにも餌をやらなくてはならない。僕は、思い切って奥さんのことを聞いてみることにした。そして、あのキッチンの床下にはきっと真実が隠されているんじゃないかとも考えた。もしそれで追い出されたら、雪馬車の中で寝ることにしよう。
人の秘密を探ってはならないと、あれほど自分に言い聞かせていたのに、僕はまた自分の好奇心に負けてしまう。
「お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだな。俺に郵便でも来たか」
「いえ、あの、これ……」
「ああ、ありがたく頂戴しよう」
「それでですね……非常に言いにくいのですが……」
「泊まるか?」
「お願いします……」
この国は外から人が来ることはまずないので、宿泊施設がない。よって僕は誰かの家に泊まるか、雪馬車の中に泊まるしかなく、先ほどの住人の対応から察するに、僕はヤロスラフさんのおうちか雪馬車の二つしか選択肢がなかった。
フューガにも餌をいただいて、僕も夕飯を手伝い、夕飯を食べ終わるころには、僕とヤロスラフさんはいろいろな話で盛り上がっていた。
またベッドを使わせていただき、寝る前になって、漸く聞く決心がついた。
「奥さん、どこにいるんですか」
「……天国だ」
「キッチンの床下は何ですか」
「……何もないと前回言ったはずだ」
「奥さんを、研究に使ったんで」
「そんなことはしていない!」
ソファに横になっていたヤロスラフさんが飛び起きて、初めて聞く大声を出した。本人も久しく出していないのだろう、しばらくせき込んでから、次は「そんなことはしていない」と静かな声で言った。部屋の明かりは落とされているので、顔は見えないが、相当怖い顔をしていたに違いない。
「どこまで知っている。誰に聞いた」
「奥さんとの出会いから、奥さんが亡くなって、ヤロスラフさんが研究者になるまでです。以前僕の代わりに届けていただいたあのおうちのご婦人に」
ヤロスラフさんは大きくため息をつくと、「明日答えを教えてやる」と言って、衣擦れの音がした。「わかりました」と言って、僕も横になった。明日の朝、痛みで目を覚ましたくはないと思った。
思ったより普通に朝は訪れた。僕の心配は杞憂に終わったらしい。ヤロスラフさんは朝食を食べ終わるまでずっと不機嫌で、ためいきも何回かついていた。
「こっちにこい」とヤロスラフさんは左奥の扉を開けて、僕はそこに入った。床に敷かれていた絨毯をヤロスラフさんがはぐって、人ひとり分が入れるくらいの床下扉が現れた。扉を開けてそこにあった梯子を数段降りてから、僕に「ついてこい」と言った。外とつながっているのか、凍るような風が吹き付けてきて痛い。なんとか降りると、小さな部屋だった。ヤロスラフさんが近くにあったランプに火を入れて、周りが明るくなった。足元にたくさんの植物が鉢に植えられていた。奥にはテーブルがあり、ごちゃごちゃとしていて、壁が見えないくらい本棚があり、そこにはびっしりと本が詰まっていた。そして、壁の一か所に切り取られたようにぽっかりと空洞があり、そこから外につながっているのだろうと考えた。
ヤロスラフさんが無言でその空洞に向かって歩き始めたので後に付いて歩く。土をくりぬいたようなところをしばらく歩くと突き当りがあり、雪が地面に少し積もっていて上から梯子が降りていた。ヤロスラフさんがそこを上るので、ついて上る。体が全部出てから、周りの状況がすべてわかった。山に囲まれた雪の上で人が倒れていた。慌てて駆け寄ってみると、その人は綺麗な、しかし雪国には似合わない軽装備で、キッチンに置いてある香辛料の原産国の民族衣装だった。肌は黒く、髪は艶やかな黒。眠るように目は閉じられていて、胸の前で手が組まれている。もしかしてこの人……
「俺の、妻だ。死んでいる」
「どうしてここに」
「雪が好きなんだ。それにこの場所は人が来ない。獣も来ない。毎日妻に、リリーシャに、降り積もる雪を払いのけてから一日が始まるんだ」
「なんで、奥さんは綺麗な状態なんですか」
「そういう処置を長に施してもらった。長は魔法使いだ」
「あの……すみませんでした」
「別に、いい。あのまま疑われて帰られるよりマシだっただけだ」
「それで……研究も、奥さんと何か関係があるんですね」
「いったん戻ろう。風が強くなってきた」
ヤロスラフさんは自分の身に着けていたストールを奥さんにかけて、先に地下へと降りた。もう一度、奥さんの方を振り返って、僕も梯子を下りた。
「妻は花が好きだった。生まれた国では花に囲まれた家に住んでいた。だがここに嫁いできて、花を見ることがなくなった。死ぬ時もずっと花が見たいと、そう言っていた。俺はこの国を出ることはできない。外の世界はあまり身に馴染まないんだ。だから、凍土でも咲く花を研究している。妻が話していた。この世は俺の想像より遥かに広いと。世界中を探せば、欲しいものは必ず手に入ると。絶対に無いものなど無いのだと。だから、俺は凍土でも咲く花を作り続けている。長がいろいろと探してくれていたが、どうやら今のところは世界のどこにもないらしい。なら、この場所を世界のどこかにすればいい。いつの日か、必ず凍土に咲く花を作ることが、俺に与えられた使命だ」
初めこそはボソボソと喋っていたヤロスラフさんは、話を続けていくうちにだんだんしっかりしゃべるようになって、僕は素直に、誰かのために生きられるってすごいな。と思った。僕も、誰かのために生きられるようになりたい。誰かのために残された時間を使いたい。
――ヤロスラフさんに、僕の時間を。
「その研究、お手伝いさせてください」
「もっとこの国に来づらくなるぞ」
「この国の専属配達員は僕です。僕を追い出したら不便なのはみなさんです」
「お前結構出るとこ出るよな」
「お手伝い、させていただけますか」
「報酬は弾めないが、それでもいいなら」
「銅貨一枚もいりません。ヤロスラフさんが誰かのために生きたことが証明できれば、それで十分です」
僕たちは固い握手を交わした。
魔法使いと人間が共存する国の魔法使い町で僕は生まれた。母と姉が魔法使いで、父と僕は人間だった。片方が人間だと魔女の血の入った人間が生まれる。僕もその一人で、この国ではそういう子供が多かった。僕含め片人間は目が金色で、髪も色素が薄くなる。取り分け僕は薄くて、ほとんど白に近い灰色だった。家族仲良く暮らして、路地裏の寂しい家にも笑い声が色を付けた。
お隣には一歳上の魔法使いが住んでいた。ミル姉と呼ぶその人は、僕ら路地裏の子供たちの中でいつだってトップスターだった。お父さんとお母さんと一緒に買い物に行っている様子はとても幸せそうだった。みんながみんなそれぞれに幸せに包まれて生きていた。戦争が始まるまでは。
人間が魔法使いを滅ぼそうとしたのだ。武力で。魔法使いも多く人間を殺したし、人間も魔法使いを殺した。僕の家にも襲撃してきて、気絶していたのを死んだと勘違いされて、僕は一人だけ生き残った。路地裏は怒号と悲鳴にまみれていて、花を咲かせるような話題もなければ、笑い声で色づいた家も見えない。無機質な灰色の中で僕は怯えながら暮らした。
ある日の深夜、何やら物音がして目が覚めた。こんなご時世だ。物音がしても何ら不思議ではない。自宅なら角材の一つでも持って見回るところだが、音がしたのは外で、僕は破けたカーテンからそっと外を覗いた。小さな頭が二つ。一つは目を凝らさなければ見えないくらい真っ黒で、もう一つは揺れる金髪だった。一瞬だけ金髪の子の顔が見えて、その顔は僕をこんな状態にした国王の妹だった。きっと黒い頭はミル姉だ。なんで、その二人が? ついに王国は王族を出してきたのか? 気になって眠れない夜が続いて、二人を問いただして、秘密を暴いた。その心配はただの心配で済んだ。どうやらわけあって二人は一緒に住んでいるらしい。僕は全てを知って安堵した。二人の表情は、あとから思えばとても悲しそうだった。あのあと、ミル姉に少し諭されて、僕は漸く自分の間違いに気づいた。思えば、僕は近所の住人の秘密を、推理して問いただすことでほとんど知っていた気がする。
戦争も終結を迎える三年目の冬、ミル姉が突然僕を訪ねてきた。そのころ、周りの家には全然知らない子供たちが住んでいた。みんな逃げてきたのだという。隠れるように近隣の家に行っては、会話をしたり、遊んだりしていた。秘密は仲良くなって、自分と相手との間に信頼関係が結ばれれば、自ずと明らかになると、実感したのはこのときだった。手渡されたのは青色に透き通った液体の入った小瓶。「成功してるかどうかわかんないけど、寿命まで生きられる薬。あと、自分の寿命を何年か削るとその分だけ魔法が使えるようになる効果も付けた。余ったからあげる」ありあわせのもので調合したという薬を押し付けられた。ミル姉は少し先の未来を見通すことができるらしい。
「しばらく離れるから。じゃあね。今までありがとう」
「ミル姉、死ぬなんて言わないよね?」
「まさか、ちょっとの間離れるだけよ。すぐ会えるわ」
「ミル姉、抱きしめてもいい?」
「いいわよ」
これが最後の挨拶になることは心のどこかで思っていた。だから僕は昔みたいに抱きしめた。この腕を解いたらミル姉はきっと二度と会えないところに行ってしまう。それが嫌でいつまでも解くことができなかった。ミル姉は子供の時のように頭を撫で、額にキスを落として、もう一回頭を撫でた。魔法にかけられたみたいに僕の腕がほどかれていく。解放されたミル姉は、笑顔を見せると「じゃあ、また会いましょう」と言って部屋を出て行った。「また、会えるよね」と聞いたら「もちろん。遅かれ早かれ絶対会えるわ」と、言って自分の家に走って帰って行った。僕はその薬を飲んだ。迷いもなく。別に寿命が何歳かなんて決まってない。死ぬときに人は死ぬのだ。死なないときに死ぬなんてないのだ。ただ、僕だって魔法が使ってみたかった。自分の命も減らせて、魔法も使えるなんて、僕にとってはうれしいことでしかなかった。最初にしたのは家族を復活させること。でもできなかった。僕の残り寿命では足りないらしい。家族をよみがえらせられないなら死んでやると思っていたのに、局長に拾われてから、少しずつ「誰かのために魔法を使おう」としている自分がいる。誰かのために使うことは非常に僕の心を満たした。偽善者だと思われても仕方のないことだけど、僕はそれが好きだった。でも、寿命を減らしてそれを使っていることは言わなかった。魔法使いが生きていることも、魔法使いを擁護してくれる人以外には絶対に魔法を使っているところを見せるわけにはいかない。いつしか僕は「誰かのために魔法を使って寿命を減らそう」としていた。それで死ねたら万々歳だと思った。きっとそうすればみんなに会ったとき褒めてくれると思うから。
「できそうか……?」
「あと少しです」
ヤロスラフさんの今までの実験結果と彼の知識と長の魔法の知識でなんとかそれらしいことは考えられたのだが、いかんせんそこにたどり着くまでは、ただの人間には難しかった。そこで魔法の出番が来た。耐寒性の強い種を作り、このあたりの氷より冷たい温度で凍結させることで、あたかも氷の方が暖かいと錯覚させるのだ。咲く花の品種は、こだわりにこだわりぬいた結果、奥さんの着ていたショールのようなものに特に多く刺繍されていた花になった。仕事では必死に頼み込んで、前倒しで休暇をもらい、三日目の今日、研究室にこもっている。
「驚いた。まさか魔法使いがまだいたなんてな。あの国に住む魔法使いは全滅したと聞いていたが……」
「僕は運よく助かったので」
「よかったな」
「本当に」
その言葉は本心であり、本心ではなかった。もし、と考える思いと、だから、と考える思いが交差する。僕がどっちを進むかは日によって違う。今日はだからの思考なのだろう。
「あとはこの状態で二晩置きましょう」
「わかった」
金銭の報酬はいらないと言ったら、せめて毎食分の料理を出させてくれと言われたので、僕はご飯を彼に頼りきっている。この味付けも奥さん好みらしい。二つしかない食器や絨毯などはやはり奥さんの手作りで、趣味だったらしい。凍結させるための二日か、いろいろな話をした。奥さんの話、国の話。僕の仕事の話も。もちろん、待っている二日間ずっと暇だたわけではない。もしこれが失敗したときのプランを考えなければならず、あーだこーだと言葉を交わしあっていた。
出来上がった種は成功していたみたいで、試験用の種は十分の八雪の上に目を出していた。早速僕らは奥さんの周りを囲むように、雪を掘っては種を植えていた。あとは、これが咲くのを待つだけだ。
一週間の有休を終え、急いで郵便局に帰り、僕は忙しく働いた。仕事を何年もやってようやくまとまってもらえるようなそれを、まだ少ししか働いていない僕がもらったということは、つまりその分働かなくてはならないということだ。僕がいない間、ヤロスラフさんには発芽した花の面倒を見てほしいとお願いした。花の話を聞いてから、僕は町中に咲いている花を気にすることが多くなった。この花たちをあの国に持っていくことはできても、すぐに萎れてしまう。冬に咲く花も、根がないのではほかの花と同じだし、根があっても、あの国ではとても育たない。ヤロスラフさんが試していたらしいが、発芽すらしなかったようだ。
僕の体は魔法を使った今でもぴんぴんしている。どうやら寿命はまだまだ先らしい。長に教えられて初めて使ったものだから、少し体は疲れていたものの、仕事に支障は出なかった。
一か月して、マアシュヌへの郵便物が届いた。あの花が咲いているかどうか気になって気になって仕方がなかった。馬車を飛ばしてマアシュヌへと急いだ。急いで郵便物を届ける。もう人の目も気にならなくなっていた。叩くように扉をノックして、ゆっくりと開く扉を待ちきれずに押し込むように開けば、以前より少しやせたように見えるヤロスラフさんが立っていた。
「花は!」
「ついてこい」
靴の先を地面に打ち付けて雪を落とし、ヤロスラフさんが歩くスピードに耐え切れず、走って向かった。「お、おい!」と後ろからヤロスラフさんが走ってくる音がした。
梯子を下りるのが面倒で、中ほどで飛び降りる。ちょっと足が痺れた。速度を落としてそれでも走る。視界に入った研究室は相変わらず物に溢れてきた。その先の梯子を飛ぶように登れば強く風が吹き付けて、思わず目を閉じた。しばらくすると、顔に当たる雪がなくなり、薄く目を開けると、思わずひゅっと息を吸い込んで、温度差でむせた。
視界に入ってきたのは、緑と赤。周りに少しだけスペースがあったので、手をかけて上る。
足元に、真っ赤な花が咲いていた。それは何度も何度もイメージしたそれで、その中心に、奥さんが眠っていた。
「ちゃんと咲いたぞ」
「こんなにたくさん種作りましたっけ」
「長が量産した。やりかたさえわかればできるらしい」
「咲くのが早いですね」
「種を作るための方法がないから、俺がするしかないんだが、今種ができるか待っている」
「ありがとう、クシュール。お前のおかげだ。次でうまくいかなかったら何もかもやめるつもりだったんだ」
「いえ……そんな」
「妻も、俺も幸せ者だ」
ヤロスラフさんに感じた既視感は、誰かのものとよく似ていた。途方もないほど遠くに行ってしまうような気がして、「どこにいくんですか?」と聞くと、「どこだろうな。世界中を旅して、花を見るのもいい」と、どこか遠くを見るような目で言った。
「また会えますよね」
「そのうち会える」
「じゃあな」と、一方的に言って、ヤロスラフさんは玄関の扉を閉めた。
感じた既視感は、ミル姉のそれだった。
数秒立ち尽くして、魔法が解けたようにハッとした。こんな別れ方二度とごめんだ。
ドアにカギはかかっていなかった。靴についた雪も落とさずに、真っ先にキッチンに走った。まるでこっちにこいと手招きしているように扉は開いていた。絨毯をめくり、床下扉を開けようとした。いくら踏ん張っても開かない。
「くそっ、鍵が!」
鍵を探している時間はないし、おそらく鍵はヤロスラフさんのポケットの中だ。外に出よう。外から先回りすればいいんだ。奥さんの所に。絶対、そこに行く。
外に飛び出すと、家の脇に角材がいくつか積んであった。そのうちの一つを浮かせて、それにまたがった。いつか見たような魔法使いみたいなかっこいい箒なんかじゃないけど、この際関係ない。こうしていても、まだ僕の体はつらくない。馬鹿みたいに丈夫で涙が出そうだ。そのままぐんぐん高度を上げて、家の真隣にある山より上に行く。まだヤロスラフさんはついていない。もし、研究所なら? いいや、彼は絶対ここに来る。どうせなら、と思って奥さんの横に寝そべってみた。ちょうど、一人分、大人が入れそうなスペースが空いていた。
しばらくすると、ヤロスラフさんが上がってきて、僕がいることに気が付いて目を見開いた。僕も、ヤロスラフさんが手に持っている瓶のラベルを見て目を見開いた。どうして、そんなもの。
「いいですね、ここ。山に囲まれているから静かだし。誰も来ない。でも、空を飛んだらすぐ着くんですよ」
「お前……」
「まさかあんなことで僕を欺けるとでも思ったんですか」
「少し」
「そう言って僕の前からいなくなった人を、僕は知っています。いろんなことを教えてくれる、大切な友人でした」
「僕に奥さんはいないので、ヤロスラフさんの痛みはわかりません。でも、愛する人が理不尽な理由で去っていく悲しみや怒りは痛いほどわかります。だから止めません。だって僕だって今すぐにでも死んでしまいたいから。ただ、僕がここまで来たのは、あのまま別れることがすごく嫌だったからです」
「じゃあそこを退いてくれ」
「知ってますか? ガラマドゲの分泌液って、激しい痛みや酷い吐き気を引き起こして、更に痙攣でのたうち回って、のどを搔きむしって、そのうち出血多量で死ぬんです。友人に教えてもらいました」
「しかし、本には眠るようにと……」
「それはかなり高いところにいる魔法使いが持てるもので、技術を持った人間が、きちんと精製して、透明になるまで煮詰めたもので、少なくともそんな粗悪品じゃ死んでも死にきれないですよ」
「どうします? この場所を荒らして死にますか? きっとあなたはそれを知らないだろうと思って伝えに来たんです。死ぬことを止めに来たんじゃありません」
ヤロスラフさんはしばらく逡巡すると、「ハッタリだ」と、覇気のない声で言った。僕の言い方もあるけど、ミル姉のことを嘘つき呼ばわりされたのは腹が立ったので、「そう思うなら飲めばいいじゃないですか。僕は別に構いませんから」イライラしながら乗ってきた角材に腰を下ろす。「では。あなたと会えてよかったです」フワッと浮き上がった。僕の裾をヤロスラフさんが掴んだ。
「なんですか」
「やめる。俺はこの花の種が作れたら売ることにする。よく考えれば「気味の悪い植物研究者」なんて汚名を与えられたままなのは、リリーシャに合わせる顔がない。もう少し、せめてこの汚名を返上したら、今度はもっといいやりかたを探す」
「それがいいと思いますよ」
持ってきた角材はヤロスラフさんが椅子にするらしい。置いたままにして、僕たちは家の中に戻った。
「ヤロスラフさん、住所を教えてください」
「なんだ、俺に手紙でも書くのか」
「はい。とはいえ持っていくのは僕なんですが」
この国には郵便局がない。本当に小さいところだから、外に頼り切っているのだ。だから、僕はいつもここに来るとフューガは乗って行くけど、雪馬車だけは貴重品ほど取っておいておく。僕が帰るまでに郵便物を僕の雪馬車に入れておいてもらい、持って帰った僕が、郵便局の仕分け人さんに渡している。
「自分宛てに手紙が来るのって、すごくワクワクしませんか? 毎日毎日同じような生活を送っていても、そこに誰かからの手紙があれば、その日は特別になるんです。返信を書くのもすごく楽しいですし。返信を書くために何かしてみようって自分から新しいことや知らないところに行ってみたりするんです」
「確かに、わからなくもないな」
「だから、文通しませんか?」
「もちろんだ」
一つだけ、僕はヤロスラフさんに嘘をついた。
僕は明日から配属先が変更になる。
親愛なるヤロスラフ・アルジャコワさんへ
お久しぶりです。まず最初に、あのとき嘘をついてすみませんでした。僕は自分の配属先が変更になることを知っていて、あなたに黙っていました。急に別れが辛くなって。生きているっていいですね。あなたに謝罪をすることができるので。新しい配達員の子は新人ですので、優しくしてあげてください。
あれからどうですか。熱帯地方にいるので、お花の種の噂はここでは全く耳にしません。自分で望んで雪国地帯の専属配達員になったわけですが、次の配属先が熱帯って、うちの局長は本当に何を考えているかわかりません。配達地域を広げるためとはいえ、厳しいです。凍えるような寒さに体が慣れていたので、体調を崩さないよう慎重に暮らしています。僕があなたに助けていただいた日に食べたご飯の味が忘れられません。家で真似しようと思うのですが、やはり香辛料が違うのでしょうか。いつかごちそうしてください。本当はレシピを教えていただきたいのですが、こちらにはユシュウがいませんし、野菜も違います。
現地の方に、僕と僕のガールフレンドに、とアクセサリーをいただきました。男とおそろいなんて嫌かもしれませんが、「遠いところにいる」と嘘をついてしまったので、つけなくてもいいので取っておいてください。
奥さんによろしくお伝えください。
あなたの友人 クシュール・セクリフェス
親愛なるクシュール・セクリフェスへ
久しぶりだな。あの時は驚いた。お前かと思ってドアを開けたら全然知らない若造が俺のことを知っていて、「セクリフェス先輩から聞きました。泊めてください」なんて図々しく言ってきやがった。聞いたらお前の入れ知恵らしいな。今度覚えてろよ。
花の種は、近くの町から近くの町にって感じで、あの辺一帯で少しずつ売れている。注文も来ているから、あの新米をこき使ってるところだ。それにしてもお前の所の局長すごいな。世界で一番の郵便局にでもなるつもりなのか? 料理はまた作ってやるから、また来れる日を教えてくれ。香辛料は、妻が自分の故郷で厳選したものだからな。美味しいに決まっている。お前の故郷でも多少売ってはいるから、初心者でも使える香辛料のリストを同封しておく。こっちはユシュウとあの野菜しか知らないからな。それがないっていうのは結構きつい。お前今度、冷凍保存の魔法で持って来いよ。
なんで俺とお前が同じ腕輪なんだ。何が楽しくてガキンチョとそろいの物つけなきゃいけないんだ。暖炉の上に置いてある。
よろしく伝えておく。ありがとう。
あなたの友人 ヤロスラフ・アルジャコワ
追伸:妻の詳しい話を書いた。お前がどこまで聞いたのか忘れちまったから聞いた話があったらすまない。気になるなら読んでくれ。
妻はリリーシャという。昔この近くで遭難したキャラバン隊にいた娘で、花が咲いたように笑う(ここだけぐしゃぐしゃと線を引いてあるが読むことはできる)まあ、紆余曲折あって結婚したんだが、とにかく花が好きな妻の口癖が「花が綺麗なのは、その命で咲いているから」だった。あの花が特に好きで、妻の衣装にも刺繍されていたくらいだ。幼少期にあの花の棘が指に刺さって、自分の血がその花に入って、自分が花を構成する一部になったとかなんとか言っていた。俺にはよくわからんが、そういうわけで好きらしい。その後隣国で猛威を振るっていた流行り病がこっちにもきて、最期まで花を見せることもなく妻は亡くなった。
だからせめて、妻の近くにもう一度花を咲かせたくてな。俺はもうこの地を離れることができない。この極度に気温の低い地を出て、果たして暖かい気候の地域で過ごせるなんてことはない。生まれてから一度も花を見たことのない魔法使いの住人には咲かせられないし、お前が来てくれて本当に助かった。ありがとう。俺の方が感謝してもたりない。
まあそんなわけだ。ずいぶん端折っちまったが、大体わかるだろ。あとはお前の得意の想像力で補完してくれ。
またな。返事を待っている。
初めまして、平石まほろと申します。この度は拙作を手に取っていただきありがとうございました。
雪を題材にした季節外れのような作品でしたが、お楽しみいただけましたでしょうか。少しでも何か何でもいいので思っていただけていたら嬉しい限りです。
せっかくの七夕ですので、リリーシャはきっとヤロスラフに会いに来ると思います(死者が生者に会いに来るイベントではないことは100も承知)。もしかするとヤロスラフはリリーシャのところに行きたいってポロッというかもしれませんが、リリーシャは怒ると思うので、やむなく戻ってきそうだなと。それをニコニコ見守るリリーシャ。
実は、本文中に出てきたミル姉ことミールのお話を書いてからできた作品で、今はPCの奥深くに、ミールと彼女がその命を賭してまで守りたかった人が眠っています。
最後になりましたが、読んでいただきありがとうございました。また次回作があればそこでお会いしたいと切に願っております。
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