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よろしくお願いします。
「テイソウ・ノ・キキ、とタタカイながら、ガンバル、つもりって。」
「奇妙な図形ですね。」
ギョッとして振り返ると私の専属家庭教師、チャーチ先生が背後から手元を覗き込んでいた。
「!」
ギクリと身体をこわばらせてノートを腕で抑え込んだ。しかしチャーチ先生は軽々とノートを取り上げた。
このチャーチ先生の起こしたある出来事で、私はこの世界の人は総じて力が強いと気が付いた。チャーチ先生も五十代手前ぐらいの線の細い男性に見えるが、力いっぱい叩いてもびくともしないのだ。ナプルガンさんだけが職業プロレスラーなのではなかった。
「相変わらず、雨に打たれるのごとくささやかな反抗ですね。」
彼は鼻で笑ってノートを持っていく。この人は正しくいじめっ子だ。
ナプルガンさんは話し合った次の日に、教育係としてチャーチ先生を連れてきた。まったく仕事の早い人だ。
チャーチ先生は白髪交じりの髪と暗い緑の目で、なで肩のひょろりとした身体つきの中年男性だった。細いフレームのメガネをかけていて、目じりのしわが優しそうにみえた。見かけだけだったが。
そう、この人は見かけに依らず、セクハラ、イジワル大好きおやじだった。この人を教育係に付けてくるあたり、ナプルガンさんは私がそうとう嫌いらしい。
チャーチ先生も血は薄いが貴族出身らしく、セイキジンの私を嘘つき孤児として見下し、それ相応の対応をしてくる。この人のおかげで、世間一般ではセイキジンってそういう見方をされるのだとわかった。
◇◇◇
初日からこの人は最悪だった。ナプルガンさんが紹介を終わらせて部屋を出ていくと、黙って机の自分の椅子に座った。私がなんだろう?と突っ立っていたら、隣に座るように横の椅子を指さしてきた。
そして初めて上げた声は、字が書けないという私をばかにする言葉だった。その上、文字を書き取りしていくうちに、間違える度に太ももを撫でてきた。ギョッとして隣をみると、素知らぬ顔で間違いを指摘してくる。これはこちらの文化で間違いを指摘することなのかな、とその場は無理やり思い込んだ。
しかし、間違う毎に徐々にスカートをずり上げられていて、私はそれに気が付いた時、あまりの恐怖で固まってしまった。
「学がなくとも子供を作ることは習っているでしょうね?その為の聖貴人だ。僕もぜひお相手願いたいな。ねぇ、キャリー嬢?」
頭の上に顔を寄せて揶揄うように言う。嫌悪感で鳥肌が立った。
私の通う学校は共学で、男子とも仲が悪くない方だが、残念ながら特定の子とお付き合いなどしたことがない。物心ついて以来、父親ともこんな近くで会話した記憶もない。
このとき私は男性の邪な悪意を初めて知った。
ダメだ。もう泣いてしまう。屈辱と恐怖で声は出なくて、でも涙は溢れそうだったその時。
「チャーチ先生、お茶をお持ちしました。
・・・・・・おや、お嬢様も泣く程辛いのでしたら、休憩されてはいかがでしょう。」
無表情のキイロさんはワゴンを押して入ってきた。こちらをちらりと見ても無表情は変わらなかったが、いつも無言なキイロさんが休憩を勧めてきた。
「なんだね、君は。入室の許可なく入って来るとは使用人としてなっておらんな。」
チャーチ先生は途端に手を引っ込め高慢に文句を言ったが、セクハラを見られて焦っていることは明らかだった。
チャーチ先生が怯んだこの瞬間、私の中で膨れ上がる怒りが、恐怖より勝った。
私は手を勢いよく振り上げ、チャーチ先生の顔めがけて力いっぱい平手打ちしてやった。
しかし。チャーチ先生はもちろん、見ていたキイロさんまで驚くぐらい、ペソッと情けない音がしただけだった。
その上、人の叩き方なんて知らなかった私はうまく手を振り抜けず、戻って来た自分の力で手首を痛めてしまった。
「君はそれが全力なのかい?赤子でももう少しまともに叩くよ。」
チャーチ先生は私の余りの間抜けさに怒ることも忘れたようで、心底不思議な顔をして帰って行った。頬は少しも赤くなっていなかった。
そしてなぜ先生が帰ったかと言えば、私が利き手の手首を捻って、予定していた書き取りが出来なくなったからだ。
その後、キイロさんに臭い湿布(頭を打った時にしていたものと同じ)を巻いてもらった。その時のことは思い出したくもない。あの嫌味なキイロさんが憐れんだ目でそっと、大丈夫ですかと聞いてきたのだ。敵に情けをかけられるとはこのことかと更に惨めになった。
思い返すも散々な初日だった。
◇◇◇
「貴方は字が書けないとおっしゃっていましたが、これは貴方の国の字なのですか?」
初日の最悪な出来事を思い出しているうちに、チャーチ先生は私のノートを検分し終わったようだった。ノートを私の前に見えるように差し出して来た。そこには日々の不満が満載の近況報告、ならびに日記が書き連ねてあった。他の人には読めないように日本語で書いてある。
人間が違う世界に渡るなんてことが起こるのだ、もしかしたら自身じゃなくとも、せめて手紙(といってもノートに書きつけているだけのもの)だけでも地球に届くかもしれないと思って書き出したのだ。
何の根拠も無い、ただのストレス解消だとわかっているが、止められなかった。
何かしていなければおかしくなりそうだったのだ。
因みに手紙の相手は家族ではない。美術部の仲間宛てなのは一番心配しているだろう相手だから。しかし奴は読んだら読んだで腹を抱えて笑っていそうだ。書いた後は微笑むことができた。
もちろん、私は勉強以外でチャーチ先生に何も答えるつもりはなかった。
「アートです。」
「ほう。」
チャーチ先生が馬鹿にした表情を浮かべ、ノートから手を離した。興味を失ってくれたなら良いが。
初日にひどい目に遭ったことをキイロさんがナプルガンさんに報告してくれたらしく、チャーチ先生があれ以上の性的な嫌がらせをしてくることはなかった。ただ、距離の取り方は近いままだが、これは個人差やお国柄かもしれないから我慢している(というか力の差がありすぎて、私には抵抗ができない)。
私は日々真面目に教育を受けているが、今のような雑談には応じない。気を張っていなければ、ふいにあの時の恐怖が蘇って身体がこわばって動けなくなるからだ。意外と私は繊細だった。
「孤児の割に飲み込みが良いですから、あなたはどこかで高度な教育を受けていたのだと思っていました。」
「・・・・・・・。」
教育は逃げた後の生活のため、今も真面目に受けている。しかしこの人と日常会話をする気は全くなかったから、早く授業を始めてくれないかなと目線で教材をみていた。
「計算は得意なようですが、通貨を見たら驚いていましたね?」
昨日、ここのお金を使ってお店で買い物をするつもりで、計算してみて下さいと言われた。実際の通貨を使ってと言って先生のお財布から出てきたのは、金属でできたメッシュ状のお札だった。日本のお札より二回りほど小さくて、レシートの大きさに近い。虹色にキラリと光るお札はとてもきれいで、思わず手に取ってじっくりと見てしまった。高額になれば逆にコインの形状になるそうだ。
コインは重くなるから、流通の多い低額な通貨は金属を糸の形状にして編みこみお札を作ったようだ。軽い割に強度もあるし、引っ張ってもほつれない。
こんなものが量産できるのだから、ここの文化レベルは地球とそう変わらないのかもしれない。ここで生活しても感じていたが、教育を受けて確信した。
もし今逃げだしても、高度に管理された社会だろうこの世界で、身元不明な私が生活していくことは難しいに違いない。元の世界でもあの家を出ようと色々考えて調べていた。身一つで飛び出しても、苦労したことがない自分が上手く行くはずがない。
教師は最悪だが、ここの教育は最高なはず。私は嫌悪感をできるだけ出さないように、真面目に教育を受けていた。
「通貨を見たことがないなど、よほど高貴な身分のお嬢様でない限りありえませんよ。」
「学がない、外に出られない、病弱な孤児もありえますね。どうぞ授業を始めて下さい、先生?」
本物の聖貴人だとわかれば、またいやらしい目で見てくるかもしれない。自分は病弱な孤児だったという設定で、チャーチ先生に反撃してみた。しかし事実じゃないので、私がってところはぼかしておく。
今日はやけに絡んでくるけど、これで終わって欲しい。そろそろ緊張で手先が冷たくなって、指先は震えてきそうだった。
「貴方の言うことはもっともですが、可愛げがなくつまらないですねぇ。」
チャーチ先生はふんっと鼻から息を吐いて、今日の教材を渡してきた。細かく印刷された書類が数枚だ。この社会の成り立ちと在り様を教えます、と教師の目になってチャーチ先生は始めた。
毎回飽きずに聞けるチャーチ先生の授業は、私一人で受けるのはもったいないぐらいだと思う。性格があれじゃなければ優秀な教師だったろうに。残念な気持ちでチャーチ先生を見送った。
ちなみに途中にあるお昼のお茶休憩は食事のマナー講座に変わる。食べた気がしないのであれは止めて欲しい。日本と大して変わらないし、小さい子供に躾けるような内容にも関わらず、チャーチ先生は重箱の隅をつつくように注意してくるのだ。あの人はうるさい舅になるだろうな、と現実逃避しながら聞き流している。
授業が終わって今、空は気持ちよく晴れている。昼を過ぎてまだ日は高いから、あと数時間ほどは自由に動いて良いだろう。今日の教材を持って裏口からゴミ置き場に向かった。最初に散歩して寝てしまったあの場所である。あの後から何度もおせわになっている。私の行く時間帯は、使用人の人達も一仕事終わった休憩時間らしく、ゴミも運び去られて誰も来ないのだ。独り静かに復習するのにうってつけの場所だった。少しも臭わないのは素晴らしい。さすが貴族のお屋敷、隅々まで手入れが行き届いているようだ。
いつもの場所で座り込み、赤レンガの壁に背を預けて書類を広げた。今日はこの世界で戸籍を作ろうという内容だった。もちろん戸籍は生まれた時に登録するものだが、孤児など無登録で強制労働に従事させられていた等の理由で、大きくなってから登録することも珍しくないそうだ。無登録な人はこの書類に記入して戸籍を作る。
私は文字の練習も兼ねて、二日後の授業までにその書類を完成させることが課題である。
今日は社会の仕組みを学んだ。税金の流れや個人の義務、権利、政治など、この世界の人にとっては中学生レベルの授業らしいが、私としてはかなり興味深かった。貴族が政治に優先的にかかわるという事以外は、地球の先進国並みの文化レベルだと思う。もしここを出て生活することになったならば、戸籍を作るということは重要だろう。ありがたく書類に記入する。
しかし幾何学模様の文字は読めるようになってきたとはいえ、文字数が多く特殊な読み方もあって躓くことは多かった。不思議なことに、音がわかれば言葉の意味が分かった。言葉が通じることを考えればそうなのかもしれないが、自分の及ばないところで起こる変化は奇妙な感覚だった。
”貴方を知る人はいますか?”
いない、っと。
”今の仕事は?”
娼婦予定かな、いや代理母かな。どちらも拒否したいんだけど。これって強制労働だよね。
好きな人も出来たことがないのに、子供を産めとは難易度が高すぎる。
書類を埋めていく毎に気分が塞ぐ。週末の宿題なわけだ。精神的にキツイ。
チャーチ先生はこれを見越して週末の課題にしたのだろうか。
なのであれば、優秀過ぎてホント憎らしい。
読んでいただきありがとうございました。