後編
2番スクリーンから出てきた男性は、吉田との話を終えると劇場へ戻って行った。
「席に彼女を残してきたから、呼んでくるって。もう1人のお客さんにも声かけてくれるそうだ。俺たちは4番のお客さんを保護しよう」
「は、はい」
彩乃は4番スクリーンの入口扉に手をかけた吉田に慌てて続こうとした。しかし、吉田は扉を開けず、彩乃を振り替える。
「あれ?映写に連絡しなくていいの?」
「…え?あっ、はい、今します!」
先程の、吉田を殺人犯だと疑う透と佳菜子の言葉により、彩乃は動転していた。慌ててトランシーバーのマイクを握る。
「映写宮野さん……フロア北川です。これから4番に入るので、確認、お願いします……」
『――映写了解。ちょっと待ってくれ』
透の返事を吉田に伝えると、吉田は心配そうな目で彩乃をじっと見ていた。
「彩乃ちゃん、突然の状況に動揺しているんだね――可哀想に、こんなに震えてる」
そう言い吉田は彩乃の頬に手を伸ばしたが、触れようとした直前、彩乃は反射的にぱっと顔を背けた。俯いた視界の隅で、吉田の手が下ろされるのが見えた。
「あっ、ごめんなさ――」
謝りながら彩乃が吉田を振り返ると、吉田は先程と打って変わって彼女に鋭い視線を向けていた。まるで獲物に襲いかかる前の肉食動物を思わせる。彩乃は小さく息を飲んだ。言い知れぬ恐怖にかられ視線を外すことができない。
その時、トランシーバーから繋がるイヤホンが音を立てた。彩乃はそれをきっかけに吉田から目をそらした。
『北川さん、映写宮野です。4番異常なし。お客様は2人で、劇場の中段より少し後ろに着席してます』
「は、はい。」
彩乃が返事し恐る恐る吉田を見ると、彼は何事もなかったかのように普段の穏やかな表情に戻っていた。
「宮野さん、大丈夫だって?」
「……ええ、お客様、座って待ってらっしゃるそうです」
「そっか、じゃあ入ろうか」
吉田はそう言い、今度こそ場内に入っていった。あまりの豹変ぶりに、もしかして先程の鋭い目付きは自分の見間違えだったのではないかと首を捻りながら、彩乃は吉田に付いて行った。
6番の5人の客たちや2番から出てきた男性客にしたのと同様の説明をする吉田を、彩乃は少し離れたところから見ていた。手に持っているレンチは「電気系統の不具合」という説明に説得力を持たせている一方、彩乃を不安にさせる。あれで殴られでもしたらきっと頭蓋骨は粉々に砕けてしまうだろう。
映写窓を見上げると、透が心配そうな様子で彩乃を見守っている。その後ろにいる佳菜子は、油断ない厳しい目で吉田の動向を見ていた。
彩乃は吉田と、客である学生とおぼしき若いカップルに視線を戻す。ちょうど説明は終わったようで、カップルは不安げな表情で荷物をまとめて始めた。
「よし、6番へ戻ろう」
吉田に先導され、客と彩乃は劇場を出た。廊下には、2番スクリーンから出てきた男性が彼女を連れて待っていた。そして、入場していたはずのもう1人の客について吉田が尋ねると、男性は困ったように眉を寄せた。
「それが、声かけようと思ったんですけど中にいなかったんです。荷物はあるのでトイレとか確認した方がいいんじゃないですか?」
トイレ――吉田が犯人と遭遇し女性客が死んでいたという所だ。彩乃は第2の殺人を思い出し青ざめた。荷物を置いたまま席をはずしたその客こそ、トイレで殺害された被害者なのだろう。
「――そうですね、後程確認に行きます。しかし、まずはここにいる皆様を6番に誘導させて頂いてからです」
吉田は彩乃とは違い平然としており、却って彩乃の不安感を煽った。だが、その落ち着いた態度こそが客の安心に一役買っている様子で、客たちは吉田の説明を全く疑っていないようだ。
5人の客が待つ6番スクリーンに戻ると、友達同士で来館している若い3人の男性客を中心に、最初は面識のなかった中年の男性客と地味な服装の女性客とが談笑していた。ホラー映画を観に来た客である――怖がりな彩乃と違い、薄暗い映画館に閉じ込められるという異常事態において、スリルを味わうことのできる人種なのであろう。
誘導してきた2組のカップルも着席するのを見届けると、吉田は彩乃の方へ向き直った。
「よし、じゃあ2番から出て行ったお客さんを探そうか。女子トイレにいるなら、男の俺だけじゃ入れないから一緒に行こう」
彩乃は耳を疑った。吉田が観客たちに説明したように、もし本当に電気系統のトラブルが起こっているなら、吉田の言う行動は最もである。しかし2人は劇場に続きトイレでも殺人が起きたことを知っている。助からなかった人間を探すために殺人鬼が潜んでいるかもしれない館内を巡るという危険を冒すのは得策ではないし、トイレに直行するなら1人目の犠牲者の遺体を目にして心を痛めている彩乃に、吉田は更に別の遺体を見せようとしているということだ。
また、万が一透たちが疑念を抱いているよう吉田が犯人なら、劇場内にいる客を1ヶ所に集めた今、2人きりになって彩乃を殺す、という算段を立てているのかもしれない。
「彩乃ちゃん、早く行こう?」
血走った目で彩乃の姿を捉えながら、吉田は答えに詰まる彩乃の腕を掴んだ。助けを求めようにも、この状態でトランシーバーのマイクを取ることはできないし、殺人事件を知らない客に何と説明したらよいのか、彩乃のパニックした頭では考えられなかった。しかも、客たちは彩乃たちのいるスクリーン前から離れた場所に座っており、こちらの様子を気にしていないようであった。
自分に従う様子を見せない彩乃に業を煮やした吉田は、彩乃の手をぐいと引き、別の手で肩を抱いた。握られたままのレンチが彼女の肩に食い込み、痛みが走った。そして、胸元に抱き寄せた彩乃の耳に自分の顔を近付けた。
「大丈夫、何も怖くないよ。俺が守ってあげるから――俺の可愛い彩乃」
吉田はそう囁き、彩乃の耳たぶに口付けた。
途端に、激しい嫌悪感が彩乃の身体に走った。今や耳に舌を這わせている吉田から逃げよう身を捩るが、彼の拘束は強まる一方で、びくともしなかった。ざらりとした舌の感触に、皮膚が粟立つ。
「は、離して……いやっ! とお、る…っ!」
「トオル……誰?俺に抱き締められながら、他の男のこと考えてるの?」
彩乃の腕と肩を掴む吉田の手に、一層力が込められた。
「痛っ……!」
「――何で逃げるの?彩乃に頼ってもらわないとやだよ……じゃなきゃこんなことまでしてる意味がない」
聞いた途端、彩乃は恐怖で声を失った。吉田の言うこんなこと、とは、殺人を犯したことを指しているに違いない。
『――彩乃に触るな』
突如、場内のスピーカーから透の声が響いた。映写事故があった時、技師が状況説明をする為のマイクを使っているらしい。
吉田は弾かれたように顔を上げ、映写窓ごしに透を睨んだ。
『彩乃の彼氏は俺だ。彩乃を自分のものにしたくば、とりあえずは俺を葬ればいい』
吉田は宮野から彩乃に視線を移し、小さく「トオル」と呟いた。そして再び宮野に視線を戻す。先程の彩乃が咄嗟に口にした名前が宮野のものだと合点がいったようだ。
次の瞬間、彩乃は床に叩きつけられた。客の悲鳴を聞きながら彩乃が見上げると、吉田がレンチを持ち、奇声を上げながら映写窓のある劇場後方にかけ上がっているところだった。
吉田は最後列に辿り着くと椅子のひじ掛けの上に飛び上がり、映写窓にレンチを叩きつけた。防音に優れた硬い映写窓にはヒビが入っただけであったが、何度か衝撃を受ければ割れてしまうかもしれない。そしたら透や佳菜子の身に危険が及んでしまう。
「――だ、だめぇ…!」
彩乃は立ち上がり、映写窓と吉田から離れようとスクリーンに向かう客たちとは逆に階段を昇り始めた。意を決して髪に留めていたUピンを引き抜く。
『彩ちゃん、動かないで! こっちに任せて!』
トランシーバーごしに、佳菜子が彩乃に制止の声をかけた。
「でも透が――!」
彩乃はトランシーバーを通すことも忘れて叫んだ。
その時突然、客席の照明が落ちた。暗くなった場内に客の悲鳴とレンチが映写窓を打つ音が響く。
一瞬の後、劇場の暗闇を映写機からのまばゆい光と吉田の悲鳴が貫いた。
やがて客席が明るくなり、彩乃は状況を把握しようと辺りを見回す。他の観客も同様らしく、声を上げずに場内に視線を走らせているようだ。
電気が消えるまで映写窓をひたすら打っていた吉田は椅子の下に転落したようで、彩乃のいる位置からは見えなかった。狂ったような激しい呻き声と、もがいているのか身体が椅子にバタバタと当たる異様な音だけが聞こえてくる。
「――警察だ! 動くなっ!」
場内が急に慌ただしくなった。警察官と映画館の入っているビルの警備員、そして映画館の社員の坂上がなだれ込んできた。坂上は真っ先に最後列の吉田に駆け寄る。
「……これが吉田です」
「殺人の現行犯で逮捕する! ――しかし酷い様子だ…手当てが先だな」
警察官が顔をしかめた。部下と思われる別の警察官がしゃがみこみ、吉田に手錠をかけた。
吉田は意味を成さない呻きを上げながら、警察官に体重の殆どを預ける形で立ち上がった。手錠が鈍く光る手で顔――特に目の辺りを覆っていたので、表情は分からなかった。彩乃は、両脇を警察官に支えられながら去っていく吉田をぼんやりと見つめた。
「北川さん」
気付くと彩乃のそばに坂上が立っていた。
「怪我はないか?」
「……はい、大丈夫です。ありがとうございます」
坂上は彩乃の返事を聞くと頷き、劇場前方で怯えた様子の客の方へ向かった。
彩乃は泣くでもなく、ただ呆然と立ちすくんでいた。今目の前で、そして自分の身に起こったことを飲み込めていなかった。
新しい足音が場内に駆け込んできた。彩乃はぼんやりと劇場入り口に目を向けた。
「彩乃!」
透はまっすぐ彩乃に駆け寄り、強く彼女を抱き締めた。途端に、麻痺していた彩乃の涙腺が弛んだ。
「――透…!」
彩乃も透にしがみついた。緊張の糸が切れた彼女は、世界で1番安心できる腕の中で子供のように声を上げて泣き、やがて眠りの世界へと沈んで行った。