前編
北川彩乃がバイトしているシネコンは、火曜日が一番暇である。
土日やレディースデーの水曜はもちろん混むが、月曜もまた、近隣の学校が運動会か何かの振り替え休日だったりすると意外と混むので侮れない。木曜は混みはしないものの、映画の公開は大抵金曜か土曜だから、新作の準備やらそれと入れ替えで終わる古い作品のポスターの撤去やらで忙しくなる。そして金曜やはり夜にかけて混むし、オールナイト上映なんかもやっているので、1日が長い。
もちろん、フィルムの編集作業をしている映写室の人は多忙な曜日も違うかもしれないし、社員の人は少ない人数のせいか毎日忙しそうにしている。
しかし、フロア業務をしている彩乃たちにとっては間違いなく火曜日が一番暇で、今日がまさにその火曜であった。
更に、時間は22時を回っている。6館ある全てのスクリーンの最終回が始まり、劇場を巡回しながら終映を待つという、最も仕事を見つけるのに苦労する時間帯である。大学生である彩乃はよくこの時間にシフトに入っていたので、やるべきことは心得ている。
ただし、ゴミとして回収したドリンクの飲み残しを捨てるバケツは昨日キレイに拭いたばかりだし、今週末の終了作品と新作の入れ替えの準備として書いておくポスター配置表も昼のシフトの人が終わらせてしまっていた――つまり、本当に暇だった。彩乃はたった今全てのスクリーンの巡回を終えたところだったが、さしてやることもないのでもう1周巡回に出ることにした。
「彩乃ちゃん」
呼び止められ振り向くと、同じくバイトの吉田祐介が立っていた。吉田は彩乃とほぼ同じ時期に入ったが、フリーターである為シフトに入る機会も多く、今では彩乃と同期とは思えない程ベテランの風格を漂わせていた。
「22:45に終わる5番スクリーン、席の故障があるらしいから工具を取ってくるよ。それまで巡回よろしく」
「はーい」
廊下の奥に位置する倉庫へ向かう吉田の後ろ姿を見送り、彩乃はロビー側にある1番のスクリーンへ向かった。
ドアを開けると銃撃戦の大きな音が飛び出してくる。この1番スクリーンで上映中なのは全米興行成績を塗り替えたという話題のスパイアクション映画だ。空いているとはいえ20人近く入っている。後15分程で本編が終わるので、今はちょうど大詰めだろう。
2番スクリーンで上映しているのは運命に翻弄される男女を描いたベタなラブストーリーだ。レディースデーは大入りだが、他の日はガラガラで、この上映回にも3人しか入っていない。
続く3番は日本映画の巨匠と言われる監督の作品を上映中だ。しかし、この最終回は客が誰も入っていないので中止になっていた。作品のターゲットは主にシニア層だから、夜の上映の入りが悪いのは当然かもしれない。
4番スクリーンも2人だけしか入っていない。かかっている映画は有名なファンタジーシリーズの続編だ。彩乃も近いうちに観たいと思っている映画なので、巡回の度ネタバレしないかひやひやしている。今回も、最低限のチェックが終わると、足音をたてぬよう慌てて劇場を後にした。
5番は、猟奇殺人を描いたR-15のサスペンスだ。彩乃はこの手のグロテスクな映画はあまり好きにはなれず、4番とは違った意味で早く出たかった。扉から出るその瞬間もやけにリアルな叫び声が場内に響いていた。
夜の時間の巡回における最難関は、廊下の最奥に位置する6番だ。このスクリーンは以前から心霊現象が起こるという曰く付きで、その上今上映中なのは怖いと評判のJホラーである。しかし、5人の客のうち、最後列の中央に座っている客がビデオカメラらしきものを手にしているのではないかと映写室から報告が来ていた――映写窓からも監視しているが、フロアの巡回も怠ることはできない。彩乃は映像の乱れがないか一瞬スクリーンに目を走らせた後は極力映像を見ないようにしつつ、客席を確認した。しばらく見ていたが、疑いのある客に動きはない。彩乃はそっと劇場を後にした。
廊下に出た彩乃が時計を見ると22:20だった。そろそろ1番の長いエンドロールが始まるので、扉を開けにいかなければならない。
1番スクリーンの扉前には既に吉田の姿があった。扉を半開きにして耳を澄ませ、エンドロールの音楽が始まるのを待っていた。そして、始まったのを確認すると、扉を全開にしてドアストッパーで留めた。
本編終了と同時に半分程の客が一気に出てきた。それを見送ると、しばらく退場する客は疎らになる。残りのほとんどの客はエンドロールの最後まで余韻を楽しんでいくのだ。
「お疲れ、巡回任せっきりでごめん」
場内に声が入らないよう小声で、吉田が話しかけた。それに彩乃も抑えた声で答える。
「いいえ、今日はそれ位しかやることないですし。でも5番と6番は怖いので正直イヤですけど」
彩乃が本音を漏らすと、吉田は端正な顔に笑みを浮かべた。
「ああ、それなら一緒に巡回入ってあげればよかったね」
「そんな……そこまでは大丈夫ですって」
「そう? 俺としては怖がる彩乃ちゃんと2人きりになるから役得なんだけど。あ、ありがとうございました! お出口はこちらです」
吉田は出てきたサラリーマンに声をかけた。
彩乃は、吉田はプレイボーイだと思っている。さらりとこういったことを口にできるのだから。顔も、格好いい部類に入るだろう。ちなみに、彼の甘いマスクと爽やかな笑顔は客のマダム層にも人気らしい。
エンドロールが終わり残っていた客を見送ると、2人は場内の掃除に入った。
「そういえば彩乃ちゃん、おだんごにしてるの珍しいね。いつもはポニーテールなのに。もしかして、最近付き合い始めた彼氏の影響?」
箒を動かしながら、吉田が茶化した。
「違いますよー。暑かったからそんな気分だったんです」
嘘だった。彩乃はこっそり映写窓を見上げた。
ちょうどそこでは映写技師の宮野透が映写機にかかっていたフィルムを外している最中だった。周りに内緒にしているが、彼こそが『最近付き合い始めた彼氏』である。そしてこの前デートした時に、エスニック調のワンピースに合わせてアップにしたヘアスタイルを透が褒めてくれたのが、今日おだんごにした理由だ。仕事に真面目な彼のことだから勤務中にはあまり気にしてくれないかもしれないが、好きな人がいいと言ってくれる格好をしたいと思うのが女心である。
「まぁ、俺なら彼女におだんごは勧めないな。すぐ押し倒すから乱しちゃうし……彩乃ちゃんも髪下ろしてた方がいいと思うな」
「吉田さん、なんかそれセクハラちっくです」
いい加減吉田のこの手の発言には慣れたが、彩乃は度を超さないよう牽制を入れた。
「うーん、本当にそう思うんだけど。おっ、あと2分で5番のエンドロールが始まるな。急ごうか」
「……はーい」
なんだかうまく誤魔化された気がするが、やはり仕事が第一だ。彩乃は雑巾を動かす手を速めた。
2人が5番スクリーンに到着すると、既にエンドロールが始まっていた。彩乃は慌てて扉を開けた。しかし、そのまま待ち、エンドロールが終わっても中々客の足音は聞こえてこない。
「確かここ、1人しか入ってなかったよね? 俺らが1番の掃除してる間帰っちゃったのかもな。じゃなければ、そのまま寝てるのかもしれない」
実際吉田の言う通り、最終回ではそういった客も少なくない。
「座席の修理もありますし、とりあえず入りましょう」
彩乃が箒と塵取りを持ち上げると、吉田も工具を持って頷いた。
後方の扉から場内に入ると、前方の席に人がいるのが見えた。最後列の故障席の修理を始めた吉田を置いて、彩乃はその客の方へ向かって階段を降りていった。近付くと、客の若い男性は隣の席に上半身を倒すようにしていた。やはり、余程熟睡しているようだ。ご丁寧に、床にワインまで溢している。彩乃は少し大きめの声で呼び掛けた。
「お客様、上映は終了致しました」
男性の反応はない。彩乃は男性の肩を叩いて起こそうと手を伸ばした。
「お客様――」
しかし、彩乃の手が肩に触れる直前、ようやく男性の顔が目に入った。白目を剥き、頭と口から大量に出血して床に滴り落ちている――男性は息をしていなかった。
恐怖の余り声にならない悲鳴の代わりに、彩乃の取り落とした掃除用具が床に落ちる音が場内に響いた。