9.オークランド
フィルからの電話を受けたあと、ヒカルは仕事をやりくりして一週間の休暇を取った。
クライストチャーチを二日前に出発し、北島へ渡ってウエリントン経由でオークランドまで、列車とフェリーを乗り継いでやって来た。
ハリソンと結婚したとき、クライストチャーチへ引っ越して以来だから、オークランドは約五年ぶりだった。
地下のブリマート駅から上がって、明るい日差しが降りそそぐクイーン通りへと出た。
この街の道という道はどこも坂道で、ヒカルが知る限りでも、ただのひとつとして平坦な道などないように思える。街の真ん中を貫くクイーン通りでさえも、海に向かってなだらかに下っている。
その坂の下には舳先をこちらに向けた大きな白い船が停泊し、湾内の中ほどでは帆を降ろしたヨットが、時を刻むような正確さで揺れていた。
九月に入って南半球はまだ春先の季節なのだが、今日は風がないこともあってか、日なたは暖かいくらいだ。
通りには近代的な建物と赤い煉瓦造りの古い建物も建っていて、この街を訪れた者の目を楽しませている。
遠くに頭だけ覗かせているスカイタワーは、この街の象徴として欠かせないものだ。
二カ月前に突然ヒカルの目の前から姿を消し、数日前に突然電話をかけてきたフィル・シェルは、この街にいた。
「どうやって、そこまで行けたの?」
と驚くヒカルに、フィルは答えた。
「一度は死んだも同然だ。それを思えば何だって出来るよ」
「でも、どうやって食べてきたの? お金なんて持っていなかったでしょ」
「オークランドまで来ればなんとかなる。ここには強い味方の中国人がいるからね」
電話口でそう笑いながら、冗談ともつかない答え方をしたのだった。
「中国人? あら、意外と顔が広いのね。中国人にも知り合いがいるの?」
だが、ヒカルはその答えを待たずに問いかけた。
「フィル、あなたは息を吹き返したときに、オークランドと間違えていたわね。いったい何処から来て、そしてオークランドへ行こうとしたの?
なぜ、クライストチャーチにいて、そして死にかけたの? 私のところへ来たのは偶然?」
「おいおい、そんな矢継ぎ早に質問するなよ」
「これが落ち着いていられますか。あなたは何者なの? わたし、思い出したのよ、あなたのこと。フィル、わたし、あなたとは十八の時に会っているわ。いえ、もっと前かも知れない」
「そうだ! ヒカル。近いうちに、こっちへ来ないか? ソンおじさんも居るし」
「誰ですって?」
「中国人のオーナーだよ、アパートの。忘れた?」
ヒカルが思い出したのは、病院のベッドの上で横たわったままの彼女に話しかける、フィル・シェルの姿だった。
そして、血で汚れたナイフが頭の中をよぎり、まだ若かったひとりの女性の死を思い出した。
「とにかくこっちへ来いよ。詳しいことは、そのとき話そう」
アルバート公園の横をオークランド大学へと続く登り坂のきつさは、市街の道路の比ではなかった。坂の右には石垣がそびえ立ち、その上の公園の蔦が下がって絡んでいるのが目に入る。
左側の崖下にはビルが所狭しとそそり建ち、見えるはずの海を隠している。ここはまるでコンクリートの山道のようであり、この道を歩こうなどと考える人はそうそう居ないために滅多に人と擦れ違うことはない。
登りきってプリンセス通りを渡ったところで足を止め、ヒカルは懐かしげにホテルを眺めた。
十六歳のときに交換留学することが決まり、どうしても下見しておきたいという母親と、初めてこの街を訪れた。
そのときに泊まったホテルは、当時のままだった。
やがて、大きく右に曲がる坂道を下った。覆いかぶさるような木立の向こうから、教会の建物が姿を見せる。
日曜日だったが、このあたりは人通りが少なく、教会へ向かう数人が坂道のあちらこちらに居るだけだ。
教会の前を道なりに右へ進み、しばらく歩けば、例の中国人が経営するアパートが見えるはずだ。
男の子が騒ぐ声がして、ヒカルは前方を見た。空を指差す子につられ、大人たちも上を見上げている。
教会の遥か上空に人影があり、それが半円を描くようにして接近して来ていた。
口を半開きにして見上げながら、ヒカルは以前どこかで見聞きしたことがある光景だと思った。
それは丘の上の木立をかすめて、少し離れた街路の上に降り立った。
キラキラした光が女──女の姿をしている──の身体を包んでいて、肉体の輪郭はぼんやりと見える程度だ。
その姿はまるで天使のようだ。
その後、天使は二、三歩歩いたかと思うと、また中空に舞い上がり、公園へ登る坂道の途中に着地した。
その様子をヒカルは坂の上から見ていて、ほかの人は下から見上げていた。
天使がさらに登り続けようとしたとき、外の騒ぎに気付いた教会の関係者が、泡を食って駆け出て来た。
薄い布切れ一枚の裸の女を見た彼は、すぐに下へおりて教会の中へ入るようにと、身振りを交えて言った。
天使は坂の下を振り返りはしたが、それ以上の反応を示さなかったため、教会の人はそれをぶつぶつと罵った。
彼女を性質の悪い外国の旅行者と決め付けたようだ。この露出狂の女から、街の──教会の面前における尊厳を護ることが、彼の義務であると思い込んだのだろう。
彼は坂の上に向かって叫んだ。
「そこから下りて来い!」
天使はその命令を無視して、くるりと踵を返すと、落ち着いた足どりで登りつづけた。
白い肌のアングロサクソン系で、身体つきや顔つきからハイティーンぐらいだろう。亜麻色の髪が丘に吹く風になびいている。
そして、やや青白く引き締まった臀部を、左右に揺すりながら遠ざかりゆく光景が、この教会関係者を烈火のごとく怒らせた。彼は手早く上着を脱ぎ、それを不届きな女の体に着せかけようと、坂道を駆け上がった。
天使は男を振り返りもしなかったし、触ろうともしなかった。上着を左手に抱えた男が、右手で天使の手首を掴んだだけだ。
突如として、小さな稲妻が閃き、破裂音が響いた。教会の人はまるで雷にうたれたように、ひっくりかえった。
彼はそのまま坂下までゴロゴロと転げ落ちて、微かに体を震わせながら横たわった。まわりで見ていた人たちは、じりっと後ずさった。
そのあいだに天使は坂の頂きまで登りつめ、たまたまそこに居合わせた目撃者の一人に興味を持ったのか、足を止めた。
この目撃者こそが、ヒカル・スカイファーだった。
天使が近づいて来るのを見て、ヒカルは息を呑んだ。そして、七月の吹雪きの日に聞いたラジオのニュースを思い出した。
あれは確か、ノースショアの岬の灯台に現れた天使の話だった。やや面白可笑しく語られていた……が、今こうして目にしてみると、脅威にさえ思えてくる。
そのうち何処かの物陰から、テレビ局のアシスタントディレクターがプラカード片手に飛び出て来て、『いやいや、どーもー。どうです、驚かれましたか!?』という馬鹿馬鹿しい展開に巻き込まれたぐらいで済めば良いのだが……。
坂下に到着したのは警官数人だった。息せききって駆け上がって来て、天使と対峙した。
見物人の一人が叫んだ。
「スタンガンを隠し持っている。気をつけろ!」
すると、別の者が興奮気味に喚き立てた。
「いや、違う! 武器など何も持っていなかった」
警官の一人が、毛布を天使の足もとへ投げて言った。
「とりあえず、それを着ろ!」
天使はヒカルを振り返って訊いた。
「あの人たちは、何を言っているの?」
なんと、それは日本語で語られた。
ヒカルは驚き、目を丸くして、あの酷く寒かった夜にも同じような状況があったことを思い出した。
一瞬あったのちに、気を取り直したヒカルは忠告した。
「あの人たちは、あなたの裸が困るのよ。すぐに命令に従ったほうがいいわ。さっきの人、どうしたの? あなた、殺してしまったの?」
「彼は死んでいない。少し麻痺しただけよ」
「でも、もう逆らわないほうがいいわ。あの人たち拳銃を持っているから。ほら、見える? 皆が腰に下げている物が」
すると天使は、いちばん近くにいた警官に向かって、
「それを見せてくれませんか?」
と、にこやかに近付き、頼んだのだ。
そして、手を伸ばした。
日本語を解さない警官は、その手を見て身構えた。
その途端、信じられぬほどの俊敏さで天使は動いた。乳房が揺れて、警官の手から拳銃をもぎ取った。
ダーン!
足元の土が弾けた。天使の指が引き金を引いていた。
警官隊は一斉に坂道に突っ伏した。いや、見物人も皆伏せた。
一瞬、静かになった。
「ああ!」
と、ひとり声を上げたのはヒカルだった。
硝煙が立ちのぼる銃口を、天使が興味深げな表情で覗いていたからだ。
ダーン!
二発目の銃声に、皆が十字を切った。
だが、天使はそこに立っていた。弾が顔から逸れたのだろうが、本人も驚いた顔付きでいた。
あっけにとられた警官隊──警官の数がいつの間にか増えていた──が見守る前で、彼女は拳銃をしげしげと検分し、面白そうにあちこちを弄くっている。
警官達はずるずると後退りし、しきりに十字を切った。坂下に停めた警察車両から、無線でやり取りする声が忙しなく飛び交った。
天使の斜め後ろで見ていたヒカルが声をかけた。
「ね、ねえ、大丈夫なの? あなた」
「武器を捨てろ!」
と、気を取り直したように警官が怒鳴っている。
「彼らはなにを言ってるの?」
その問いかけにヒカルが答えようとしたが、警官の警告が重なった。
「武器を、捨てるんだ!」
天使は振り返りざまに声を荒げた。
「言葉が分からないって言ったでしょ!?」
警官達は、彼女の語気に驚いた。
「いいから武器を捨てるんだ!」
するとあろうことか、天使は銃口を坂下へ向けた。警官隊の銃口がすべて坂上に向いた。
ダダダーン!
ダーン!
避ける間もなく、ヒカルは腹部に強い衝撃を受けて倒れ込んだ。