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時を嗤う少女  作者: 多草川 航
8/11

8.甦る記憶

 クライストチャーチの昼休み。レストラン・クラウンの店先で、油の塊のようになったフライドポテトの切れ端をフォークの先でよけながら、同僚のケリー・ウィルソンの眉が吊り上った。



「結局、何だったのかしらね、その男って」



 視線を皿の上からヒカル・スカイファーに移した。

 あの事件から、もう一ヵ月以上が過ぎた。八月も半ばになり、この町一帯の雪もほとんどが解けて、春の気配が感じられるようになった。



 ヒカルはあれ以来、警察に何度呼ばれたことか。事の経緯の説明や、テッド・パーカーことフィル・シェルの人相を繰り返し聞かれた。



 そこでヒカルにも分かったことがあった。

 あの夜、移送車の助手席にいた警官がひとり、怪我を負いながらも生きていたことだ。



 つまりその警官は、車がスリップを起こす直前のことも、その後に起きたことも、多少うろ覚えながら記憶していたのである。



 ──奥さん、そいつはいきなり空から降って来たのさ。



 ビリー・G・ソーントンが言ったとおり、一人の男が雷鳴轟く夜空から落ちてきた。その雷のことはヒカルもよく覚えている。


 あれは風呂に入ろうとする直前のことだった。



 生き残りの警官の話では、落ちて来た男は本当に裸だったようだ。道路の上にいきなり出現したという。



 移送車は急ハンドルを切って草地に横転し、十数メートルも滑った。

 エアバッグが作動したが、助手席が下になったため、その警官は身動きが取れなくなった。



 しばらくして車の後部側で銃の発砲音が数発あり、後部の扉が乱暴に蹴られる音が何回か続いた。ビリー・Gが怪我を負った二人の警官を撃ち殺し、もう一人の囚人とともに制服と拳銃を奪ったようだ。



 運転席にいた警官が上になったドアを押し開けて車外へ出たが、その直後に銃声がして、そして静かになった。



 直後、草地の向こうに裸の男の姿が見えたが、ビリー・Gの嘲り笑う声がして、また静かになった。警官にはエアバッグが邪魔で、裸の男の顔はよく見えなかったらしい。



 後日分かったことだが、運転席の警官は撃たれて路面に倒れていた。制服は剥がされていたが、彼の拳銃は車内から見つかった。つまり、横転して下になった助手席側に落ちていた。



 この撃たれて死んだ警官の名がテッド・パーカーである。

 管轄の違いから、この事実の連絡が約一日遅れとなった。



 ──俺の名はフィル・シェルだ。ヒカル、忘れたのか?



 ヒカルは家から立ち去る直前の男の様子を思い出していた。忘れたのかとは、どういうことなのか、いまだに彼女は分からないでいる。



 ナプキンを軽く折りたたみ、皿の上においたケリーが言った。

「フィリップスかしら、フィリップス・シェル。この辺では聞かない名ね。どうせロクでもない男だわ」と、決め付けた。



 ケリー・ウィルソンが電話をかけてきたあの夜、その後ヒカルの家で起きたすべてのことを、彼女が知っているわけではない。彼女が知っているのはマスコミから流れたことだけ。



 フィル・シェルが凍死しかかって、庭先に倒れていたこと。

 彼がテッド・パーカーと偽ったこと──制服を剥がすときに警察手帳で名前を確かめたのだろうが、フィルが手帳を所持しなかったことは当然のことだった。



 家中を暖めて彼を介護したこともニュースになった。

 いっとき彼が凶悪な逃走犯ではないかと疑ったことも。


 それからビリー・Gが現れ、死闘を繰り広げた……。



 だが、ヒカルが凍死しそうなフィルを助けようと必死になっていたとき──裸で温めていたとき──のことは誰にも話さなかった。



 いや、それだけではない。


 フィルが生き返ったとき、知らないはずのヒカルを見て彼女の名を呼んだこと。

 フィルが生き返ったとき、彼が最初に発した言葉が流暢な日本語だったこと。

 フィルが此処をオークランドだと勘違いしていたこと。



 これらのことが、どれだけの意味を持つのか分からなかったし、第一、逃走犯とは関係ないことに思えたので、警察には話さなかった。



 警察はビリー・G・ソーントンを捕まえたことで、ほっと胸を撫で下ろしている様子だった。

 ヒカルが伝えたフィルの人相は、明らかにもう一人の逃走犯とは違うものだった。



 一時、マスコミはラザ・モーガンがすでに雪の中で凍死しているのではないかとの見解を出していたが、ここに至ってその論調も過去のものとなった。



 この一帯のどこからも行き倒れの届け出がなかったからだ。ということは、フィル・シェルも無事なのだ、この国のどこかで生きているとの思いが、ヒカルの胸の中で強くなってきていた。



 そして何故か、彼のことを想うたびに胸が熱くなるのだった。


 ──ヒカル、忘れたのか?


 フィリップス・シェル、フィル・シェル……!



        ◇



 十八歳の時に中国人のアパートの階段下で気を失ったヒカルは、一旦救急医療室へ運ばれたが、その後一般の病室に移された。



「この点滴が終わったら担当医に診てもらって、そしたら多分帰れるから」

 看護婦はそう言い残して部屋から出て行った。



 その後、級友が何人かで見舞いに来て、そして賑やかな彼らが帰ったあと、ヒカルは急に睡魔に襲われて、いつの間にか寝入った。



 次に目を開けたとき、目の前の白いカーテンが揺れた。カーテンが開けられたから、目覚めたのかも知れなかったが、そこに現れた男を見てヒカルは驚いた。



 にっこりと笑ったその顔は、ハンサムというより魅力のあるいかつい顔。二十五、六に見えた。


 頼もしそうな男の人だった。前かがみになった胸元から、白地に赤い丸をかたどった銀色の鎖のネックレスが見えた。



 ヒカルは上体を起こしながら言った。

「ありがとうございました」



「いやあ」

 と、彼は照れ笑いを浮かべ、

「ヒカル、大丈夫かい?」

 と、握手を求めて来た。



 握手に応じながら、ヒカルは訊ねた。


「なぜ名前を知ってるの?」

 彼は肩をすくめて見せただけだった。

「あなたの名は?」



「フィル、フィル・シェルだ」



「あはっ、変な名前だね!」


 そう言った直後、ヒカルは言ったことを後悔した。ベッドの上で、かつ病院あつらえのパジャマ姿を見られたことに恥じらったからなのか。今でもそれは分からない。



 当のフィルはちょっと唇を固くつぐんで見せた。

 だが二人には、この時ゆっくりと話す機会を与えられなかった。先程の看護婦と医者が現れたからだ。



 フィルは椅子から立ち上がりながら、ヒカルに言った。


「将来、危険な人物が近付いてくるから気をつけろ」


 彼はここだけ流暢な日本語で語った。



        ◇



 突然、ヒカルがテーブルの下で組んでいた脚を上げたため、二枚の皿と二組のコーヒーセットが大きな音を立てた。



「ひゃ! どうしたのよ、ヒカル!」



 ケリーは両手でカップを支えた。カップは横になって、くるりと一回転した。



 ──あはっ、変な名前だね!



 ヒカル・スカイファーこと、天谷ヒカルに突然記憶が甦った。



 名前をからかって笑うヒカルの目の前にいたのは、当時八歳も年上のフィルだった。口をへの字に曲げて、不機嫌そうな表情を見せていた……。



 そう言えば、あの頃は日常的にいつもフィルの姿を目にしていたように思う。彼は特にハイスクールの関係者でもなく、学校に出入りする町の人間でもなく、ましてや恋人同士である筈もないのに。



 レストラン・クラウンの席を立って以降、ヒカルの心の中で十年に渡る疑問が渦巻いた。



 その月の終わりの日だった。

 ラザ・モーガンが河口で死んでいるのが発見された、という小さなニュースが流れた。逃走時に上流で川に落ち、雪解けとともに海まで流されたのだという。



 その日、ハイスクール時代の友達から電話があって、ラザが同じ学校の同学年だったと知らせて来た。

 失っていたヒカルの記憶が、はっきりと繋がった。



 オークランド近郊にホームステイしていた頃、小高い丘の上の公園を渡った先にあった赤い店先の中華料理店を訪ねたことがあった。


 中華料理屋の二階で言い争っていたラザと中野舞子。

 そして、血が流れた──。


 夢で見た出来事は夢ではなかった、ということだ。



 数日後、仕事から帰宅して、軒下に寄せた車から降りた時に、家の中から電話のベルが聞こえた。急いで家のドアの鍵を開け、中に入るとティムがそこにいて、じゃれついて来た。



 腹が空いているのだろう。分かっていたが、台所まで駆け寄って受話器を取った。聞こえてきたのは酷い濁声だった。



「ヘイ! 奥さん。もう緊急なんだ。お願いだよ、奥さん。この手を解いておくれ!」



 ヒカルは耳から受話器を離した。激しくなった動悸。手で胸を押さえた。しばらくのあいだ、その姿勢で動けなかった。



「ヒカル!?」

 受話器から聞き覚えのある別の声。恐る恐る受話器を近付けた。「ヒカル、元気にしてたかい?」



「テッド……いえ、フィルなの?」


「イエス」



 ヒカルは震える指で受話器を握りなおした。

「ああ、フィル。冗談が過ぎるわ!」





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