7.空から落ちて来た男
それから三十分後。頬傷の女が口を開いた。
「トイレに行きたいのよ」と、しおらしい声で。
「そこへどうぞ」と、ヒカルは答えた。「あとで拭いておくわ」
ヒカルとしては、あながちジョークでもなかった。この散らかりようでは、どのみち掃除し直さなければならなかった。
もちろんこうした問題が出て来ることは考えが及ばなかったが、両方を縛っておくという計画を変更するつもりはなかった。
申し訳なさそうにテッドを見ると、彼は言った。
「俺なら当面、大丈夫だよ」
その後、ヒカルは三十分ごとに電話をチェックした。
頬傷の女は身をくねらせている。悲惨な状態になりつつあるのだろうか。
辛いのはテッドも同じはずだが、彼はそれを表に出さず、ヒカルと目が合うたびにニタッとした。ただし、殴られて青アザの浮いた顔なので、笑顔というより引きつっているみたいだ。
「通じたわ!」
何度目かのチェックで、ヒカルは勝ち誇ったように叫ぶと電話番号を押した。二人がいっせいにヒカルを見た。
受話器からは歯切れのいい男の声が応対に出た。ヒカルは、
「こんにちは、警察ですね。こちらは、ヒカル・スカイファー」と名乗ってから住所を告げた。
「今、我が家に男と女が来ています。男の方はテッド・パーカー。もう一人の名前は……」
彼女は頬傷の女を振り返った。女は横目で睨み付けるだけで、口はへの字に噤んでいた。
「名前は分からないですけど、左頬に大きな傷があります。どちらも自分が警官で、もうひとりは殺人犯だと主張してます。二人が誰だか、教えていただけます?」
「クソッタレ!」
受話器から大声が轟いた。
「え?」
「あ、いや、すみません。つい汚い言葉を使ってしまって。今、パーカーがそちらに居るとおっしゃったんですよね?」
「ええ、そうです。彼はお宅の警官なんですか?」
「そうです」
と、電話の向こうの警官は言った。
ほっと胸を撫でおろし、ヒカルはテッドを見た。
さらに受話器から訊ねてきた。
「パーカーともう一人は……」
「二人を椅子に縛り付けて、拳銃を突き付けてます」
「はあ?」
「ですから……」
「スカイファーさん、もう一度お聞きしますが……」
「それより一応確認のため、パーカー警官の風貌を教えてください。目の色は?」
電話の向こうで、警官が面食らっているのがわかる。
「彼の目ですか? ええっと……だいたいのところをお伝えすると、身長はおよそ六フィート、体重百六十五ポンド、金髪に瞳は茶色です……」
ヒカルはショックのあまり、口がきけなかった。
「……スカイファーさん?」
受話器の向こうの問いかけは耳に入らなかった。
恐ろしくなり、テッド・パーカーを振り返ることも出来ない。
パーカー警官と身長はほぼ同じだが、体重は七十五キロ位でなければならない。ここにいるテッドと称する男は、九十キロくらいに見える。
髪は黒に近い茶髪だし、瞳は青だ。
「奥さん! 奥さん!」
頬傷の女が呼んでいた。ヒカルは振り返った。
テッド・パーカーと称する男を見ると、天井を仰いだまま動かないでいる。
「ごめんなさい! もう緊急なの!」
と、頬傷の女は言った。「トイレへ行かせて! お願いよ、奥さん!」
と、必死の表情で懇願した。
ヒカルは受話器を肩と耳の間に挟むと、拳銃を構えたままでヨロヨロと歩み出し、シンクの下の扉から果物ナイフを引き出した。
「駄目だ、ヒカル!」
テッドと称する男が喚いた。「そんなことをしたら危険だ!」
この期に及んで、この男はまだそんなことを言い張っている。
「ハロー? スカイファーさん……」
「はい」と、電話に弱々しい返事を返す。
途中で電話のコードの長さが足りず引っ張られた。手にしていた拳銃を足元に置き、受話器を耳から離して両手を目一杯伸ばした。
「ヒカル! 駄目だ!」
ナイフで縄代わりのスカーフを切った。
「ああ……サンキュー、奥さん」
と、頬傷の女は己の両手を揉みしだいた。
長いこと縛られていたせいで痺れているのだろう。手を広げて閉じるを何度も繰り返している。
「足は自分で解くわ」
「スカイファーさん!?」
と、受話器から大声が飛び出した。
テッドと称する男は、まるで観念したように目を堅く閉じている。
「どうか、されましたか?」
と、電話の向こうの警察官。
「いえ……」
なぜ否定したのか、ヒカル本人にも分からないが訊いた。「もう一人、こちらが警官なのですね?」
勿論、肯定してくるものと思っていた。ところが、
「いいえ、そうは言っていません! その女の頬に目立つ傷がありますか?」
「ええ」
ヒカルは弱々しく返事を返した。
「そいつは服役囚のビリー・Gです。左頬にはっきりとした傷があるんですよね? そいつは、ビリー・G・ソーントンです。凶悪な奴なんで、今からすぐに警官を数名、そちらに向かわせますので……」
偽警官と凶悪な逃亡犯──。
どういうことなの?
ここには警官など一人も居なかった。
ヒカルは振り返り、女の所在を目で追った。
頬傷の女、ビリー・G・ソーントンは居間との境に立っていた。いつの間にか服を着込んでいる。
慌てて床の拳銃を拾いあげた。立ち上がったとき、ヒカルは手首を激しく叩かれた。
激痛。その衝撃で、拳銃は台所の端まで飛んだ。
ビリー・Gが猟銃を構え、目の前に立っていた。満足げにニヤついて、受話器を元に戻すようにと無言で指図した。
茫然とするヒカル。ナイフを手にしていることさえ忘れている。ふらふらと歩き、受話器を元に戻した。
「それでいい。こっちへ来るんだ」と、ビリー・Gは言った。
「彼女に手を出すな!」
と言ったのは、すでに信じられなくなったテッドと称する男だった。
後ろ手に括りつけられた椅子を激しく揺すっている。
ティムの唸り声がした。犬は暖炉の前で、今にも飛び掛からんばかりでいる。
果物ナイフを手にしているものの戦闘経験のないヒカルが、体格があり凶暴な相手に立ち向かえるはずもない。すんなりとナイフも奪われた。
ビリー・Gはその腕をヒカルの首に巻きつけ、窓の外を見ながら言った。
「さて……この降雪じゃ、警察もここまで来るには小一時間はかかるだろう。そのあいだに出来るだけ遠くへ逃げる。まだ陽射しがあるうちに」
すると、椅子に括り付けられた“テッド”が訊いた。
「こんな雪の中、どうやって逃げるつもりだ」
「そうね、車って言いたいところだけど、さすがに無理。裏小屋に立て掛けてあったスキー板を拝借するさ……相棒」と、ニヤつく。
相棒と聞いて、ヒカルは声を出さずにいられなかった。
「やっぱり、そうだったのね。わたしを騙していたのね!」
と、“テッド”に言い募った。「あなたたち二人とも警察から逃げて来たんだわ! しかも、警官を三人も殺して!」
ヒカルは剣幕を露わにした。
「違う!」と、遮ったのは“テッド”だった。
「どこが違うと言うのよ!?」
ヒカルは怒った。
だが、その問い掛けに応えたのは、なんと背後にいるビリー・Gのほうだった。
「奥さん、そいつはいきなり空から落ちて来たのさ」
と、反応を待つかのように、そこで言葉を切った。「警察の移送車のスリップ事故は、ただの事故じゃない。確かに雪は降っていたけどね。あそこは直線道路だ。何かなきゃあ横転などするわけない。
そいつが突然、道路の上に現れたのさ。しかも、裸だった。こいつは一見まともそうに見えるが、キ印さ」と、笑い出した。
ひと笑いすると、ビリー・Gは急に真顔になった。そして言い放った。
「グッバイ、相棒」
身動きできない“テッド”に銃口が向けられた。
「やめて!」
身を沈めてビリー・Gの足を踏みつけたヒカルは、腕を振り解いて彼女から離れた。
ビリー・Gは汚い言葉で罵った。そして、
「どっちが先でも、たいした違いはないのよ」と、銃口をヒカルのほうに向けて呟くように言った。
「やめろ!」
椅子に縛られた男が叫んで体を大きく捩った。“テッド”は椅子ごと床に倒れた。
だが、躊躇いもせず引き金は引かれた。
カチッ!
訝しげな表情で、再度構えなおすビリー・G。
カチッ!
目を丸くし、見る見る形相が険しく醜く変わる。そして彼女は叫んだ。
「このっ! 売女がぁー!」
猟銃を持ち替えた女は、その銃床を振りかざし、ヒカルの頭へ向けて振り下ろした。
「きゃー!」
思わず避けた二の腕に激しい衝撃を受けて、ヒカルは木床の上に倒れた。
ティムが吠え、ビリー・Gを目掛けて跳びかかった。だが、木製の銃床で一突きされ、払いのけられて床に落ちた。
すぐに姿勢を起こして、ティムは再度脚に噛み付こうとしたが、またも叩かれた。犬は弱々しく唸り声を上げた。
ビリー・Gはなおもヒカルに歩み寄り、
「くたばりな!」
と、猟銃を振りかざす姿勢をとった。
そのとき木椅子が軋んで床に当たる音。
その音を聞いて振り向いたビリー・Gと、“テッド”の眼が合った。
床に倒れている“テッド”の足は半壊した椅子に括り付けられているが、見ると彼の両腕はいつの間にか自由になっていた。
ビリー・Gの視線は今、“テッド”の向こう側──台所の入り口──に転がっている拳銃にあった。
それを察した“テッド”、そしてビリー・Gは同時に拳銃に突進した。ただし、“テッド”のほうは転がりながらだが、辛うじて近い距離にいた彼のほうが早かった。
銃を握り振り向く。
ビリー・Gは体を翻しながら猟銃を投げつけた。
床に当たり跳ね返った猟銃は“テッド”の頭をかすめた。
ビリー・Gは姿勢を低くしながらドアに向かってまっしぐらだ。
ダーン!
「くそ!」
銃弾は外れ、木壁に穴をあけた。
ノブを握ってドアを手前に引きかけているビリー・Gに向けて、床に伏せて両腕を伸ばした“テッド”は、さらに引き金を引いた。
ダーン!
足に括り付けられた椅子を床に叩きつけて壊すと、“テッド”は起き上がりドアに向かった。
太腿を押さえ、崩れるようにして倒れたビリー・Gは苦しげな、そして憎々しげな表情で相手を見上げていた。
ヒカルはようやく冷静を取り戻しつつあった。上体を起こし、左の二の腕を押さえて床に座っていた。“テッド”が戻って来て訊いた。
「大丈夫か?」
「ええ、たぶん」
「随分、思い切ったことをしたな」
弱々しげに笑顔を返すヒカルに、「猟銃だよ。肝を冷やしたよ」
「言ったでしょ……日本人は総じて頭がいいのよ」
男は両手を広げ、肩をすくめた。ヒカルは言った。
「あの時、あいつは椅子に括り付けられていたし、あなたには、『弾薬を見つけた』と言えば、信用するだろうと思ったの。『ジャケットのポケットにあった』と言ったら、事実なんだから疑わないでしょ?」
もう一度、“テッド”は肩をすくめて見せた。
ティムの唸り声がして、二人してドアの方向を振り返った。
「おい、この犬をどうにかしてよ」
傷ついて床に倒れた女は言った。「今にも咬み付かれそう!」
そう言うと、ビリー・Gは仰向けになって体を伸ばした。
ヒカルと“テッド”の二人だけの経緯を知らない彼女にとって、猟銃の薬室内の弾の有無など疑う余地もなかったのだ。
「あら、それも仕方がないことだわ。あなた、ティムを何度も蹴ったじゃないの」
「痛いよ、奥さん。そのネクタイで脚の付け根をきつく縛ってくれない?」
「もうじき警察が来る。おとなしくしていろ」
と、“テッド”が付け足した。
「あの時は取り敢えず、あなたから拳銃が預かれれば良かったの。上手くいったわ」
「ああ、だが危なかったな。それにしても、猟銃には弾を込めていなかったのだから、何故すぐに反撃しなかったんだ?」
ヒカルは首を振った。
「そんな簡単なことではないわ。わたし、ブルブル震えてたんだから……ああなってしまった以上、あいつには猟銃を持ったまま何事もなく出て行って欲しかったの。そう願った。
でも、あいつは私たちを殺す気だった。あとは殴り殺されるか、あなたに賭けるか、どちらかしかなくなったわ」
「ああ、きみは賭けに勝ったのさ。俺の手を縛ったネクタイが緩かったのは何故だい?」
「あらっ、そうだったかしら。わからない」
ヒカルは頭を振った。「あの時点では、心のどこかで、まだあなたを信じていたのかしら」
ニコッと微笑む“テッド”。
「それにしても、きみには驚かされることばかりだ」
拳銃を腰の後ろのベルトに差しながら、彼は腰を下ろした。そしてヒカルの腕をそっと掴むと、ゆっくりと上下させた。
「痛くはないわ。後で腫れ出すことはあるでしょうけど」
「ふむ、湿布しておくか? 薬箱はあのまま寝室に?」
「ええ。それより、あなたはどなたかしら?」
と、多少皮肉めいた言い方。「警察官でも凶悪犯でもなかったってことは、もう一人の逃走犯ってことかしら」
すると“テッド”は大笑いした。砕けた椅子の足と、自分の足とを括っているネクタイを解きながら言った。
「そいつのことは知らない。俺は違うよ」
ヒカルは無言で問うているような表情を返した。
「俺の名はフィル。フィル・シェルだ。覚えていないのか? ヒカル」
ヒカルは首を振って見せた。
ティムが尻尾を振りながら、床に座り込んでいる彼女に近付いて来た。だが急に立ち止り、耳を立てた。
その様子を見たヒカルは、“テッド”の口元に手の平を近づけた。
「しっ」
遠くから微かにモーター音がする。
「スノーモービルだ」
と“テッド”は言い、立ち上がった。
警察が来たのだ。意外と早かった。
「どこへ行くの!? テッド」
裏口へ急ぐ男を見て、慌ててヒカルは訊いた。
「俺はフィルだ。ここに居たら、厄介なことになる」
彼はハリソンのジャケットを着込んでいる。
「やっぱり、あなた……」
「いやっ、違う。俺はこの国では住所不定の身なんだ。ヒカル、スキー板を借りるぞ」
そう言って男は戸外へ出ると振り返った。「ティム! そいつをよーく見張ってろよ!」
名を呼ばれた犬は、床に倒れたままの女の傍らで低く唸ったあと、一声吠えて応えた。
フィルは軒下伝いに裏小屋方向へ消えた。
「なによ! 返すつもりもないくせに!」