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時を嗤う少女  作者: 多草川 航
6/11

6.凶悪犯


 ヒカルは今、襲いかかってきた眩暈のほうと闘っていた。


 テッドも無傷ではなかった。右の頬骨には瘤が出来つつあり、左の眉毛には血が固まっている。唇は切れて血が滲んでいた。彼は目元の血のほうを拭って、ヒカルを見た。



「大丈夫か?」


「ええ」


 と、答えてはみたものの、カウンターの角にぶつけた肩がズキズキして、いつ気絶するか自分でもわからなかった。



「そうは見えないぞ。座って……」



 彼はざっとまわりを見て、壊れていない椅子を立てると、ヒカルの肩に手を置いて押すようにして座らせた。



「アドレナリンだ」

 テッドは端的に言った。「恐慌状態を脱すると、力が抜けたように感じる」



 それから頬傷の女に向きなおって言った。



「裏の小屋に押し入ったんだろう? 向こうの暖炉に火を入れて、暖かく快適に過ごした。吹雪が荒れ狂ってる間は、煙突から昇る煙も見えないからだ。


ところが天気が良くなったんで、火を消さなきゃならなくなった。酷い寒さだったろうな。だが防寒具と食料がなけりゃ、山に逃げ込むわけにもいかない。それで、こっちに押し入るしかないことに気付いたわけだ」



「結構な筋書きだね」

 と、頬傷の女は応じた。「おまえが後からやって来たら、そうするつもりだったのかい?」


 目を開けて女は周囲を見回した。「奥さん、おひとり? ほかの家族は、やっぱりおまえが殺しちまったのか?」



「黙れ! 口からでまかせを」



 ヒカルはテッドの視線を感じた。頬傷の女の話に、どう反応するか気にしているのだろう。

 それでも、ヒカルは眉ひとつ動かさず、囚われの女を見つづけた。



 平静さを保つのは、難しくなかった。感覚が麻痺して茫然としていたからだ。

 テッドがヒカルの椅子の前にしゃがみこんだ。彼女の頬に触れてから、両手をくるんだ。



 ヒカルは瞬きして、彼の目に焦点を合わせた。

 眉は軽くひそめられ、青い瞳で探るようにこちらを見ている。



「やつの心理ゲームに惑わされるなよ。肩の力を抜いて。俺を信用してくれ」



「その男の話を聞いちゃだめだよ、奥さん」と、頬傷の女が言った。



 その声を無視して、テッドは続けた。


「気分が良くないんだろ? しばらく、横になってたほうがいいかもしれない。さあ、おいで。手を貸すから、長椅子へ移動しよう」



 ヒカルの肘に手を添えて立たせた。だが、彼女が向きを変えて歩き出そうとした途端、テッドは腹立たしげに悪態をついて引きとめた。



「どうしたの?」


 彼の豹変ぶりに戸惑って、ヒカルは尋ねた。



「きみは怪我をしてないと言った」


「ええ、してないわ」


「背中から出血してる」



 テッドは険しい顔でヒカルを一階の寝室に引きたてる。立ち止まって猟銃をラックに戻してから、彼女をバスルームに押しやった。光がよく入るようにカーテンを開け、彼女のシャツのボタンをはずしだした。



「その傷、さっき倒れたときにカウンターの角でぶつけたの」



 ヒカルが手を出そうとすると、テッドはその手を払ってシャツを脱がせ、自分のほうに背中を向けさせた。



 ヒカルは震えた。テッドが洗面用のタオルを湿らせて背中に押しあてる。肩甲骨のすぐ下あたりだ。ヒカルは痛みにたじろいだ。



「背中に特大の青アザが出来つつある」


 テッドはそっと傷口を洗っている。「アイスパックをしなきゃならないが、まずは傷口を消毒してその上にガーゼをあてる。救急用品はどこにある?」



「食器棚の上」


「ベッドに横になってろ。すぐに戻る」



 ヒカルはうつ伏せになった。だが、シャツを着ていないので寒い。体のまわりに上掛けを引き寄せた。



 台所のほうからテッドと女の声が聞こえる。二声三声聞こえたあと、女の大きな声がした。


「奥さん、大丈夫!? この男に変なことされてない!?」


 すると直後に椅子が倒れる音がした。



 テッドが救急箱を持って、ヒカルがいる部屋へ戻って来た。膝に救急箱を抱えて、ヒカルの脇に腰を下ろした。



 抗生物質の軟膏を傷口に塗る手つきは優しかったが、軽く触れられただけで痛みが走る。ヒカルは耐えると決めて、もうじたばた動かなかった。



「あの女の人に何かしたの?」



 テッドは答えなかった。傷口にガーゼをのせ、Tシャツでヒカルの体を覆った。



「静かに横になってろ。今度はアイスパックを取ってくる」



 テッドお手製の即席アイスパックは、ジップロックのビニール袋にクーラーボックスの氷を詰めたものだった。そっと背中に置かれた瞬間、ヒカルは跳びあがった。



「凍えちゃう!」


「そうか、Tシャツが薄過ぎるのかな。いまタオルを持ってくる」



 彼はバスルームからタオルを取ってきて、Tシャツの代わりに掛けた。これで、どうにか耐えられる程度の冷たさになった。それでも部屋は冷えきっている。テッドはさらに上掛けをかけてくれた。



「まだ寒いか?」

 彼女の髪を撫でながら尋ねた。「なんなら、二階に運んでやるぞ」



「いいえ、上掛けがあれば大丈夫。でも、なんだか眠いわ」



「ショックの反動だ」

 腰を屈めて、こめかみに軽くキスした。「少し休んだらいい。次に目を覚ましたときは気分がよくなってるよ」



「今は自分がすごく弱虫になった気分」


「殴り合いは初めてか?」


「ええ、そうよ。気持ちのいいもんじゃなかったわ。わたし、お嬢ちゃんみたいだったでしょ?」



 テッドは喉を転がすように笑った。指でそっと髪を撫でている。



「お嬢ちゃんってのは、どう振る舞うものなんだ?」


「ほら、映画に出てくるじゃない。きゃあきゃあ悲鳴をあげながら、人の邪魔をするのよ」


「きみも悲鳴をあげた?」


「あげたわよ、あいつがドアを蹴破ったとき。天地がひっくり返ったかと思ったわ」


「なるほどね。それで、きみは邪魔をしたかい?」


「しないように努力したわ」


「邪魔なんかしてないよ、可愛いね、きみは」

 ちから付けるような口調だ。「きみは冷静さを失わず、猟銃を取ってきて、奴に突きつけた」



 もう一度、唇を寄せてくる。冷えた皮膚に彼の唇が温かい。



「どんな戦いでも、俺ならきみを味方に選ぶさ。さあ、眠ったほうがいい。台所の掃除は心配するな。ティムと俺でやっとくから」



 彼が望んでいるとおりにヒカルが笑顔を返すと、テッドはベッドから立ちあがった。ヒカルが目を閉じて数秒後、静かにドアが閉まる音が聞こえた。



 目を開いた。


 アイスパックが肩の痛みを和らげてくれているので、静かに横たわっていた。十五分冷やしたら、十五分休む──記憶が確かなら、それが氷を使った効果的な治療法だ。



 テッドは最低でも一時間は様子を見に来ないと踏んだ。そして今、自分をいたわっていられる時間は僅かしかない。



 彼が台所を動きまわる音が聞こえてくる。割れたガラスを掃く、澄んだ音。木がバリバリ鳴っているから、砕けた椅子の残骸を処分しているのだろう。



 小麦粉が舞ってもたらした被害は甚大だった。綺麗にするにはまず掃除機をかけなければならないが、まだ電気は通じていない。モップで小麦粉をすべて洗い流すには大変な時間がかかる。



 囚われの頬傷の女の声らしきものは聞こえなかった。



 ヒカルは上掛けを剥ぎ、ゆっくりとベッドを出た。静かにクローゼットの扉を開け、ハリソンのスエットシャツを取り出すと、恐る恐る頭から被った。



 傷んだ肩と背中の筋肉が抵抗し、その痛みにたじろいだ。

 そして、弾薬の捜索を開始した。



 三十分後、探している箱が見つかった。ハリソンのジャケットのポケットの中にあった。

 ヒカルは、ハリソンのネクタイを五、六本首にぶらさげて寝室を出た。手には猟銃を握っている。



 頬傷の女は最後にヒカルが見たときとは違う姿勢だった。椅子ごと仰向けに倒れていた。



 ヒカルの足音を聞きつけて見えるほうの目を開き、猟銃に気付くと目を丸くした。

 そして、うっすらと満足げな笑みを浮かべ、ヒカルに頷きかけた。



 テッドは台所で数枚の布巾を洗っている。片付けはあらかた終わっていたが、哀れなほど家具の数が減り、ところどころにまだ小麦粉が残っていた。



 テッドが布巾を絞りながら言った。


「こいつは只者じゃないって言ったろ? 相当な筋力を鍛え上げて来た女だ。ただの女と思っていたら危険だ。それに減らず口も相変わらずだしな。こうしておけば、少しは……」



 その後なにを言うつもりだったにしろ、猟銃を構えたヒカルを見たとき、テッドの唇は凍りついた。



「右手はわたしから見える位置に出しておくのよ」


 と、ヒカルは静かに告げた。「左手で腰の後ろから拳銃を取り出したら、テーブルに置いて、こちらに滑らせて」



 テッドは動かない。青い瞳に険しく、冷たい表情が浮かんだ。


「どうするつもりだ?」



「わたしの言うとおりにして」



 テッドはちらりとも猟銃を見なかった。口を一文字に引き絞り、彼女のほうに歩きだした。



「弾薬なら見付けたわよ!」

 と、彼が猟銃に手の届く距離まで来る前に、急いで言った。「ジャケットのポケットにあったわ」



 これでハッタリではないことが彼にも分かる。テッドは立ち止まり、怒りに顔を歪めた。猟銃を持っていなければ、その形相の恐ろしさにすくみ上がっていたところだ。



「拳銃を出して」と催促した。



 彼は右手をテーブルに置いたまま、ゆっくりと左手を背中にまわすと、抜き出した拳銃をテーブルに乗せて、彼女のほうに滑らせた。



「あたしのも忘れるなよ」


 ヒカルの背後から、頬傷の女の声が飛んだ。少し呂律ろれつがまわっていない。殴られた口と顎が腫れ、黒ずんできていた。



「もう一挺いっちょうもよ」

 テッドの剣幕に怯むことなく、ヒカルは命令した。


 彼は黙って従った。



「次は一歩下がって」



 テッドは言われたとおり下がった。

 ヒカルは自分の拳銃を手に取り、猟銃を置いた。ヒカルにとって、拳銃のほうが手軽に扱える。



「そう、それでいいわ。椅子に座って、手を後ろにまわして」



「いい加減にしろ、ヒカル」

 テッドが噛みしめた歯の間から、声を押し出した。「そいつは殺人犯だ。そいつの言うことに耳を貸すんじゃない。だいたい、なんでそんな奴の話を信じるんだ?」



「座って!」


 ヒカルはもう一度命じた。



「どうしてだ! どうして俺の言葉に耳を傾けようとしない!」


 テッドは怒りに駆られていた。



 ヒカルは言った。


「移送車の事故のニュースをラジオで聴いたの。三人の警官が殺され、二人の服役囚が逃げた」



 そう告げる間、テッドの顔から目を離さなかった。彼の瞳孔が広がり、顎がこわばる。



「それと、制服があなたの体格とは違っていたわ。財布も持っていないし、制服のズボンは破れて血がついていたのに、あなたの体のその箇所には傷一つ負っていない」



「じゃあ、支給品の拳銃はどう説明する? 俺が制服を盗んだんなら、なぜ銃も一緒に盗まなかった?」



「分からないわ」

 ヒカルは認めた。「事故のとき、あなたは意識を失って、次に気付いたときには、ほかの服役囚が先に銃器を盗って逃げていたのかもね。細かいことまで、全部分かってるわけじゃないの。


ただ、辻褄の合わない部分が沢山あって、あなたの答えは説明になっていない。どうして猟銃を空にして弾薬を隠したの?」



 テッドは臆さず答えた。


「安全のためだ」



 彼女も同様に応じた。


「ほらね。さあ、腰掛けて」



 彼は座った。状況が気に入らないようだが、ヒカルの指は引き金にかかり、その瞳には迷いがなかった。



「手を後ろに!」



 テッドは手を後ろにまわした。怒りで顔が赤くなっている。

 彼が急に向きを変えて拳銃を叩き落とす場合を考慮して、ヒカルは彼の手が届かない背後にまわった。



 首に提げたネクタイを一本取って、ゆるい輪を二つこしらえた。それから素早く彼に近付き、輪を手にかけて端をきゅっと引いた。



 テッドは動こうとして体重を移動したが、手首が締めあげられるなり観念したように言った。


「手際がいいんだな。どうやったんだ?」



「あら、日本人は総じて手先が器用なのよ。投げ縄みたいに輪を作っておいたの。あとは引っぱるだけ。頭いいでしょ?」



 余った両端を手首の間に巻きつけて輸をきつくし、適当な位置で結び目をつくる。



「これでよし、と。次は足よ」



 テッドはおとなしかった。椅子の脚に足を縛られた。



「聞いてくれ」

 それでも、彼は言わずにいられなかった。「俺はこの辺りに来たばかりで間がないから、まだ俺のことを知らない人も多い。信じてくれ、怪しい者じゃない」



「そうだろうさ」

 頬傷の女が怒声を浴びせかけた。「警官三人を殺したおまえのことだから、ここを出る前に彼女も殺すつもりだったんだろ?

さあ、奥さん、あたしをほどいておくれ。手の感覚がなくなってきた」



「やめろ、ヒカル! そいつが囚人だ。俺の話を聞けって!」



 ヒカルは居間を歩き、暖炉に薪を足した。それから電話の前で立ち止まり、受話器を持ちあげてダイアル・トーンを確かめた。まだ、なにも聞こえない。



「なにをしてるの?」

 頬傷の女がなじった。「とりあえず椅子を起こしてよ。あたしの大事なところが風邪ひくよ」



「いやよ」ヒカルは答えた。



「なんだって?」


 女は耳を疑う、といった調子だった。



「いやだって言ってるの。電話が復旧したら警察に電話をかけ、状況がはっきりするまでは、二人とも今のままでいてもらうのが一番だと思う」



 一瞬、呆気にとられたような沈黙が広がった。

 すると、テッドが天を仰いでゲラゲラと笑い出した。



 頬傷の女はあんぐりと口を開けてヒカルを見上げていたが、急に表情が変わり、顔を火の玉のようにして怒鳴った。



「この! 腐れ売女ばいた!」



「あらっ、酷い言われようね」



「はははは、さすがは俺が惚れた女!」

 テッドの笑い止まない。「愛してるよ! ハニー。これで今回の件も許す。お陰でこれから先何年も、優しい目をした可愛い女に先手を打たれたって、まわりから冷やかされるだろうけどな!」



 ヒカルは笑っている青い瞳に目をやった。笑い過ぎて涙が光っているのを見て、ニッコリせずにいられなかった。



「多分、わたしも愛してる、テッド。でも、まだ解くわけにはいかないわ」



 頬傷の女が言った。


「奴はあなたを騙してるんですよ、奥さん。なんでそれが分からないの?」



「奥さん?」ヒカルは問いかけた。「さっきとは違う呼びかたみたいだけど?」



「悪かったわ。つい、頭に血が昇ってしまって」

 と、ぎこちなく息を継ぐ。「あなたが、こいつの甘いおべんちゃらに騙されるのを見てたら、むしゃくしゃしたもんだから」



「そう?」


「こいつが嘘をついているのが、どうしたら分かってもらえます?」


「今あなたに出来ることはないから、黙っているのが一番かもしれないわ」



 ヒカルは愛想よく応じた。

 クックック、とテッドが横を向いたままで笑いを堪えた。





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