6.凶悪犯
ヒカルは今、襲いかかってきた眩暈のほうと闘っていた。
テッドも無傷ではなかった。右の頬骨には瘤が出来つつあり、左の眉毛には血が固まっている。唇は切れて血が滲んでいた。彼は目元の血のほうを拭って、ヒカルを見た。
「大丈夫か?」
「ええ」
と、答えてはみたものの、カウンターの角にぶつけた肩がズキズキして、いつ気絶するか自分でもわからなかった。
「そうは見えないぞ。座って……」
彼はざっとまわりを見て、壊れていない椅子を立てると、ヒカルの肩に手を置いて押すようにして座らせた。
「アドレナリンだ」
テッドは端的に言った。「恐慌状態を脱すると、力が抜けたように感じる」
それから頬傷の女に向きなおって言った。
「裏の小屋に押し入ったんだろう? 向こうの暖炉に火を入れて、暖かく快適に過ごした。吹雪が荒れ狂ってる間は、煙突から昇る煙も見えないからだ。
ところが天気が良くなったんで、火を消さなきゃならなくなった。酷い寒さだったろうな。だが防寒具と食料がなけりゃ、山に逃げ込むわけにもいかない。それで、こっちに押し入るしかないことに気付いたわけだ」
「結構な筋書きだね」
と、頬傷の女は応じた。「おまえが後からやって来たら、そうするつもりだったのかい?」
目を開けて女は周囲を見回した。「奥さん、おひとり? ほかの家族は、やっぱりおまえが殺しちまったのか?」
「黙れ! 口からでまかせを」
ヒカルはテッドの視線を感じた。頬傷の女の話に、どう反応するか気にしているのだろう。
それでも、ヒカルは眉ひとつ動かさず、囚われの女を見つづけた。
平静さを保つのは、難しくなかった。感覚が麻痺して茫然としていたからだ。
テッドがヒカルの椅子の前にしゃがみこんだ。彼女の頬に触れてから、両手をくるんだ。
ヒカルは瞬きして、彼の目に焦点を合わせた。
眉は軽くひそめられ、青い瞳で探るようにこちらを見ている。
「やつの心理ゲームに惑わされるなよ。肩の力を抜いて。俺を信用してくれ」
「その男の話を聞いちゃだめだよ、奥さん」と、頬傷の女が言った。
その声を無視して、テッドは続けた。
「気分が良くないんだろ? しばらく、横になってたほうがいいかもしれない。さあ、おいで。手を貸すから、長椅子へ移動しよう」
ヒカルの肘に手を添えて立たせた。だが、彼女が向きを変えて歩き出そうとした途端、テッドは腹立たしげに悪態をついて引きとめた。
「どうしたの?」
彼の豹変ぶりに戸惑って、ヒカルは尋ねた。
「きみは怪我をしてないと言った」
「ええ、してないわ」
「背中から出血してる」
テッドは険しい顔でヒカルを一階の寝室に引きたてる。立ち止まって猟銃をラックに戻してから、彼女をバスルームに押しやった。光がよく入るようにカーテンを開け、彼女のシャツのボタンをはずしだした。
「その傷、さっき倒れたときにカウンターの角でぶつけたの」
ヒカルが手を出そうとすると、テッドはその手を払ってシャツを脱がせ、自分のほうに背中を向けさせた。
ヒカルは震えた。テッドが洗面用のタオルを湿らせて背中に押しあてる。肩甲骨のすぐ下あたりだ。ヒカルは痛みにたじろいだ。
「背中に特大の青アザが出来つつある」
テッドはそっと傷口を洗っている。「アイスパックをしなきゃならないが、まずは傷口を消毒してその上にガーゼをあてる。救急用品はどこにある?」
「食器棚の上」
「ベッドに横になってろ。すぐに戻る」
ヒカルはうつ伏せになった。だが、シャツを着ていないので寒い。体のまわりに上掛けを引き寄せた。
台所のほうからテッドと女の声が聞こえる。二声三声聞こえたあと、女の大きな声がした。
「奥さん、大丈夫!? この男に変なことされてない!?」
すると直後に椅子が倒れる音がした。
テッドが救急箱を持って、ヒカルがいる部屋へ戻って来た。膝に救急箱を抱えて、ヒカルの脇に腰を下ろした。
抗生物質の軟膏を傷口に塗る手つきは優しかったが、軽く触れられただけで痛みが走る。ヒカルは耐えると決めて、もうじたばた動かなかった。
「あの女の人に何かしたの?」
テッドは答えなかった。傷口にガーゼをのせ、Tシャツでヒカルの体を覆った。
「静かに横になってろ。今度はアイスパックを取ってくる」
テッドお手製の即席アイスパックは、ジップロックのビニール袋にクーラーボックスの氷を詰めたものだった。そっと背中に置かれた瞬間、ヒカルは跳びあがった。
「凍えちゃう!」
「そうか、Tシャツが薄過ぎるのかな。いまタオルを持ってくる」
彼はバスルームからタオルを取ってきて、Tシャツの代わりに掛けた。これで、どうにか耐えられる程度の冷たさになった。それでも部屋は冷えきっている。テッドはさらに上掛けをかけてくれた。
「まだ寒いか?」
彼女の髪を撫でながら尋ねた。「なんなら、二階に運んでやるぞ」
「いいえ、上掛けがあれば大丈夫。でも、なんだか眠いわ」
「ショックの反動だ」
腰を屈めて、こめかみに軽くキスした。「少し休んだらいい。次に目を覚ましたときは気分がよくなってるよ」
「今は自分がすごく弱虫になった気分」
「殴り合いは初めてか?」
「ええ、そうよ。気持ちのいいもんじゃなかったわ。わたし、お嬢ちゃんみたいだったでしょ?」
テッドは喉を転がすように笑った。指でそっと髪を撫でている。
「お嬢ちゃんってのは、どう振る舞うものなんだ?」
「ほら、映画に出てくるじゃない。きゃあきゃあ悲鳴をあげながら、人の邪魔をするのよ」
「きみも悲鳴をあげた?」
「あげたわよ、あいつがドアを蹴破ったとき。天地がひっくり返ったかと思ったわ」
「なるほどね。それで、きみは邪魔をしたかい?」
「しないように努力したわ」
「邪魔なんかしてないよ、可愛いね、きみは」
ちから付けるような口調だ。「きみは冷静さを失わず、猟銃を取ってきて、奴に突きつけた」
もう一度、唇を寄せてくる。冷えた皮膚に彼の唇が温かい。
「どんな戦いでも、俺ならきみを味方に選ぶさ。さあ、眠ったほうがいい。台所の掃除は心配するな。ティムと俺でやっとくから」
彼が望んでいるとおりにヒカルが笑顔を返すと、テッドはベッドから立ちあがった。ヒカルが目を閉じて数秒後、静かにドアが閉まる音が聞こえた。
目を開いた。
アイスパックが肩の痛みを和らげてくれているので、静かに横たわっていた。十五分冷やしたら、十五分休む──記憶が確かなら、それが氷を使った効果的な治療法だ。
テッドは最低でも一時間は様子を見に来ないと踏んだ。そして今、自分を労わっていられる時間は僅かしかない。
彼が台所を動きまわる音が聞こえてくる。割れたガラスを掃く、澄んだ音。木がバリバリ鳴っているから、砕けた椅子の残骸を処分しているのだろう。
小麦粉が舞ってもたらした被害は甚大だった。綺麗にするにはまず掃除機をかけなければならないが、まだ電気は通じていない。モップで小麦粉をすべて洗い流すには大変な時間がかかる。
囚われの頬傷の女の声らしきものは聞こえなかった。
ヒカルは上掛けを剥ぎ、ゆっくりとベッドを出た。静かにクローゼットの扉を開け、ハリソンのスエットシャツを取り出すと、恐る恐る頭から被った。
傷んだ肩と背中の筋肉が抵抗し、その痛みにたじろいだ。
そして、弾薬の捜索を開始した。
三十分後、探している箱が見つかった。ハリソンのジャケットのポケットの中にあった。
ヒカルは、ハリソンのネクタイを五、六本首にぶらさげて寝室を出た。手には猟銃を握っている。
頬傷の女は最後にヒカルが見たときとは違う姿勢だった。椅子ごと仰向けに倒れていた。
ヒカルの足音を聞きつけて見えるほうの目を開き、猟銃に気付くと目を丸くした。
そして、うっすらと満足げな笑みを浮かべ、ヒカルに頷きかけた。
テッドは台所で数枚の布巾を洗っている。片付けはあらかた終わっていたが、哀れなほど家具の数が減り、ところどころにまだ小麦粉が残っていた。
テッドが布巾を絞りながら言った。
「こいつは只者じゃないって言ったろ? 相当な筋力を鍛え上げて来た女だ。ただの女と思っていたら危険だ。それに減らず口も相変わらずだしな。こうしておけば、少しは……」
その後なにを言うつもりだったにしろ、猟銃を構えたヒカルを見たとき、テッドの唇は凍りついた。
「右手はわたしから見える位置に出しておくのよ」
と、ヒカルは静かに告げた。「左手で腰の後ろから拳銃を取り出したら、テーブルに置いて、こちらに滑らせて」
テッドは動かない。青い瞳に険しく、冷たい表情が浮かんだ。
「どうするつもりだ?」
「わたしの言うとおりにして」
テッドはちらりとも猟銃を見なかった。口を一文字に引き絞り、彼女のほうに歩きだした。
「弾薬なら見付けたわよ!」
と、彼が猟銃に手の届く距離まで来る前に、急いで言った。「ジャケットのポケットにあったわ」
これでハッタリではないことが彼にも分かる。テッドは立ち止まり、怒りに顔を歪めた。猟銃を持っていなければ、その形相の恐ろしさにすくみ上がっていたところだ。
「拳銃を出して」と催促した。
彼は右手をテーブルに置いたまま、ゆっくりと左手を背中にまわすと、抜き出した拳銃をテーブルに乗せて、彼女のほうに滑らせた。
「あたしのも忘れるなよ」
ヒカルの背後から、頬傷の女の声が飛んだ。少し呂律がまわっていない。殴られた口と顎が腫れ、黒ずんできていた。
「もう一挺もよ」
テッドの剣幕に怯むことなく、ヒカルは命令した。
彼は黙って従った。
「次は一歩下がって」
テッドは言われたとおり下がった。
ヒカルは自分の拳銃を手に取り、猟銃を置いた。ヒカルにとって、拳銃のほうが手軽に扱える。
「そう、それでいいわ。椅子に座って、手を後ろにまわして」
「いい加減にしろ、ヒカル」
テッドが噛みしめた歯の間から、声を押し出した。「そいつは殺人犯だ。そいつの言うことに耳を貸すんじゃない。だいたい、なんでそんな奴の話を信じるんだ?」
「座って!」
ヒカルはもう一度命じた。
「どうしてだ! どうして俺の言葉に耳を傾けようとしない!」
テッドは怒りに駆られていた。
ヒカルは言った。
「移送車の事故のニュースをラジオで聴いたの。三人の警官が殺され、二人の服役囚が逃げた」
そう告げる間、テッドの顔から目を離さなかった。彼の瞳孔が広がり、顎がこわばる。
「それと、制服があなたの体格とは違っていたわ。財布も持っていないし、制服のズボンは破れて血がついていたのに、あなたの体のその箇所には傷一つ負っていない」
「じゃあ、支給品の拳銃はどう説明する? 俺が制服を盗んだんなら、なぜ銃も一緒に盗まなかった?」
「分からないわ」
ヒカルは認めた。「事故のとき、あなたは意識を失って、次に気付いたときには、ほかの服役囚が先に銃器を盗って逃げていたのかもね。細かいことまで、全部分かってるわけじゃないの。
ただ、辻褄の合わない部分が沢山あって、あなたの答えは説明になっていない。どうして猟銃を空にして弾薬を隠したの?」
テッドは臆さず答えた。
「安全のためだ」
彼女も同様に応じた。
「ほらね。さあ、腰掛けて」
彼は座った。状況が気に入らないようだが、ヒカルの指は引き金にかかり、その瞳には迷いがなかった。
「手を後ろに!」
テッドは手を後ろにまわした。怒りで顔が赤くなっている。
彼が急に向きを変えて拳銃を叩き落とす場合を考慮して、ヒカルは彼の手が届かない背後にまわった。
首に提げたネクタイを一本取って、ゆるい輪を二つこしらえた。それから素早く彼に近付き、輪を手にかけて端をきゅっと引いた。
テッドは動こうとして体重を移動したが、手首が締めあげられるなり観念したように言った。
「手際がいいんだな。どうやったんだ?」
「あら、日本人は総じて手先が器用なのよ。投げ縄みたいに輪を作っておいたの。あとは引っぱるだけ。頭いいでしょ?」
余った両端を手首の間に巻きつけて輸をきつくし、適当な位置で結び目をつくる。
「これでよし、と。次は足よ」
テッドはおとなしかった。椅子の脚に足を縛られた。
「聞いてくれ」
それでも、彼は言わずにいられなかった。「俺はこの辺りに来たばかりで間がないから、まだ俺のことを知らない人も多い。信じてくれ、怪しい者じゃない」
「そうだろうさ」
頬傷の女が怒声を浴びせかけた。「警官三人を殺したおまえのことだから、ここを出る前に彼女も殺すつもりだったんだろ?
さあ、奥さん、あたしを解いておくれ。手の感覚がなくなってきた」
「やめろ、ヒカル! そいつが囚人だ。俺の話を聞けって!」
ヒカルは居間を歩き、暖炉に薪を足した。それから電話の前で立ち止まり、受話器を持ちあげてダイアル・トーンを確かめた。まだ、なにも聞こえない。
「なにをしてるの?」
頬傷の女がなじった。「とりあえず椅子を起こしてよ。あたしの大事なところが風邪ひくよ」
「いやよ」ヒカルは答えた。
「なんだって?」
女は耳を疑う、といった調子だった。
「いやだって言ってるの。電話が復旧したら警察に電話をかけ、状況がはっきりするまでは、二人とも今のままでいてもらうのが一番だと思う」
一瞬、呆気にとられたような沈黙が広がった。
すると、テッドが天を仰いでゲラゲラと笑い出した。
頬傷の女はあんぐりと口を開けてヒカルを見上げていたが、急に表情が変わり、顔を火の玉のようにして怒鳴った。
「この! 腐れ売女!」
「あらっ、酷い言われようね」
「はははは、さすがは俺が惚れた女!」
テッドの笑い止まない。「愛してるよ! ハニー。これで今回の件も許す。お陰でこれから先何年も、優しい目をした可愛い女に先手を打たれたって、まわりから冷やかされるだろうけどな!」
ヒカルは笑っている青い瞳に目をやった。笑い過ぎて涙が光っているのを見て、ニッコリせずにいられなかった。
「多分、わたしも愛してる、テッド。でも、まだ解くわけにはいかないわ」
頬傷の女が言った。
「奴はあなたを騙してるんですよ、奥さん。なんでそれが分からないの?」
「奥さん?」ヒカルは問いかけた。「さっきとは違う呼びかたみたいだけど?」
「悪かったわ。つい、頭に血が昇ってしまって」
と、ぎこちなく息を継ぐ。「あなたが、こいつの甘いおべんちゃらに騙されるのを見てたら、むしゃくしゃしたもんだから」
「そう?」
「こいつが嘘をついているのが、どうしたら分かってもらえます?」
「今あなたに出来ることはないから、黙っているのが一番かもしれないわ」
ヒカルは愛想よく応じた。
クックック、とテッドが横を向いたままで笑いを堪えた。