5.もう一人の来訪者
シチューをガスコンロで温めているあいだに、ヒカルはラジオの電池を抜きとり、蓋つきの小鍋に隠した。
それから電話をチェックしたが、まだ発信音はなかった。
風が止んでまだ二、三時間なのだから、まだこの地域まで作業が進んでいるわけがない。移送車が事故に遭ったのが分かっているということは、吹雪が酷くなる前に起きたのだろう。
警察関係者には、現場に駆け付けて、三人の警官の死亡を確認する時間があったのだから。折りよく吹雪にならなければ、テッドも逃げおおせなかったはずだ。
ラジオでは、『吹雪の最中に事故が起きた』と報じていたが、報道が常に正確だとは限らない。
ヒカルはシチューの様子を見て、更に二分は温めることにした。
ポーチの木の板にシャベルが当たる音がする。
テッドがいま作業しているのは、窓から見えない場所だった。中でシャベルの音が聞こえるなら、外にいた彼にもラジオの音が聞こえただろうか?
額に汗が噴きだした。ヒカルは椅子にへたり込んだ。
彼は聞こえなかったフリをしているの?
ああ、こんなことを続けていたら、発狂してしまう。
それを避けるには、疑心暗鬼になることを止めるしかなかった。
テッドが殺人犯だろうと、並みの犯罪者だろうと、警察に突きださなければならないことは決まっている。
今はただ、彼がなにを知り、なにを考えているか思い悩むのはやめて、最善を尽くすしかなかった。
再び、猟銃のことが頭に浮かんだ。急いで椅子から立ち上がり、弾薬をより徹底して探すために寝室に向かった。
一人になれる貴重な時間を、無駄にしている余裕はない。
タンスの引き出しに弾薬の箱はなかった。直感が働くのを願って、室内を見まわした。隠し場所として一番ありそうな場所──あるいは、なさそうな場所は?
だがどう見てもただの寝室で、それらしい秘密の壁板も、隠し戸棚もある筈がない。ベッドに近付き、枕の下とマットレスを探ってみたが、どちらもハズレだった。
これ以上長居をすると、危険を招きかねない。慌てて台所に戻り、テーブルの準備を始めた。
ちょうどセットし終えたとき、テッドがブーツから雪を落とす音がして、ドアが開いた。
「まったく、なんて寒さだ!」
彼はコートを脱ぎながら身震いし、椅子に座って重たいブーツを脱いだ。外気で顔が赤らんでいる。
この寒さにも関わらず汗をかき、額をおおった霜が暖かい室内に入るなり溶けだして、水滴となってこめかみを伝っていた。
彼は袖で水気を拭うと、暖炉に薪を足して炎に手をかざした。血を通わせようと素早く手を擦り合わせている。
「よかったら、コーヒーをもう一度淹れるけど」
ヒカルはシチューの大鉢をテーブルに置きがてら声をかけた。「それとも、水か、ミルクにする?」
「水がいい」
と、前に使ったのと同じ椅子に腰掛けた。
今回は外に出してもらえなかったティムが、暖炉前の特等席を離れて、テッドの椅子の脇に立った。期待に目を輝かせて、彼の大腿に鼻面をつける。
折りしもテッドは、大鉢からたっぷりのシチューを取り分けようとしていたが、その途中で手を止めた。自分を見つめる熱っぽい茶色の瞳を見おろし、ヒカルに横目をやる。
「犬の分を、俺が横取りしたのかい?」
「いいえ、あなたに罪悪感を植えつけようとしてるだけよ」
「もう、植えつけられちまった」
「彼はその道の権威だから。ティム、こっちへいらっしゃい」
ヒカルが膝を叩いても、テッドのほうが御し易いとみたのか、ティムは彼女の誘いを無視した。
テッドはスプーンでシチューを口元まで運んだものの、食べられずにいた。見下ろせば、ティムが自分を見上げている。スプーンを皿に戻した。
「頼むから、なんとかしてくれ」
と、ヒカルに泣きついた。
「ティム、いらっしゃい」
彼女はもう一度言い、強情な犬に手を伸ばした。
その時だった。
ティムがふいにテッドから顔をそむけるや、耳を立てて台所のドアを見た。吠えはしないまでも、警戒して全身の筋肉を震わせている。
すべてがあっという間の出来事だった。
テッド・パーカーは椅子から飛び出すなり、ヒカルを椅子から引き上げて背後に回し、同時にベルトの後ろから拳銃を抜き取った。
一瞬クラッとしたヒカルをよそに、彼のほうはティムと同じくらい熱心に耳をそばだてている。
次の瞬間、彼女の肩を押して食器棚の脇に座らせ、そこから動くなと手ぶりで伝えた。彼は音の立たない靴下だけの足でダイニングの窓まで行き、壁に背中をつけた。
ゆっくりと窓に頭を近づけ、片目でどうにか見られるところまで動かすと、すぐさま頭を引っ込めた。そしてまた、もう一度同じように外を窺った。
ティムの喉からは低い咆哮が漏れ出した。
テッドがまた手ぶりしてよこしたので、ヒカルは咄嗟にティムを引き寄せ、その体を抱きしめた。
でも、黙らせるにはどうしたらいいの?
鼻面を掴むとか?
しかし、相手は力のある犬なので、その気になれば手ぐらい振り払われてしまう。
今、ヒカルの頭には疑問が渦巻いた。
外に居るのが警官だったら、どうしたらいいの?
吹雪の最中はテッドを追えなかったにしろ、今は潜伏して居そうな場所を手あたり次第に探し始めたのかもしれない。
でも、警官だったら徒歩ではなく、スノーモービルを使いそうなものだ。
特徴のあるモーターの音は聞こえなかったし、そもそも寒さが厳し過ぎて、長く外にいるのは危険だろう。
逃亡中の服役囚はもう一人いる。その一人がそこまで来ているとしたら、テッドは警戒するだろうか?
「裏の小屋を調べてなかった」
テッドが忌々しげに呟いた。「俺としたことが、なんで調べなかったんだ!」
「一昨日、鍵をかけたわ」
ヒカルは声を低めたまま言った。
「鍵は役に立たない」
彼は小首を傾げて耳を澄ませ、黙るようにとまた手ぶりした。
ティムはヒカルの腕のなかで震えていた。彼女もだ。
頭は大混乱だった。昨夜から小屋に誰かが居たとしたら、その人物は警官ではありえない。警官なら直接この家まで来るはずだからだ。
すると、もう一人の逃亡者。
何故かそうでありますようにと、ヒカルは祈る自分に気付いた。
小声でなだめながら、引き寄せた犬の鼻面を抱えた。ティムはすかさず抗い、自由になろうと身を捩った。
テッドは、『掴まえてろ』と声を出さずに伝え、台所のドアににじり寄った。
ヒカルがしゃがみ込んでいる食器棚の脇からはドアが見えず、ティムを押さえるので両手は塞がっている。
そのとき、ドアが開いてノブが壁に激突した。
ヒカルが悲鳴をあげて跳び上がるや、自由になったティムがダッと駆け出した。木の床を滑るように突進し、ヒカルの位置からは見えない侵入者へ向かって行く。
ダーン!
銃声が鳴り響いた。
ヒカルは咄嗟に床に伏せた。
まだ何が起きているのか分からない。耳鳴りがして、火薬の刺激臭が鼻を刺す。台所に重い音がしたかと思うと、ガラスの割れる音がそれに続いた。
激しい音の余韻が消えたあと、二人が格闘する猛々しい音が聞こえてきた。呻き声に罵声が混じる。
そこにティムの唸り声が加わり、取っ組みあう人影に飛びかかる毛皮が一瞬視界を横切った。
ヒカルは急いで立ち上がり、猟銃を取りに走った。
テッドは弾が入っていないのを知っているにしろ、もう一人はそれを知らない。
重たい武器を両手で持ち、台所に取って返した。
食器棚を回ったところで、横から現れた誰かに肩のあたりを鷲掴みにされ、突き飛ばされた。
凄い力だったが、ヒカルにちょっとした疑問が湧いた。
倒れた拍子にカウンターの尖った角で肩を打ちつけ、背中から床に落ちて、痺れた腕から猟銃を取り落とした。激しい痛みに声をあげた。
再び猟銃をつかんだヒカルは片膝をついた。
顔が良く見えないが、二人は食器棚に乗りかかるようにして、死闘を繰り広げていた。
両者とも片手に拳銃を持ち、もう一方の手で相手の手首をつかんで、優位に立とうとしている。
すると二人の体が横ざまに倒れた。
コップ類が転がり、床に落ちる。小麦粉が雲のように飛散して、粉末の布となってありとあらゆるものの表面を覆った。
床に踏ん張ろうとしたテッドの足が滑った。彼の力が緩んだ。すかさず体をひねった闖入者に肘打ちを喰らい、そのはずみで手が放れた。
いまや、拳銃を持つ闖入者の手は自由だった。その左頬には目の下から耳にかけて深い傷跡が見て取れた。
ヒカルは自分が動き出そうとしていることは意識していた。
闖入者の手に噛み付こうと思いつつ、恐ろしさに半分竦みそうになっている。すべて目に見えるものがスローモーションに切り替わっていた。
このままでは、自分が飛び掛かるより先に、奴が銃口を下げて引き金を引いてしまう。
そう思ったときだった。ティムが走った。
低く体を構え、闖入者の脚に噛みついた。相手は痛さとショックで罵声を上げ、もう片方の足を振り出した。
頭を蹴られたティムがキャンと鳴いて脇によけた。
だが、その横でテッドは体勢を立て直していた。
相手に飛び掛かり、勢いづいて二人ともにテーブルに倒れ込んだ。テーブルはひっくり返り、椅子は壊れて、肉の塊とジャガイモとニンジンが床に散らばった。
床に転がった二人。上にいるのはテッドのほうだった。闖入者の頭を床に叩きつけ、一瞬気を失ったと見るや、肘でみぞおちに一撃を加えた。
仕上げに、息を切らして痙攣する闖入者の顔に、鋭いパンチを繰り出した。その衝撃がまだ残っているうちに、相手の首筋に銃口を突きつけた。相手はピクリとも動かなくなった。
「銃を捨てろ!」
荒い息をつきながら命じるテッドの声。「今すぐ捨てないと、引き金を引くぞ」と首筋を圧迫した。
闖入者の手から銃が落ちた。テッドはその銃を左手で自分のほうに滑らせ、左脚の下に敷いた。
それから自分の拳銃をベルトの後ろに戻し、相手を両手で掴んで持ち上げるや、腹から床に叩きつけた。
だが、闖入者はまだ両手に力を入れている。それに気付いたヒカルは前に出て、奴の顔に猟銃の銃口を突きつけた。
「動かないで!」
相手はゆっくりと力を抜いた。
テッドはチラッと猟銃を見たきり、なにも言わなかった。弾を抜きとってあることは、口を噤んでいるつもりらしい。
だが、ヒカルのほうも知らぬふりを決め込んだ。テッドには知らないと思わせておこう。
テッドは闖入者の両腕を背中にまわし、それを片手で掴んだ。
「少しでも動いてみろ」
ざらついた低い声。「その腐った頭を吹き飛ばしてやる」
テッドは顔を相手に向けたままヒカルに命じた。
「細いロープはあるか? なければスカーフでもいい」
「スカーフなら何枚かあるわ」
「取ってきてくれ」
二階に上がり、ドレッサーをかき回してスカーフを三枚見つけた。
膝は笑い、心臓は激しく肋骨に打ちつけている。軽い吐き気まであった。
手摺りに寄りかかるようにして、震える体を階下に運んだ。
二人はまったく動いていないようだ。
腹這いになった闖入者にテッドがまたがり、その周囲に壊れた家具とシチューの残骸が散乱している。
ティムは闖入者の頭側に立ち、顔に鼻を近づけて唸っていた。
テッドはスカーフを一枚受け取ると、縦長に捻って相手の手首に巻きつけた。
生地をきつく引っぱって、固い結び目をつくる。それが済むと拳銃をベルトに戻し、膝に敷いていた相手の拳銃を持って立ちあがった。
屈んで闖入者の制服の襟──乱闘が終わった今気付いたのだが、闖入者も警官の制服を着ていた──を掴んで引きずり上げた。
そして、唯一上を向いている椅子に有無を言わせず座らせておいて、自分はその場にしゃがみ込んだ。
そのときヒカルは気付いた。闖入者は男ではなかった。短髪で頬に傷があるが、胸が大きい。女だったのだ。
先ほど、背後から突き飛ばされたときに感じた疑問は、これだった。女の匂いだった。
テッドは再び拳銃を取り出して、銃口を首筋に押しつけた。
「そうだ。女だ、こいつは。だが手強い」
そう言いながら、片足に一枚ずつスカーフを使い、女の足を椅子の脚に縛り付けていく。頬傷の女の頭がうしろに垂れた。
息は苦しげで、片方の目は腫れあがり、両方の口角からは血が滴っていた。彼女は今、青ざめて苦しげな顔で、ぼんやりと立ち尽くすヒカルを見上げた。
ヒカルの手には、持っていることを忘れてしまったかのように、まだ猟銃が握られていた。
「こいつを撃って!」
頬傷の女は血の混じった声を発した。
「お願い……こいつを撃って。こいつが逃亡中の殺人犯よ。私が警官だよ。こいつは死んだ警官の制服を奪いやがった……さあ、ひと思いにこいつを撃つんだ! 肩でも、脚でもいい」
「考えたな」
テッドはそう言って立ち上がった。
「奥さん」と頬傷の女。「わたしが言ってることは本当だよ。お願い、信じて!」
テッドは流れるような動作で、感覚のなくなったヒカルの手から猟銃を奪い、ヒカルはすんなり手放した。
「チッ」と、頬傷の女は舌打ちした。
なす術なしといった様子で、腫れていないほうの目を閉じ、椅子の背にもたれた。まだゼエゼエ言っている。