4.怯え
「もうひとつ、ニュースが入って来ました!」
と、アナウンサーは続けた。
「三人の服役囚を移送中の車が、吹雪のなか幹線道路でスリップ事故を起こした模様です。この事故で、三人の警官が死亡。二人の服役囚が逃走しました。
猛吹雪のなかで生死は確認できていません。この逃走中の服役囚のうち一名は極めて危険とされる人物ですので、不審者にはくれぐれもご注意ください……」
胃がずしりと重い。
ここから幹線道路までは、一マイルしか離れていない。
手を伸ばして、ラジオを切った。アナウンサーの声が急に神経に障ったからだ。
考えなければ。
困ったことに、今、頭にあることだけでも熟考するのも怖かった。
テッドは何故、警官の服装なのに拳銃を所持していなかったのだろう。吹雪の中、意識が朦朧としていたとはいえ、ガンベルトまで捨てて来たのはどういうことだろう。
しかも、今はヒカルの拳銃を所持している。
だが、まだ猟銃がある。
ヒカルはシチューの鍋を置き、奥の部屋のラックの猟銃を手に取った。頼もしい重みに安堵の溜息をついたが、薬室を見下ろして愕然とした。
中は空っぽだった。きっと彼が弾を抜いたのだ。急いて弾薬を探した。どこかに隠してあるはずだ。
持ち歩くには重すぎるし、彼が着ているスエットにはポケットがない。
だが、わずか数ヵ所探したところで玄関のドアの開く音が聞こえ、ビクッと体を起こした。
どうしたらいいの?
二人の服役囚がいまだ逃走中、とアナウンサーは言っていた。
だが、きわめて危険だと思われるのは、そのうちのひとりだけ。彼がその危険な服役囚かどうかは、二つに一つだ。
でも、テッドは彼女の拳銃を奪い、猟銃の弾を抜いた──なんの断りもなく。けちな犯罪で投獄されるには、テッドは用心深く、知的すぎる。
逃げるチャンスを与えられたら、また捕まるようなヘマを犯すタイプではない。概して、並みの犯罪者は並み外れて愚かだが、テッドは並みでもなければ愚かでもなかった。
ヒカルの観察どおりだとしたら、きわめて危険な逃亡中の犯罪者と雪に閉じ込められた可能性は格段に高くなる。
極めて危険と言ったら、殺人犯の意味ではないのか。銀行強盗とか。
いくらなんでも、パンを盗んだ者には、そんな説明はつけないものだ。
「ヒカル?」
彼の声がした。
できるだけ物音をたてないように、急いで猟銃をラックに戻した。
「こっちよ!」大声で答えた。「下着をしまってるの!」
ドレッサーの引き出しを開け開めして、それらしい音をたて、顔に笑顔を張りつけて部屋を出た。
「外は凍えそうでしょう?」
「めちゃくちゃ寒いよ」
テッドが肩をゆすってコートを脱ぎ、元の場所に掛けた。ティムは体を揺すって雪を床に落とすと、十五分も離ればなれになっていた彼女に、再会の挨拶をするため軽い足取りで駆けてきた。
床を濡らして悪い子ね、と小言が口をついて出た。内心が表情に表れないのを願いながら、長い柄のついた箒とモップを取りにいった。
顔が緊張で強張っているのがわかる。無理して笑顔を浮かべても、歪んだ顔にしか見えないはずだ。
どうしたらいいのだろう。
打つ手はある?
だが、とりあえずは、危険はなさそうに思えた。
ヒカルがニュースを聴いたのを知らなければ、テッドには脅威に感じる理由がない。それに、殺す理由もなかった。
彼にとっては、ヒカルは食べ物と避難所とセックスの供給源なのだから。
だが、顔から血の気が引いた。また彼に体を触れられるなんて、耐えられない。そんなの無理だ。
台所から物音がした。冷えた体を温めるため、彼がカップにコーヒーをついでいる。
ヒカルの手は震えだした。ああ、神さま。
苦しすぎて、胸が張り裂けてしまいそうだ。
これほど男に惹かれたことはなかった。ハリソンにも、こんな思いを抱いてはいなかった。
自分の体で温め、命を救った相手だけに、原始的かつ根本の部分でテッドが自分のものになっていた。
わずか十二時間のうちに、理性と感情の中心に彼が据えられていた。
自分を守りたくて、まだ愛とは呼んでいないけれど──だがもう遅過ぎる。
自分の一部が引き千切られたようで、乗り越えられそうにない痛みがある。
それに、どうしたらいいの?
彼の子供を宿したかもしれない。
彼はヒカルと共に笑い、ふざけ、彼女の体を愛しんだ。
一貫して優しく、思いやりがあった。
今だってそうだ。
そのすべてが、愛の行為としか呼びようのないものだった。
それとも、連続殺人鬼が強姦して殺した女たち以外に対して、優しく振舞うこともあるのだろうか。
だが、ヒカルは人を見る目の確かさに自信を持っていた。それは十六歳のときから日本を出て、一人で海外生活をしているうちに培われたものだった。
今まで見たかぎりのテッドは、人に好かれるきちんとした男性で、子供たちにラグビーのコーチ役を買って出るようなタイプに見えた。
それに、上機嫌で自分のことを話し、ヒカルをデートにまで誘った。まるでヒカルの人生の一部となり、長く付き合うつもりがあるみたいだった。
ふざけたお遊びのつもりでなければ、妄想に取り憑かれているのだろうか。
だが、ヒカルは彼が垣間見せた、それまでとはまったく違う、険しく恐ろしげな表情を憶えていた。それはヒカルの拳銃のありかを尋ねたときのことだ。
妄想に取り愚かれているとは、とても思えない。彼は危険な男なのだ。彼を警察に突き出さなければならない。
それはわかっているし、その覚悟もあるが、なぜか心がズキリとして呻き声を洩らしそうになった。
これまでは罪を犯した夫や恋人を匿う女たちに疑問を感じてきたけれど、今ならその気持ちがわかる。
テッドが長く投獄されるか、悪くすると死刑になると思っただけで、全身から力が抜けた。
確かラジオのアナウンサーは警官三人が死んだとは言ったが、全員が死亡したとは言わなかった。警官の一人が行方不明だとも言っていない。
藁をも掴むって、今のこんな心境を言うのだろう。
そういえば、手摺りに干した制服は、テッドには小さ過ぎたように思う。
グショグショに濡れて、カチカチに凍っていたとはいえ、洗って干したときの感触でサイズが分かる。
自分のサイズに合わない制服を着る警官なんて居るだろうか。
そこでハッと、ヒカルは思い出した。
そう言えば、テッドは下着を履いていなかった。彼の趣味?
いやいや、と首を振るヒカル。制服の下に下着を着けない警官なんて居るわけがない。
そう、テッドは逃亡中の服役囚で、警官ではない。移送車の事故を知っているのを、彼に悟られてはならない。
電気が復旧するまで、当面テレビで何かが流れる心配はなかった。電話回線も通じていないので、インターネットでニュースを確認することもない。
そしてラジオのほうは、彼が次にトイレに入ったときに、電池をはずして隠してしまおう。
定期的に電話をチェックして、通話できるようになったら、隙を見て警察に電話すればいい。油断なく立ちまわれば、何事もなく切り抜けられる。
「ヒカル!?」
その声に、彼女は跳びあがった。驚いて心臓が破裂しそうだった。
テッドが戸口から、鋭い目付きでこちらを見ていた。
箒とモップを手探りし、危うく取り落としそうになった。
「驚かさないで!」
「悪かった」
テッドはゆっくりと進みでて、彼女の手から箒とモップを奪った。ヒカルは胸苦しさと闘いながら、知らず知らずのうちに後退った。
狭い洗濯室だと、ただでさえ大きい男が、よけいに大きく見える。入口は彼の肩ですっかり塞がれていた。
愛の行為の最中は、その大きさや力強さが嬉しかったのに、いまは抵抗しようのない体格の差に圧倒される。
今後に備えて対抗手段を用意しておかなければならない。その機会があったら、逃げるのが一番だろう。
「どうかしたのか?」
尋ねるテッドは穏やかで、なにを考えているか分からない表情をしていたが、目はヒカルの顔に注がれていた。
真正面に立ちはだかっているので、この場所では避けようがない。
「ひどく怯えた顔をしてるぞ」と、彼は付け加えた。
ヒカルは自分の顔付きを思い浮かべた。ここで否定しても、嘘だと見破られる。
「そうよ」
答える声が震えた。言葉が零れ出すまで、自分がなにを言うつもりか分からなかった。
「だって……わたし……夫が死んで二年よ。その間ずっと……あなたには会ったばかりで、わたしたち……いいえ、わたし……ああ、もう」
しどろもどろになり、最後には言葉を失った。テッドは表情をやわらげ、目元に淡い笑みを浮かべた。
「つまりきみは『現実にケツをかじられた』って訳か? あたりを見回してみたら、すべてがいっぺんに襲いかかって来て、きみは思った。『ああ、わたしは何をしているの?』って」
どうにか頷いた。
「そんなところよ」
唾を呑みこむ。
「よし、一緒に考えてみよう。きみが一人で吹雪に閉じこめられていると、死にかけた見ず知らずの他人が庭先に倒れていた。それで、きみはそいつの命を救ってやった。
きみは二年間恋人なしにやってきたのに、どういうわけだか、その夜の間、そいつがきみに乗っかっていた。まごついて当然だよな。
まったく避妊せずに、妊娠する可能性があるとなったら、なおさらだ」
ヒカルは顔が蒼白になった気がした。
「おやおや」
と、テッドが掃除道具を脇に置き、そっと彼女の腕を掴む。大きな手で腕をなでられ、抱き寄せられた。
「いったい、どうしたっていうんだ? カレンダーを調べてみたら、思ったより妊娠の可能性が高かったのか?」
どうしたらいいの?
彼に触れられたショックで気絶しそうだった。恐くて耐えられそうにない。
でも、彼が罪人で、逃亡中の服役囚だとしたら、どうしてこんなに優しく慰められるの?
自分を抱き締めている逞しい肉体が、これほど正しいと感じるのはなぜなのか。
彼の胸に頭を乗せて、外の世界のことはすべて忘れ、だれにも邪魔されることのない隔離された郊外で、二人ひっそりと暮らせたら……。
「ヒカル?」
テッドが顔を傾けて、顔をのぞきこんでいた。酸素が足りない気がして、ヒカルは勢いよく息を吸った。
「まずい時期なの、今が」と、ポロッともらした。
彼も息を呑んだ。
やっぱり、お尻を現実にかじられたように見えた。
「ぴったりなのか?」
「賭けてもいいわ」
よかった、少し声が落ち着いてきた。パニックの峠は過ぎたようだと、ヒカルは思った。
とりあえず危険はないと判断したのだから、冷静な態度を保つべきだった。
彼が近づいて来るたびに、嬉々として愛しあったはずの女が跳びあがっていたら、疑ってくれと言っているようなものだ。
今回は彼の洞察力のおかげで、もっともらしい言い訳ができて運がよかったが、彼の鋭さは肝に銘じておかなければならない。
ヒカルがラジオを聴いたのを知ったら、五秒もかけずにすべてを関連づけて、こちらの企みに気づくだろう。
「そうなのか。それで、きみはどうしたい?」
その時、信じられないことに、彼が慄いていることに気づいた。声まで震えている。テッドは言った。
「そのへんには恐ろしく慎重だったし、相手にもそれを望んでたんだが」
「現実にじわじわとかじられてる気分?」
「ああ、そんな気分だね。ケツに噛み跡がついてるよ。なにより困っちまうのはさ……ヒカル。俺がその可能性を喜んでるってことだ」
なんて人なの……。
ヒカルは無我夢中で彼にしがみ付いた。
この人は人殺しなんかじゃない!
こんなに自分を気遣ってくれて、父親になるという予感に震えている人が、そんなわけがない。そう思いたい。
ヒカルの知るテッドという男が、彼女が恐れている逃亡犯だとしたら、それこそ二重人格者だろう。緊張でカラカラになった口を、唾で湿らした。
「でも、わたしたち、慎重にならないと」
どうにか口にした。逃げ道を与えられて助かった。
たとえテッドが危険ではないほうの逃亡者だとしても、彼と寝続けるのは犯罪と同じ、あまりに無責任な行為だった。
それでなくても、すでに無責任なことを仕出かしている。これまでのことは許せても、これ以上重ねたらお天道様の下で生きてはいけない。
「わかった」彼は渋々とヒカルを解放した。「昼めしの準備ができたら、呼んでくれ。もう少し雪をかいてくる」
ヒカルは立ち尽くしたまま、彼がドアを閉める音を聞いた。
手で顔をおおい、がっくりと洗濯機にもたれた。お願いだから、早く電話を通じるようにして!
こんな状態には数日どころか、もう一時間も耐えられない!
出来ることなら、すすり泣きたかった。喚き散らしたかった。
このような困った立場に巻き込まれるきっかけを作った自分を、いや、この家にやって来た彼を、掴んで壁に叩きつけ、このような状況を作った彼の愚かさをなじってやりたかった。
なにより、すべてが嘘であってくれたらと願わずにいられない。
自分の出した結論が、どれもまったくの見当違いであってくれたなら……。