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時を嗤う少女  作者: 多草川 航
3/11

3.あなたは何者


 あくる朝、ヒカルは目覚めると横になったままで、まだ隣りで眠っている男を見つめた。



 かつてないほど、体が満たされていた。名前以外ほとんど何も知らない男に、これほど夢中になる理由を問うこともなく、この出会いが運んできた喜びを素直に受け入れた。



 熱い彼の体がベッドをぬくぬくとした巣に変え、床に下りたくなくなる。部屋が冷えきっているから、尚更だ。

 どうやら、暖炉の火が燃えつきたらしい。



 男のとなりに横たわり、ゆっくりとした深い寝息に耳を澄ませた。そこには、長いあいだ味わえずにきた素朴な喜びがあった。



 彼に寄り添いたいけれど、起こすのはしのびない。疲れているのだろう。ぐっすりと眠っている。凍死しかけた直後だったのに、昨晩は体を休める暇がなかったのだ。



 昨夜この近くで、彼は交通事故にでも遭ったのだろうか。

 不思議なのはいま眠っていることではなく、夜の間あれほど活力に満ちていたことのほうだ。



 見えている彼の体の各部分をひとつずつ確かめた。綺麗な髪。黒っぽくて豊かで、陽の下で長く過ごしているのか、ブロンズ色の筋が入っている。



 こちらを向いている寝顔を見るうちに、自然と笑みが零れて、指で鼻筋をなでたくなった。


 鼻は高くて少し歪んでいる。だぶん誰かに殴られたことがあるのだろう。警官の制服を着ていたから、職務上で乱闘を避けて通れないのかも知れない。



 そう思ったあと、ヒカルは首を僅かに振った。この前見た、刑事ものドラマの影響かしら。



 そういえば、この猛吹雪で停電になっているので、テレビで気を紛らわす時間も持てない。


 ヒカルは男の目を見た。目は大きくて形がよい。唇は柔らかそう。下顎は角張っていて、顎先は頑固そのもの。



 男前で厳めしくて、前に思ったとおり、所謂ハンサムではないけれど魅力にあふれている。

 ヒカルは唇の間から、荒い吐息をもらした。



 吹きつける風が、窓をガタガタ鳴らしている。ガラスの向こうにあるのは、視界をさえぎる白い幕だけだ。


 吹雪が猛威をふるっている限りは、世間に邪魔されることなく彼を独り占めにできる。



 いや、吹雪の中をこの男が吹き寄せられるや、一転して未来が輝きだしたようにさえ思える──もちろん、亡くなった夫には内緒だが。



 それにしても、こんな吹雪の日に何処から来たのか、テッド・パーカー。このあたりに土地感がある地元の人間なのか?


 彼が目を覚ましたら尋ねてみよう。



 昨晩、ふたりを結びつけた状況は極端なものだから、天気が回復し次第、彼は後ろも振り返らずに立ち去るかもしれない。


 ヒカルはそのリスクを承知で、彼を受け入れた。



 そう、自分の意志で、今の状況を招いたのだ。

 ふたりの関係がなんらかの形で続くようなら、こんなに嬉しいことはないと思った。



 ただ、“愛”という言葉は考えないようにしていた。きちんと知りもしない人を、どうやったら愛せるの?



 夜が明けて頭が冴え、緊急事態のストレスがなくなると、罪悪感が湧いてきた。


 彼が結婚しているか、どうかさえ知らない。既婚者と寝てしまったかも知れないと思うと、胸が締めつけられた。



 彼が不実なロクデナシだと分かったら、どれほど傷つくか、想像しても恐ろしい。

 彼を起こさないように、そっとベッドから抜けだした。



 筋肉痛からなのか腿が震え、お腹の奥が痛かった。最初の二、三歩は歩くのがやっと。

 長らく使っていなかった筋肉と皮膚が、前夜の扱いに抗議していた。



 こっそりと衣類を集め、忍び足で部屋を出た。一階に下りると、台所からティムが小走りに出てきた。

 跳びかからんばかりだから、ヒカルが寝坊したせいで腹を空かせているのだろう。



 ヒカルはティムの食器に餌をそそぎ入れると、すぐに暖炉に近寄った。


 室内は冷えきっていた。熾き火に焚き付けを近づけると、すぐに火がついた。それから薪を三本、注意深く火床に積み重ねた。



 続いてコーヒーのポットを火にかけておいて、その間に一階のシャワールームに入った。

 お湯が出るって、なんてありがたいんだろう。そうでなければ、寒さに凍えていたところだ。



 疼きと痛みを和らげるのに、シャワーは抜群の効果を発揮した。

 いい気分になったところで、スエットパンツにぷかっとしたフランネルのシャツをはおり、厚手の靴下を二枚重ねにして履いた。



 コーヒーを飲むため台所に向かった。家は暖まり、コーヒーは沸き、お腹は鳴っていた。


 気になったので、確認のために電話の受話器に耳にあててみた。この天候で電話も途切れた。回線は通じておらず、何の音もしなかった。



 ラジオのスイッチを入れたが、聞こえてきたのはまたも雑音だけだった。

 そういえば猟銃は……昨夜置いたとおりにドアの脇に立てかけてあった。



 それを回収し、奥の部屋のラックに戻した。放っておいたら、元気いっぱいのティムの尻尾にいつ倒されるか分かったものじゃないからだ。



「俺の気のせいじゃなきゃ、コーヒーの匂いがするぞ」



 テッドが上の階の廊下から顔を覗かせた。あっちこっちへ向いた髪に、髭で黒ずんだ顎。目はとろんとして、声は擦れていた。風邪でもひいたのではないかと心配になるほどに。



「いま持っていくわ。裸で歩きまわるには廊下は寒すぎるから」



「じゃあ、ここにいるよ。いまのところ、まだ寒さに立ち向かう気力はないからね」



 悪戯っぽくニタッとすると、傍らの犬を撫でた。ティムは新しい声を聞きつけるや、早くも階段を駆け登っていたのだった。



 台所に戻り、カップにコーヒーをついで居間に入った。暖炉の火勢が戻ったおかげで、部屋はすっかり暖まっている。



 テッドはというと、いつの間にか降りて来ていて、バスルームのドアを開けたままシャワーを浴びていたので、カップは洗面台に置いた。



「コーヒー、ここよ」



 彼はカーテンを開けて、頭を突き出した。顔に湯水が滴っている。



「こっちにくれる? ありがとう」



 そう言う彼にカップを渡すとごくりと呑み、カフェインの刺激に溜息をついた。



「お巡りさん。制服が乾くまで、夫の服を着ていてね。いいかしら?」



 また、テッドは顔を突き出した。だが、無言で問うているような表情を浮かべた。



「わたし、夫に先立たれたの」


 と、いったん黙る。「今朝、わたしもあなたについて同じことを考えてた。あなたが結婚しているかどうか、考えもしなかったって意味よ」



 彼は小さく笑った。


「俺は独身さ」

 もうひと口コーヒーを飲む。

「それで? 何年きみは優雅な独身生活を送ってきたんだ?」

 と、なにげない口調で尋ねた。



「二年よ」



 テッドは彼女にカップを返し、笑顔になった。



「吹雪は、あと一週間は続くかな?」



 ヒカルは声をあげて笑った。



「まさか」



「でもまあ、少なくとも今日は動けない」



「いま確認したんだけど、電話が通じなくなっているの」



「おお! じゃあ、どこにも連絡できないのか。運命に呪われているらしい」


 閉まるシャワーカーテンの隙間から、青い瞳の輝きが見えた。


「セクシーな黒髪女性と置き去りにされちまったってわけだ!」



 カーテンの向こうから、楽しげな口笛が聞こえてきた。わたしも口笛を吹きたい気分だわと、ヒカルは外の風音を聞きながら、彼が何日か足止めされることを祈っている自分に気付いた。


 そのとき、ふと思い出した



「そうそう、訊きたいことがあるの。あなたの拳銃とホルスターがなかったわ。どうしたか憶えている?」



 やや間があった。

 ようやく聞こえてきたのは、水飛沫を顔に浴びながら喋っている声だった。



「知らず、知らずに吹雪のなかに落として来たのかも知れない」



「覚えてないの?」

 あのような状況で表札を確認したと言っているのに?

「なんでガンベルトを外したの?」



「まったく、どうかしていたよ。で……ほかにも銃器はあるのかい? 昨日見た猟銃のほかにって意味だけど」



「拳銃が一挺あるわ」



「どこに仕舞ってあるんだい?」



「寝室のサイドテーブルの引き出しだけど、どうして?」



「俺以外にも、吹雪に巻きこまれて避難場所を求めてやって来る奴がいるかも知れないからさ。用心するにこしたことはないだろ?」



 テッドは、ヒカルから差し出されたスエットに袖をとおしたが、やや窮屈だと言った。



「じゃあ、もっと大きめのものを探してくるわね」



「何度も二階へ行き来させると悪いし、俺も行こう」



 二人して寝室へ上がったが、どの服も似たりよったりで、結局は最初のスエットの上下に落ち着いた。

 その後、ヒカルは台所に入り、ベーコンと卵料理を用意した。



「コーヒーと、ベーコンと、きみと。どの匂いが一番いいのか分からないな」



「感激だわね。コーヒーとベーコンと同列だなんて。わたし、よっぽどいい匂いなのね」



 テッドは笑いながら、ベーコンを突き始めた。

 擦り寄って来たティムの頭を撫でていた。



 ヒカルは先ほど散らかした寝室を片づけに、二階へ上がった。


 ハリソンの帽子がベッドとサイドテーブルの間に落ちているのを見つけて、膝をついて拾いあげたとき、ふと思いついた。



 ちょうどその場にいて、先ほどのテッドの言葉を思い出したからだ。拳銃の所在を確かめておこうと思ったのだ。


 サイドテーブルの引き出しを開けた。



 だが、無かった。

 のろのろと立ち上がり、空っぽの引き出しを見おろした。



 そこに拳銃があったのは間違いないことだった。それがいまは無くなっている。

 問われるままに場所を教えたから、探すのは簡単だっただろう。



 でも、どうして手元に置いておきたいと、率直に言ってくれなかったのか。

 警官だし、丸腰よりも武器があったほうが落ち着くことくらい、ヒカルにだって理解できる。



 思案気な顔で、階下に戻った。彼は食べ終えていた。



「テッド、わたしの拳銃、持ってる?」



 彼はチラッと窺うようにこちらを見ると、すぐにコーヒーカップに目を戻した。



「ああ」



「どうして、言ってくれなかったの?」



「きみを心配させたくなかった」



「心配って、なにを?」



「前に言ったろ? ここへやって来るかも知れない他の連中のことをさ」



「わたしは心配なんてしてなかったけど、あなたはしているみたいね」

 と、手厳しく指摘した。



「武器を携帯していたほうが落ち着くんだ。きみが気に入らないんなら、あとで戻しとくよ」



 ヒカルはあたりに目をやった。



「どこにあるの?」



「俺の腰のベルトだ」



 なぜか、胸騒ぎがした。

 一瞬、彼の表情が……強張り、余所余所しくなったように思えてならない。



 たぶん職業柄、一般市民には夢にも想像つかないような場面に多く出くわす、最悪のケースを思い描いてのことなのだろうか。



 でも一瞬、ほんの一瞬だがテッドの顔が、彼が闘っているはずの凶悪な社会のクズと同じように見えた。



 ざっくばらんで親しみやすいという印象がつづいていただけに、その落差には愕然とするものがあった。

 ヒカルは不安感を振り払って、それ以上拳銃のことには触れなかった。



「それで、あなたはどこの警察署勤務なの?」



「ここさ」彼は答えた。「オークランドさ。でも、来てまだ日が浅いんだ。だから今まで、きみやティムにも会いにくるチャンスがなかったってわけ」



 ふたりの椅子の間に寝そべっていたティムは、自分の名前を聞いて顔を上げた。



「あら! ここはクライストチャーチよ?」


 と言ってから、ヒカルは眉を寄せた。そして、テッドの横顔を見つめた。



 彼はコーヒーカップを空っぽにすると、テーブルに置いた。



「実は俺にはひどい悪癖がある」


 急にテッドは告白に入った。



「そうなの?」



「リモコン中毒なんだ」



「……あなたも、その他二百万人のニュージーランドの男もね。夫はテレビを見るとき、リモコンを手放さなかったの」



「俺はそこまで重症じゃない」


 ニッコリして向き直ると、彼女の手を取った。


「それで? ヒカル。尋問はもういいのかい? それより普段の生活に戻ったら、俺と食事に出かけないか?」



「さあ、どうかしら。デートってこと? そこまでの気持ちかどうか、よく分からないわ」



 テッドが笑い、なにか言おうと口を開きかけたとき、ふたりの手に陽射しがあたった。ふたりとも、ビックリして光を見つめ、窓に目を転じた。

 風が止み、ところどころに青い空がのぞいている。



「おお! なんてこった」


 テッドは席を立ち、窓から外を見た。「もっと続くと思っていたのに」



「わたしもよ」



 必要以上に失望が声に滲んだ自分に気付く。

 相変わらず何者か分からないテッド。でも、さっき彼はデートに誘ってくれた。



 天気が良くなれば、じきにいなくなるけれど、出て行ったからといって縁が切れるわけではなさそうだ。

 ヒカルも窓辺に寄り、雪の量を見て息を呑んだ。



「なにこれ!」



 吹き流された雪のせいで全体が一様にならされ、見慣れた地形が一変していた。ポーチには、窓の高さまで雪が吹き溜まっている。



「三フィートはありそうだな。スキー客目当ての宿は大喜びだろうが、除雪車で道路を通れるようにするには、しばらくかかるだろう」



 テッドはドアに向かった。開けたとたん、室内の暖かさが外の冷気に吸い取られた。



「うわ!」バタンとドアを閉めた。「マイナス何十度だか分かったもんじゃないぞ。これじゃあ、そうそう雪も溶けないな」



 おかしなことに、テッドはその後も何度か窓から窓へと移動し、正面に立たないようにしながら外を眺めていた。



 その間、ヒカルは忙しく立ち働いていた。天気とは関係なしに、家事が消えてなくなるわけではない。



 テッドは彼女が手洗いした洗濯物を絞るのを手伝い、果敢にも寒い外に出て薪を運んで来た。



 ヒカルのほうは洗濯物を階段から二階へ通じる手摺りに干した。暖炉の火を絶やさずにいたら、一時間もあれば乾くだろう。

 二階の温度は三十度近かった。

 彼は薪を抱えて戻ると暖炉の横に積んだ。



「出入り口の雪かきをしてくる!」


 と、テッドは二階の彼女に叫んだ。



「もう少し暖かくなってからにしたら?」



「風は吹いていないから少しの時間なら耐えられるし、それだけあれば片づくさ」



 そう言うと、重たいコートに袖を通して外へ出ていった。少なくとも、手にはハリソンの頑丈な作業用手袋を嵌めているし、ブーツは乾ききっていないにしろ、靴下は三足重ねている。


 ティムはここぞとばかりに彼について行った。



 天気が良くなったから、ラジオが聞けるようになっているかもしれない。ヒカルは一階に戻り、ラジオのスイッチを入れた。



 有難いことに、雑音ではなく音楽が流れ出した。歌声を聞きながら昼食の準備をしようと、床下に仕舞っておいたビーフシチューを取り出した。



 昨日今日は天気が重要なニュースなので、一曲終わるなりアナウンサーが通行止めになった道路を列挙し出した。



 耳を澄ませていると、家に通じる道は通行不能で、付近の道がすべて通行出来るようになるには、最低でも三日かかると交通ニュースは予測していた。



 郵便サービスは一部地域のみ。電気やガスといった公益事業の作業員は、サービスの復旧をめざして懸命の作業にあたっているらしい。



 次のニュースは、ここクライストチャーチからずっと北にある、オークランド支局からのものだった。



 ノースアイランド・ノースショアの景勝地で、岬の上空から舞い降りて来た人影の話である。



「その人影は岬の先端の灯台を背景にして、雲間からふわりと降りて来たそうです。そこにたまたま居合わせたカップルが、それを写真におさめようとしました。


でも、カメラに目を逸らした僅かなあいだに人影は姿を消しました……これ、どう思いますぅ?」



 この若い男女の目撃談は、ローカルニュースのコーナーで面白おかしく語られた。

 だが、次のニュースを聞いたとき、ヒカルはその場で固まった。





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