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時を嗤う少女  作者: 多草川 航
2/11

2.目覚めた男


 馬が暴れて大きく立ち上がった。後ろからハリソン・スカイファーの左手がヒカルの腰を強く抱え、彼の右手は手綱を握ったままだった。

 ヒカルはいきなり大地がひっくり返ったかと思った。



 藪から現れた猪が一声啼いて反対側の藪へ消え、走り去るハリソンの愛馬の後ろ姿が見えた。ヒカルの下敷きになった彼がピクリとも動かない。

 ハリソンは後頭部を強打していた。


 翌日、親族が見守る中、彼は亡くなった。



 以来、ヒカル・スカイファーはクライストチャーチ郊外の自宅で、ひとり暮らしを続けて来た。 ただ、その時からヒカルは記憶の一部をどうしても思い出せないでいた。



 特にハイスクール時代のことだが、現在の日常にさしたる問題がなかったためか、それほど気にする様子もなかった。



        ◇



 どれくらいの時間が経っただろう。夢にうなされ眠りから覚めたが、まだ半分眠っていたヒカルは、温かいが疲れて体が重く、眠ってから一分なのか、一時間なのか分からなかった。



 男の手が下に動き、彼女の片方のお尻の丸みに添えられた。そして、彼女の下にいた体をずらし、引き締まった脚を動かして太腿に割って入ってくる。



 暖炉の火に照らされた彼の顔を見た。開かれた目は青く、茫然としているようだった。まだ意識が肉体に向いているせいなのか、顔が険しい。



 純粋に動物としての本能に突き動かされ、間近にあった彼女の肉体に──彼の命を救うために必要だった裸体の近しさに──性欲をかき立てられたのか。体が温まり、生きていると実感したとき、腕のなかには裸のヒカルがいた。


 そういうことだった。



 男は体じゅうの筋肉をひくつかせている。鼓動が速く、息遣いは荒かった。



 だが、あろうことか、男はそのまままた寝入った。なのでヒカルは、この状態から逃れられなくなった。



 上には、ぐったりと重い体がある。手を伸ばして彼の頬に触れ、額の髪を押しあげる。あとは、差し迫った休息の欲求に身をまかせるしかなかった。





 暖炉の薪が崩れる音で目を覚ました。ヒカルは身じろぎし、背中にあたる硬い木の床の感触に顔をしかめた。上からは男の体重がかかっている。



 頭が混乱していて、最初は夢を見ているのだと思った。まさか、赤の他人と裸になって床で寝ているわけがないと。しかも相手まで、素っ裸なんて。



 だが、いつもどおりの場所で寝息をたてるティムを見て、我が家に居ることを再認識した。



 風の唸り声と、静かに揺らめいている暖炉の炎で、此処クライストチャーチ一帯いったいを飲み込んでいる吹雪のことを思い出し、すべてが正しい位置に収まった。



 彼が起きていることに気づいたのも、やはり突然だった。身動きひとつしないが、体じゅうの筋肉をこわばらせていた。


 ヒカルが混乱しているくらいだから、彼のほうは尚更だろう。男の背中にそっと手をやり、そこに広がる筋肉に手のひらを這わせ、呟いた。



「起きているわよ」



 その呟きと手があれば、彼女が自分の意思でこの場にいるのだから、心配はいらないのだと伝わるはずだ。



 男が頭を上げ、ふたりの目が合った。青い瞳を覗き込んだとき、驚きに息が止まりそうになった。完全に覚醒した目の奥には強い個性と、状況を把握しているらしい煌めきがあった。



 ヒカルは赤くなった。頬が火照って、呻きそうになった。こんなかたちで初めて会った男に、なにを言えばいいの?



 彼はヒカルの裸の腰を指先でなぞり、そっと頬をなでた。


「やめようか?」

 と囁き声で尋ねてきたが、ヒカルにとってその言葉は、もうひとつの混乱の元だった。



 なんと彼は、日本語で語ったのだ。


 その風貌や体格は明らかにアングロサクソンそのものなのだが、流暢な日本語だった。



 暫らくは青い瞳を見詰めたままで、彼女は身じろぎも出来ないでいた。だが、今の二人は自分たちのしようとしていることを完全に理解している。



 分析も自問もせずに、

「いいえ」と、ヒカルも日本語で囁き返した。「やめないで」



 彼が唇を寄せてきた。ふたりの間には何ごともなく、優しく、探るようなキスだった。



 ヒカルも熱心に求めに応じ、舌と舌が絡まった。キスや手の感触や、なでられる感覚のひとつずつを、むさぼるように味わった。



 彼にむしゃぶりつき、愛撫し返し、自分が感じている歓びのいくらかでも感じさせたかった。



 彼が呻いているところをみると、願いは叶ったらしい。


 そして、優しい愛撫を必要としない時がやってきた。絶頂へ至る激しい身体の動き以外、なにもいらなかった。ヒカルは迫りくる瞬間に我を忘れ、快感の高波に身を投じた。



 やがて荒波が過ぎ去ったあと、暖炉の火がまた二人を眠りへといざなった。



        ◇



 メールのやり取りで知り合った部屋主の名は、中野舞子といった。アパートのオーナーは最上階の八階に住む中国人だと知らされていた。



 舞子は急の用事があって、その日の午後に日本へ発つが、二週間したらまた戻ってくるから、その時に一部屋を渡したいと言ってきた。だから、よければ今日の昼にでも会って、部屋を見てから約束だけでも交わしたい、と。



 公園の裏手で、市の中心街に近いこともあって、当時十八歳のヒカルはこの話に乗り気でいた。



 アパートは一階が真っ赤な看板の中華飯店で、すぐに分かった。その横に階段があった。中野舞子の部屋は二階だ。



 階段の下に立ったとき、上からドアの開く音がして、言い争う声が聞こえた。後ろ向きで出て来たのは男の人だった。



 そのとき、ヒカルは彼の名を思い出した。ラザ・モーガン──彼ももうじき卒業する。でも、そのラザが何故ここに?

 そう思いながら、ヒカルは階段の中ほどまで上がっていた。



 言い争いの内容は、ラザが交際の継続を望み、舞子は望まない。そう、ヒカルは理解した。その時だった。



 舞子の耳をつんざくような悲鳴が、階段に轟いた。ラザの右手にナイフがあった。

 あっと思う間もなく、その刃先は女の胸を突き刺した。一瞬ののち吹き出す血は、ラザの手や胸に飛び散った。



「きゃあー!」

 ヒカルの悲鳴に、ラザが振り向く。血痕のついた恐ろしい顔で見下ろしていた。



 無意識にも意識するにも、ヒカルはその場を逃げ出そうとした。バランスを崩して片足が滑り、その直後に体は落下を始めていた。



 ああ、拙い!

 そう思ったヒカルが覚悟を決めかけたとき、彼女の体が落ちた先は堅い床ではなく、大きな腕の中だった。



 頑丈な男の腕、分厚い胸の中に抱き止められた。その胸には白地に赤い丸をかたどったネックレスがさがっていた。



        ◇



 ヒカルは、男の興奮に呼び覚まされ、夢から覚めた。


「もう一度、きみがイクのを感じさせてくれ」



 ヒカルが二度目の高波に襲いかかられたとき、男は抑えようのない深い声を吐きだして、震える体を彼女の上に横たえた。



 今度ばかりは、眠りという贅沢に身をまかせなかった。彼はヒカルの手を探り、その指を手でくるんだ。



「なにがあったのか聞かせてくれ、ヒカル」


 男は低く淡々とした声で尋ねた。



 いつの間にか、彼の言葉がブリティッシュ・イングリッシュに替わっていた。少し前に耳にした日本語は夢だったのだろうか?


 ヒカルは咳払いをした。そして、そのことに気付いた。



「なぜ、私の名を?」



 青い瞳が彼女の表情を探った。僅かに微笑んだ。


「外の郵便受けに……」



 声を出さずに、ヒカルはそうなのと表情で返した。こんな目にあっても表札だけは確認してきたって言うわけ?


 警官とはいえ信じがたい職業病だわ。



「わたしたち、以前どこかで逢ったってこと、ないわよね?」

 と訊くと、彼は探るような目をした。ヒカルは重ねて尋ねた。「あなたの名は?」



「俺は……」彼の視線が一瞬彷徨った。「テッド、テッド・パーカーだ」



 暖炉の火が弱くなってきていた。薪を二、三本足してやらなければならない。



 上体を起こして片膝を立て、立ち上がりかけたが、そこでヒカルは動きを止めた。今立ち上がって、下から見ている彼の目に裸体を晒すのは耐えられなかった。

 股間に男の視線を感じて、彼女は膝を閉じた。



 パジャマを探して周囲に目をやったものの、きまり悪いことに汗ばんでいて、シャワーを浴びないと着られない状態だ。



 ヒカルの視線の先にあるものを見た彼には、傷つくほどの体裁がなかった。彼は立ち上がると、長い脚で薪の山まで歩き、暖炉にくべた。



 ヒカルは自分がされたら照れくさかっただろうことを、彼に対してした。頭のてっぺんから股間にぶら下がったイチモツ、そして爪先まで、しげしげと観察したのだ。

 だが、目に入ったものは、まるごとすべて気に入った。



 暖炉の照り返しを受けて、浮かびあがる筋肉の逞しさ。広い胸板、太腿に盛りあがった細長い筋肉。尻は丸く、引き締まっている。



 テッド・パーカー……心のなかで彼の名前を繰り返す。力強さと潔さを併せ持った名前だ、などと勝手に解釈する自分がいた。年齢は自分と同じくらいに見える。



 ティムはといえば、眠りを妨げられて少し不機嫌そうだった。起きあがって新参者の匂いを嗅いでいたが、パーカーが腰をかがめて頭をなでると、大きく尻尾を振った。



「犬が吠えていたのを憶えているよ」



「わたしより先に、この子が物音に気付いたのよ。名前はティムよ」



「ティム、いい名だ。ティムティムチェリー?」



 青い瞳に悪戯な表情を浮かべて犬の頭を撫でてから、ちらっと彼女を見た。

 ヒカルはフッと吹き出した。



「いいえ、残念ながらその歌は関係ないわ。それに、ただの甘えん坊さんよ。周りにいるものは自分を可愛がるために存在していると思っているわ」



「そのとおりかもな」

 テッドは濡れそぼった自分の衣類の山と、床にできた水溜まりを見ている。「俺がここへ来て、どれくらいになるんだ?」



 時計に目をやると、針は二時三十分を指していた。



「三時間半ね」



 その短い時間の間に、あまりに多くのことが起きた。そのくせ、一時間かそこらしか過ぎていないような気がする。



「わたしがあなたを家に引き摺って入れて、服を脱がせたの。外は酷い吹雪だわ。なのに泥水に体を突っ込んでいたの。ずぶ濡れだったし、衣服はカチカチに凍っていた。濡れた体を拭いて、毛布にくるんだわ」



「今はなにも思い出せない」



「よく此処まで来られたわね。なぜ歩きだったの? 車はどうしたの? 事故かなにか?」



「いや」


 彼は首を傾げている。



「そもそも、なんでこんな時間に、こんな天気のときに外出したの?」



「そんなに一度に質問しないでくれ。今は思い出せないんだ」



「奇跡よ! 普通なら間違いなく凍死しているわ」



「でも、俺はそうならずにすんだ。きみのおかげでね」



 テッドは毛布に戻り、彼女の横に寝そべった。思いつめた目をしていた。巻き毛を手に取り、指の間に通してから彼女の耳にかけた。



「俺を温めるため毛布に入ったときは、俺が半分意識を取り戻すなり襲ってくるなんて、予想してなかったはずだ。正直に答えてくれ、ヒカル。きみも望んでのことだったのか?」



 ヒカルは咳払いをした。


「そうね──驚いたけど」


 彼の手に触れる。「でも、いやじゃなかった。あなただって、それは感じたでしょう?」



 テッドはほっとしたように、一瞬目を閉じた。



「きみの体の上で目を覚ますまで、記憶が混沌としてるんだ。というか、自分が何をして、何を感じたかは憶えているが、きみも同じように感じていたのかどうかが、分からなかった」



 開いた手をヒカルのお腹に置き、上に滑らせて乳房をおおった。そして続けて言った。



「ついに頭がイカレタかと思ったね。こんなに綺麗で、やさしい瞳をした、黒髪の女性が裸で隣に居たんだから」



「細かいこと言うようだけど、わたしが居たのは隣じゃなくて、あなたの上よ。最初はね」


 また頬が赤く染まる──いちいち赤くならないで!──と己に言い聞かす。「あなたを温めるには、それがいちばんだったから」



「確かに効いたよ」



 そのときはじめて、彼の口元に笑みが浮かんだ。ヒカルは息をするのを忘れそうになった。

 彼はハンサムというより、魅力のあるいかつい顔をしているが、笑顔を見た途端、心臓がでんぐり返った。



 愛の化学反応ね、とぼんやりした頭で思う。

 ハンサムな男なら大勢見てきた。夫のハリソンも端正な顔立ちの古典的な美男子だった。



 だが、見た目がよければ体が反応するとは限らず、どんな男性に対しても、これほど性的に惹かれたことはなかった。



 もう一度、彼に抱かれたい。だが、その欲望に屈する前に、彼が身体を消耗する辛い試練をくぐり抜けたばかりなのを思い起こした。



「コーヒーを飲まない?」



 慌てて尋ねて、立ち上がった。彼から目を逸らしながら、パジャマを回収した。



「それとも、なにか食べる? 昨日大量にシチューをつくったのよ。熱いお風呂に入るのもいいかも。温水器だけは家の発電機につながっているから、お湯ならふんだんにあるわ」



「いいね」彼も立ちあがった。「どれもそそられる」



 手を伸ばして彼女の腕をつかみ、自分のほうに向かせた。頭を下げ、今度も甘く、やさしく彼女の唇を吸った。



「それに、もし許されるものなら、また、きみを抱きたい」



 人生には、こんなこともあるのね。ヒカルは彼を見あげた。

 吹雪がつづく限り、テッド・パーカーは傍にいる。



「わたしもよ」


 と、どうにか答えた。「今度は床じゃなくて、ベッドにするとか? 暖かいのよ。熱が全部、二階に上がるから。でも、あなたを抱えて階段を上れなかったから、しかたがなく暖炉の前にしたの」



「文句を付けているわけじゃないんだ」

 彼女の腕にあったパジャマをたぐり、床に落とした。「いま思ったんだけど、コーヒーとシチューの件は忘れないか? ついでに、風呂も。きみが一緒に入ってくれるつもりなら別だけど」



 ヒカルは彼の胸にもたれ、すべてを頭から追い払って、ふたりの体が紡ぎ出す生々しい魔法にだけ心を奪われた。




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