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時を嗤う少女  作者: 多草川 航
10/11

10.教会の上


 天に昇っていくような浮遊感があって、ヒカルは薄目を開けた。青空が見える。

 きっと天国へ昇っていくところなんだろう。ハリソンに会えるかも知れない。彼になんて言おう。



 一種不思議な目つきをして、天使がヒカルをじっと見ていた。なにかこう、ヒカルの方からアクションを起こすことを待ってでもいるかのように。



 だが、ヒカルはどうしていいか分からなかったので、ただ静かに横たわったままでいた。

 天使はなにか言おうとでもするように、ちょっと口を開きかけたが、思いなおしたらしく、つと後ろを向くと裸の背中をヒカルに見せた。



 わたし、どこに寝転がっているんだろう。

 ヒカルは、なんだか事情も良くわからずに連れて来られた子猫のようだと、一瞬思う。このまごついた気持ちをとりつくろおうとして、ヒカルはかすれた声を出した。



「ここは、どこかしら?」


「わたしのうちよ」と天使の声。「もちろん、一時しのぎだけれど」



 まわりに壁もなければ、天井もない。見上げれば青い空。横をゆっくりと雲が流れている。

 ヒカルは興味いっぱいな子猫のように、よく見ようとして上体を起こした。



「わあー!」


 足元には床もなかった。眼下に教会や家々の屋根が豆粒のように小さく見えた。



 慌てふためいたヒカルは、天使の足にしがみついた。それでは心許ないので、背中に顔を押し当ててしがみ付く。



 ヒカルは四方八方が見渡せる中空に浮かんでいた。だが、風は感じない。太陽の熱も感じない。透明ななにかに包まれているかのようで心地良い。



「そろそろ離れてくれない?」



 そう言われたヒカルは、あることを思い出して慌てて天使から離れた。



「なんでわたしはしびれなかったの? あの教会の人みたいに」



 天使は無言だった。



「あれは、なんていうの? バリアーみたいな?」



 天使は無言でいる。



「で……あなた、人間なの?」


 まるっきり人間みたいに見えるのだが。



「どういう意味?」

 と天使は言い、そして直後に、

「はああ」と何かに思い至ったように、

「仕方がないわね」と言った。



 天使は僅かに微笑み、頭を前に下げると、

「わたしの正体……見る?」

 と籠った声を出しながら、亜麻色の髪の中に両手を差し入れた。



 ヒカルは突然の申し出に驚いて、上体を引いた。

 二、三秒後、天使の笑い声が気に障るほど響き渡った。天使は手で乳房を揺すりながら、からかう様な口ぶりで言った。


「これ、本物よ」



 ヒカルはまだ疑心暗鬼な目付きで相手を見た。


「じゃあ、どこから来たの? 日本語はどこで覚えたの?」



 この南半球で、日本語を流暢に話すアングロサクソン──そのように見える──に出会ったのは、これで二人目だった。フィル・シェル、そしてこの天使だ。



「八〇〇年後から……」



 それを聞いて、ヒカルは吹き出しそうになった。だが、ついさっき彼女が天から降りて来たところを思い出して、表情は複雑に変化した。



「わたしは古代の料理や、飲物を味わってみたい。建築物も見たい。この時代の性的風習にも興味があるわ」


「ねえ、八〇〇年未来からってことは、2812年ってことよね?」


「あなたがたの暦法ではね」



 ヒカルは溜息をついてから、自分の腹を見た。つい先ほど、撃たれたことを思い出したのだ。忘れていたほど腹のどこにも傷跡がないし、痛みはなかった。



「どうやって直したの?」



 天使は全く関心がない素振りで、背中を見せていた。いや、しきりに何かの作業をしているようにも見える。

 ヒカルはさらに言い募った。



「すごいわよ。どうやって直したの?」



 天使は煩そうな顔をして振り返った。まったく愛想もなにもないが、その顔付きからは未成年ではないかと思わせた。



「治療をしてから、どのくらい経ってるの? わたし、ずっと眠ってたのね?」


 そう言ったヒカルは、突然あることを思い出した。「大変! 行かなくちゃ!」



 フィルが居る、中国人のアパートへ行く途中だった。



「経ってない」と、天使は答えた。


「……たってない? なにが?」


「経ってない。あなたが死にそうだったし、ここで言葉が分かるのは、あなただけみたいだったから……」



 どうやら天使は、数分、多めに見ても数十分で、ヒカルの銃創を治したと主張しているらしかった。



 足元に下界が広がっている。いつだったか乗った観覧車の最上段よりも高い。ヒカルは目が眩んで、また天使にしがみついた。

 すると天使は言った。



「わたし、この時代の風俗に興味があると言ったけど、あなたと抱き合うつもりはないわ」



 なので、ヒカルはまた彼女から離れた。そのとき、なにかが視界から消えた。

『おや?』と思って、顔をまた彼女の体に近づけてみた。



 天使の脇の向こう側に、モニターのような画面がある。ヒカルは何度か顔を近付けたり、離したりを繰り返した。どうやら、天使のすぐ近くにいると、様々な機器が見えるようだった。



「あ、ラグビー」

 と、モニターを見てヒカルは言った。



 天使はニュージーランドのテレビを視聴していた。昨夜のオールブラックスの試合の再放送だった。



「さっきの騒ぎはニュースになっていない?」



 天使はチャンネルをすばやく変えて見せたが、どこも退屈な料理番組とか、アメリカのホームドラマだった。



「ほら」と、天使は下界を指差した。


 先ほどの坂の上では、突然姿をくらました一人の女と天使を捜して、警官たちが検分中だった。騒ぎを聞きつけたマスコミの車がやって来たばかりだった。



「訊いていい?」とヒカル。「だとしたらあなた、なんでオークランドくんだりまで来たの?」



 これは当然出てくる質問だった。未来から時間旅行でやって来たとしたら、ローマとかアテネとか、いやこの時代ならニューヨークとか東京だろう、ふつう。あるいは上海とか。なぜ、ニュージーランドなのか?



 すると、天使の答えがふるっていた。 


「わたし、あんまり細かく考える性質たちじゃないのよ。古代の歴史も真剣に勉強しなかったし……。この場所にわたしをもたらしたのは、偶然以外の何ものでもないの。ついでに言えば、この日に現れたのも、ただの偶然」



 それを聞いてヒカルは驚いた。天使はつづけた。



「あら、それってそんなに変なことかしら。旅行先が気にいらなければ、その場で変更すればいいだけのこと。そうじゃない?」


 なにか思い当たったとでも言うように、彼女は一本指を立ててニヤリと微笑んだ。「ひとつ学習したわ」



「え?」


「あなただけなのか、あなた達なのかは、これから分かるんだろうけど、計画を入念に立ててからでないと、一歩も前に進みそうもないわね」



「まあ、そうすれば誉められたりするけどね。で?」とヒカルは訊いた。「ここは気に入ったのかしら」



「まあね。あなたとは言葉が通じることが分かったから、もう少し案内してもらおうかしら」



 ヒカルは急に心配になった。



「もう少しって、どのくらい? わたしは友人のところへ行く途中だったんだけど」



 天使はそれについては無言だったが、

「ほら! インタビューしているわ」と言った。



 モニターの中で、マイクを向けられた男が話している。


「若い女が空から降りてきて、教会の上からこう」と身振りを交えて、「近付いて来て、あの木立をかすめて路上に降り立ったんだ」



「空から!?」と、レポーターはカメラに向かって目を剥いて見せた。「空から降りて来たんですね!?」



「そ、そうです」


「どんな乗り物で?」



 男は首を振った。



「裸で降りてきたんだ」

 と後ろにいた男が割り込んだ。興奮気味だった。「裸だよ! あれはヴィーナスだ。信じられるかい?」



「いや、とても」


「光り輝いていたが、体の輪郭はよくわかった。目が眩むかと思うほど綺麗だったよ。胸もあそこもなあ」


 と、男はうっとりとした顔を見せたが、隣にいた連れの女が、その男の手の甲をピシャッと叩いた。



 まだインタビューは続いていたが、ヒカルは一歩下がって──するとモニターも音声も消えた──あらためて天使をしげしげと眺めた。



 金髪まじりの亜麻色の髪。肌理の細かい艶々とした肌。豊かな胸、乳房の先でつんとした乳首。細くくびれたウエストの下で存在感を示している臀部。そして太腿の付け根に申しわけ程度に生えた陰毛も亜麻色だった。



「訊いていいかしら?」

 と、ヒカルは言った。「なぜ裸で来たの? 恥ずかしくはないの?」



 天使はゆっくりとモニター方向へ手を伸ばし、何かを操作したようだった──テレビ放送を消したのかも知れない。



 ヒカルには見えないけれど、天使は腰掛けに座っているような格好で、体をこちらに向けた。



「あなた、わたしの体に興味があるの? さっきも言ったけど、抱きつかないでね」



 八〇〇年も経てば、『恥』の意味も変わるのだろうか、などとヒカルは思った。



 胸も股間も晒して座りつづける天使を見て、ヒカルは痺れて坂道を転げ落ちる破目になった、あの教会の人と同じ気分に襲われた。

 今いる場所は、あの教会の遥か上空のようだが、地上からは見えていないのか。



「名前はなんていうの? わたしはヒカル」


「レイナ」と、天使は答えた。


「天使レイナ、日本語はどこで覚えたの?」


「テンシ? ニホンゴ?」


「日本語とは、あなたが話している言葉のことよ」


「それは生まれたときから」


「そうなんだ。英語は話さないの? ここでは英語が公用語なのよ」


「そう」


「どこから来たの?」


「どこ?」


「どの場所から来たの? 地球上の」


「東経百三十六度四分、北緯二〇度二五分」 


「え?」


「むかし、オキノトリシマって言われていた所だって教わった」



 そんな所に住める場所があったっけ、などと不毛な想像をめぐらせた。



 急に、ヒカルは八世紀も未来のことを考えても仕方がない、と思うようになった。なぜならば、鎌倉幕府の頃の人間が、二十一世紀に思いを馳せるのと一緒だからだ。そもそも無理なのだ。



 それからしばらくの間、二人は無言だった。

 ヒカルはある心配に思い当たって、レイナに頼み込んだ。



「また、この国のニュースを見たいんだけど」


「なぜ?」


「おねがい!」


 ヒカルは手を合わせた。でも、レイナは微動だにしない。「だめ?」



「なに? 今のしぐさ」

 と、別のことに興味を示した。



「しぐさ?」手を合わせて、「これのこと?」



 レイナは頷いた。



「頼みごとよ。人になにかを頼むときにするのよ。もっともこれ、日本人だけかも知れないけど」



 レイナが向こうに腰をまわして、手を前に差し出した。

 彼女にぴったりと近付くと、ニュージーランドのニュースが目に飛び込んだ。



 やはり相変わらず、ニュースは教会前の騒ぎ一辺倒だった。意識を失っていた例の教会関係者が、病院のベッドに横たわったまま、レポーターから質問攻めにあっていた。



 教会前にいるレポーターに画面が切り替わり、彼は裸の女とともに消えた、もうひとりの女性の身元を局が一丸となって捜していると話した。



「や、やっぱり! まずいわ!」


 ヒカルは懇願するように両手の指を組み合わせた。



「なにがマズイの?」


「わたし、下へ降りてったら、なんて説明すればいいのかしら」



 警察も、テレビ局も、ラジオ局も、新聞や週刊誌も、侮辱されたと思っている教会さえも、ヒカルを見つけたら総出で追っかけて来るに違いない。



 裸で街中を歩きまわった不届きな女とともに姿を消したヒカルは、山から下界に迷い込んで、追っ掛けまわされるサル同然だ。



 ヒカルの心臓は鼓動を強めた。

 眼下では、真上に昇った太陽の光をさんさんと浴びた人々が、右往左往している。



 目の前にレイナが来て、ぺたりと座り込んだ。


「たぶん、そんな心配は無用だと思う」



「……なぜ? どうして?」


「すぐに分かるわ。それに説明を求められるのは、わたしだわ」



 ヒカルは大きくため息をついて黙り込んだ。今頃は遥か離れたクライストチャーチの自宅に、警官やテレビ局の連中が押しかけているかも知れない。



 ご近所や知人にも大変な迷惑を掛けているかも知れない。ケリー・ウィルソンの吊り上った眉が目に浮かんだ。

 ヒカルは顔を上げて言った。



「あなた、さっき気儘な旅行者みたいなこと言っていたけど、ほんとに?」



 レイナが無言で視線を送っている。ヒカルはつづけた。



「だって例え、八〇〇年も時間が進んでも、旅にはお金が掛かるでしょうに。旅っていわば時間を切り売りするような商売よ。それとも、こんな手の込んだ乗り物が、あなた個人の所有物とでも言うつもり」



「いいえ、違うわ」


 意外や、レイナはあっさりと返した。



「ほらっ、あなた、歳いくつ?」


「十九」


「ほらっ、まだ子供みたいなものじゃない」



 すると、レイナは今までになく真剣な顔付きで、英語がほとんど話せないから少し付き合って欲しい、そう頼んできた。



「通訳機みたいな便利なもの、あるんじゃないの?」



 ヒカルがそう言ったのは、なかばからかい半分のつもりだった。



「時代が違い過ぎる。意味不明な単語が多くて厄介なのよ」



 ヒカルは、これじゃまるで旅先での保護責任者だと嘆いた。



「そろそろ戻りましょ、お姉さん」


「ヒカルよ、お姉さんはやめて。どこへ戻るの?」


「元の場所よ」







 公園の丘の下、道路を渡った歩道で見守る人々の背後から、ひとりの男が近づいて来た。彼は一発目の銃声でアパートの部屋を飛び出し、二発目の銃声を走りながら耳にして、今、乱射された直後の丘の上を見つめている。



 硝煙が風に流され、その匂いが鼻を突く前に、

「ちくしょう!」

 と声にしたフィル・シェルは、警察車両の横をすり抜けて丘のふもとに走り寄った。



 彼を制止する声がして、一人の警官が駆け寄ったために、フィルはそこに立ち止らなければならなかった。見上げると、斜面に伏せていた警官たちが一人二人と立ち上がった。



 彼等は注意深く丘の上に近づく。頂上に立ったとき──誰であるかは識別できないが──女の顔が見えた。



 その女に向かって警官たちが銃を向けていた。さかんに「伏せろ!」と命じている声が、風に乗って流れてくる。



 しばらくすると、二人の女が立ち上がった。亜麻色の髪で裸の女、そして黒髪の女だ。

 警官の一人が、大判の毛布を恐る恐ると裸の女に渡した。彼女はそれを肩から羽織った。



 彼女たちは警官に取り囲まれ、丘を下りて来た。警察車両に向かう途中、レイナは見物人の中にいる一人の男を認識した。



 フィルは、レイナから彼女の後ろを歩くヒカル・スカイファーに視線を転じた。だが、ヒカルはうつむき加減でいたため、彼の存在には気付かなかった。

 まわりの警官を意識したためなのか、フィルがヒカルに声をかけることはなかった。



 やがて雲間から陽がのぞき、あたり一面の空気を午前中の暖かいそれに変えた。

 四方八方からテレビ局ほかマスコミ関係の車が押し寄せ、これ以降は、この国の空気をかつてないほどエキサイティングなものに変えていくのだった──いや、世界中を──。






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