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時を嗤う少女  作者: 多草川 航
1/11

1.クライストチャーチ


 過去数カ月間のあの信じられない事件の数々。それに対するヒカル・スカイファーの関わりはとても大きなものだった。世界中の誰よりも。



 死にかけた若者との出会い。そして、未来から来たという少女との関係も誰よりも深かった。それは決して、ヒカルが望んで起きたことではなかったのだが──。




        ◇




 2012年7月。ヒカルが仕事から帰宅するころには、郊外の彼女の家にも吹雪が近付いていた。

 南半球のクライストチャーチ市の七月は、一年でいちばん寒い時季だ。



 日本からニュージーランドに留学してから十年近くが経過したヒカル。その日は会社の同僚達と二十五歳の誕生日を祝い、帰宅した。



 吹雪のせいなのか、いつも聴いているラジオ電波の受信状態が悪くなっていた。電池を入れ替えて、あらためてスイッチを入れてみたが、ヒカルの願いもむなしく受信状態はよくならない。

 溜息をついて、スイッチを切った。



 寝るにはまだ早かった。テレビをつけて見たが、強風のせいで映りが悪かった。すぐに消した。



 なにかしなければと思いつつも、なにをしたらいいのか分からず、所在なく居間の中をうろついた。



 そこへ突然の雷鳴。少し離れたところへ落ちたようだが、ヒカルが身を固くして立ち止まるほど大きな音だった。かん高い風の悲鳴も神経に障るようになってきた。



 風呂に入ったら気が静まるかも知れない。ヒカルは着ているものを脱ぎながら、階段を上がった。



 居間の暖炉の熱気が上階に上がっていたので、早くも二階は暑くなりだしていた。ドアが開きっぱなしになっていたせいで、寝室までホカホカだった。



 髪を頭のてっぺんにとめ、シャワーではなく湯を張ったバスタブに入ると、柔らかな照明の光が体の上で躍った。



 湯に浸かった裸体がきらめいている。ランプの光だと目を疑うくらい、いつもと違って見えた。丸みが強調されて、影の部分は、より沈む。



 胸は大きいと言えるほどではないが、いつもより豊かに見えた。位置が高くて形がいい。

 日本人にしては悪くない体だと、自分で思っていた。お腹はペッタンコで、お尻は見事なほどふくよかだ。



 この体で二年もセックスから縁がないなんて、誰も信じてくれないだろう。だが、すぐに顔をしかめて、その考えを頭から追い払った。



 夫のハリソンが生きていた時には、彼とのセックスに歓びを感じていた一方で、それが出来なくなった今でも、性欲にはあまり苦しめられていない。



 最近は多少感じるようになったけれど、欲望を持て余して困るところまではいかなかった。



 目を閉じ、後ろに倒れて、すっぽりと湯に浸かる。

 ただ、赤ちゃんは欲しかった。なぜなのか、ハリソンとの間に子供は授からなかった。



 短い自愛を置き去るように、ヒカルはさっと体を起こし、足の指でバスタブの栓を抜いた。立ってツャワーの蛇口をひねって、憂鬱を洗い流してから出た。



 肌触りのいい厚地のフランネルのパジャマに袖を通し、そのぬくぬくとした心地よさを味わった。フランネルのパジャマには、寒い日に飲むスープと同じで、よしよしと頭をなでられるような安らぎがあった。



 歯を磨いて髪を梳かし、顔に化粧水をつけて、極厚の靴下を履くと、だいぶ気分が良くなった。あとは吹雪に負けないようにするだけだ。



 階下で電話のベルが鳴っていた。

 ティムは階段の下に寝そべり、ヒカルが戻るのを待っていた。尻尾を振って歓迎してから、最下段の前で伸びをした。ヒカルは跨ぐしかなくなった。



「どいてくれたっていいのよ」と、愛犬に言ってみる。



 ティムは、ハリソンが亡くなって暫らくして、寂しさを紛らわすために友人から貰い受けた。今のように、時どきはこちらの意向をほのめかしてみるが、一度としてティムに通じたことがない。



 暖かい二階にいた直後なので、居間は凍えそうに寒かった。暖炉の薪をひと突きしてから、受話器を取り上げた。

 途端に、同僚のケリー・ウィルソンの賑やかな声が飛び出した。



「ヒカル!? あなた、携帯電話を会社の引き出しに忘れて帰ったでしょう。何回掛けても出やしないから……」



「あら!」

 暖炉脇のテーブルの上に置いたバックの中を探った。



「こっちにあるわよ。引き出し、鍵が掛かっているけど、鳴っていたから間違いないわ」



「それでわざわざ? なんてことはないわよね。用件は何かしら?」



「吹雪が近付いているから、状況によっては明日の出勤は無理しなくていいって、ボスから伝言よ」



「分かったわ、ケリー」



 台所へ行き、ガスコンロでホットチョコレートをつくった。ホットチョコレートはハリソンも大好きだった。



 読みかけの本をかかえて、長椅子に落ち着いた。背中にクッションを敷き、脚の上にも一枚投げてやると、申し分のない寛ぎの場が出来あがった。これで心地よく、満ち足りた気分で読書に没頭できる。



 やがて、夜も更けた。うたた寝から目を覚まし、暖炉の上の時計に目をやった。十一時少し前だった──もちろん夜の。ベッドに入る時間だ。



 でも、また横になるために立ち上がって、二階へ行くなんて何だかバカみたい。


 とはいえ、弱くなっている暖炉の火の面倒をみるため、どっちみち立ちあがるしかなかった。欠伸をしながら薪を二本くべて、様子を見に近づいて来たティムの、耳の後ろを掻いてやった。



 すると、ティムは体をこわばらせ、耳をぴんと立てて喉の奥から唸った。窓辺に寄るや、その前で吠え出した。

 何かが外にいるのか!?



 こんな強風のなかで、どうして物音が聞きとれるのか分からないながら、ティムの感覚の鋭さは信頼していた。



 寝室のテーブルの引き出しに拳銃があるが、二階まで取りに行くより隣室にあるハリソンが残した猟銃のほうが手っ取り早い。



 床を滑るようにして部屋に走り、押し入れの中の猟銃を掴んで、その下の棚から弾薬の箱を手に取った。両方を持って灯りのある居間に戻ると、弾を五発詰めた。


 風とティムの咆哮とで、それ以外の物音が掻き消されている。



「ティム、黙って! さあ、こっちにいらっしゃい」

 不安げに窓を見ながら太腿を叩くと、ティムはテクテクと歩いて来て隣に立った。



 頭をなで、小声で褒めてやっても、すぐにまた唸りだす。筋肉を張りつめて前に飛びだし、ヒカルの脚を全身で押した。



 え!? 今、外で音がした?



 耳に意識を集め、ティムを叩いておとなしくさせると、首を傾げて音を聞きとろうとした。



 吹き荒ぶ風の音。


 頭を働かせて、可能性を探った。なにかの動物か? もしかして狼か?



 人間や人家をできるだけ避けようとする動物だが、猛吹雪のせいでやけを起こし、内気で警戒心が強いという本能に反して、避難所を探して迷い込んだのかも知れない。



 かたわらのティムがドアに駆け寄り、ふたたび狂ったように吠えだした。

 動悸がして、手が汗ばんだ。パジャマで手の平の汗を拭い、猟銃をしっかりと握りなおした。



「ティム、静かにして!」



 犬がその声を無視してさらに激しく吠え、続いて窓がしなるほど大きな音がした。

 突風なのか?



「ティム、黙りなさい!」



 怒鳴りつけると、その勢いに押されて、いっとき犬が静かになった。猟銃を構えて、ドアに寄った。



「誰か、いるの!?」



 声を張りあげた。呻き声らしきものが聞こえたような気がした。



「まさか」

 とヒカルは呟き、猟銃を片手に持ちかえて、ドアの鍵に手を伸ばした。



 こんな天候なのに、外に誰かがいる。幹線道路が遠いために、その可能性は考えもしなかった。

 こんな空模様のなか、車という拠りどころを離れたら、この家まで辿り着けるわけがないと思っていた。



 ドアを開けた。先ほどまでの雨でどろどろとなった庭に、大きな物体が横たわっていた。

「ひっ」と、ヒカルは声を上げて後退りした。



 床一面に雪が吹きこんだ。氷の息が吹きこまれ、室内の熱が奪われていく。吹雪が舞う中、それは人だと分かった。ヒカルは猟銃を脇に立てかけてから庭へ降りた。見ると、それは男のようだった。



 外は寒いなんてものではなかった。男の体に触れてみたが、すでに冷たい。もう手遅れなのかも知れないが、このまま放って置いたら確実に、男は凍え死んでしまう。



 彼の体の下に手を入れて抱え上げようと試みたが、さすがに無理だった。両手を引っ張り、足を踏ん張って室内まで引っ張り込んだ。



 風は想像を絶する冷たさで吹きすさんでいる。傍らのティムは案じ顔で、吠えながら前足を突きだしたが、やがてクンクンと啼きだした。謎の人物の匂いを嗅いで、ふたたび唸った。



 ヒカルはもうひと頑張りして、男をさらに居間の中ほどに引き入れた。ゼェゼェ言いながら床を這い、風の圧力に苦労してドアを閉めた。



 閉めだされた風が激怒しているかのように襲いかかり、ドアは猛攻撃にさらされて震えていた。なんとか鍵をかけてから振り返り、あらためて男を見た。



 男は警官だった。制服は濡れて汚れて、生地がガチガチに凍っていた。危ない状態のはずだ。急いで男の脇に膝をつき、凍りついたような手をさすった。



「わたしの声が聞こえる?」と呼びかけた。「ねえ! 返事して!」



 だが、返事はなかった。ぐったりとして、震えてさえいない。いい兆候ではない。


 タオルで目元の泥を払ってやった。皮膚は青白くて血色がなく、唇は紫色に変色していた。指が凍傷になっているかどうか調べている暇はない。早く体を温めてやる必要があった。



 ヒカルは苦労して男の制服を脱がせた。それは凍りついて引き剥がす感じだった。下着は……驚いたことに下着は上下とも着けていなかった。

 銀色の鎖のネックレスが首に巻き付いて、首の後ろに回っていた。



 それにしても、猛吹雪の中をよくここまで来たものだ。たどり着けたのは奇跡か、はたまた幸運以外のなにものでもない。どう考えても、普通なら凍死している。



 そして、ヒカルが彼を温めてやらなければ、確実に死ぬかもしれない状態にあった。体中の泥や水気を拭いた。なにかで体を包んでやる必要があった。



 一階のバスルームに走って手あたりしだいにタオルをつかみ、ベッドから毛布を剥いだ。



 急いで引き返すと、男は床に転がったままで動いていなかった。床の水溜まりから引っぱりだして手早く体を拭き、毛布を床に敷いて、その上に体を転がした。さらに全身を包み、暖炉の前に引っ張っていく。



 犬は寄って来て鼻をつけるとクンクン嗅いでから、彼のとなりに横たわった。



「いい子ね、ティム。温めてあげて」

 ヒカルはティムに囁きかけた。



 筋肉の使いすぎで手先が震えだした。だが、台所に走ってガスコンロで沸かした湯の中にタオルを突っ込んだ。



 取り出したときには、持つのがやっとなくらい熱くなっていた。かけ足で居間に戻り、蒸しタオルで男の頭を包んだ。



 それからヒカルは覚悟を決めて、自分が着ているものをすべて脱いだ。


 早急に温めてやれるかどうかに、彼の命がかかっていた。残っていた毛布を掴み、ホカホカになるまで暖炉にかざした。



 男を包んでいた毛布を開き、温まった毛布をかけて冷たい足をくるむと、隣に体を滑り込ませた。低体温には人体で温めるに限ると聞いたことがあった。



 冷たいからってひるんではいけない。ヒカルは男の体に、自分の体を押しつけた。



「ひっ」

 と思わず声が出て、凍えそうなほど冷たかった。



 男の上に乗って腕を巻きつけ、温かい顔を彼の顔にくっつけた。腕と肩をさすり、男の手をふたりの体の間に挟んで、ぬくもりが戻るまで耳を手で包んだ。



 さらに両足を上下させて男の脚を擦り、冷たさを追いやって血を通わせた。すると男が呻いた。開いた唇から僅かに聞き取れるくらいの囁きがもれた。



「その調子よ。さあ、目を覚まして!」



 呟いて彼の顔をなでると、伸びた髭が手の平にあたった。唇の紫が薄らいできていた。



 そのころには、男の頭に巻いたタオルが冷えていた。タオルをはずして、毛布から出た。台所に走って湯で温めなおしていると、自身の素っ裸の体からあっという間に温もりが奪われていった。



 居間へ取って返し、再度、男の頭に巻きつけて毛布の中に戻った。



 ヒカルに比べて男は上背がありすぎるので、一度に全身を温められない。まず自分の体を下にずらして、足で彼の足を温める。足の指を絡ませるうちに、体温がいくらか移った。再び体をずらし、彼の上半身に乗った。



 大きな体だ。一メートル九十はあるだろうか。硬い筋肉質の体。この際、熱を発生させる筋肉が多いのは悪くない。男の体が震え始めた。



 ヒカルは男に小声で話しかけ、喋らせようと試みた。ある程度、意識が戻ってコーヒーを飲ませることが出来たら、その熱とカフェインが効いて目を覚ます筈だと考えた。



 だが、昏睡状態の人間に対し、下手に熱いコーヒーを飲ませるのは、かえって窒息させ、火傷させてしまう。ここは慎重でなければいけない。



 男は再び「ウーン」と唸り、引きつったように息を吸うと、頭を振ってタオルを落とした。熱で乾いた黒っぽい髪が、暖炉の火に照らされてブロンズ色に輝いている。



 ようやく戻った貴重な体温を逃すわけにはいかない。ヒカルは頭をタオルで包みなおし、額と頬をなでて囁いた。



「起きて! 目を開けるのよ。声を聞かせて」



 安心させようとするあまり、知らず知らずのうちに赤ん坊に語りかけるような口調になった。



 耳慣れた甘い声を聞きつけて、ティムがピンと耳を立てた。ティムは男の足元に移動すると、寄りそうように腰を下ろした。


 厚い毛皮を纏っているので、毛布越しに伝わってくる冷たさが心地よいのだろうか。あるいは本能のままに、男を温めようとしているのかも知れない。



 ヒカルはティムにも、「いい子ね」と話しかけた。



 軽く断続的な身震いは、しだいに激しさを増していった。男の肌はあわ立って、歯の根が合わずにガチガチ鳴っている。体は震え揺さぶられ、筋肉はねじ曲がった。



 ヒカルは痙攣する体を支えた。


 男は苦しんでいた。意識はほとんどなく、呻きながら荒い息をしている。丸まろうとする体を、ヒカルはしっかりと抱きとめた。



「大丈夫よ」

 引きつづき語りかける。「さあ、起きて! 目を開けるの」



 反応があった。薄く持ちあがった瞼の下から、焦点の合わない、どんよりとした目が現れた。瞼はすぐに閉じ、黒っぽい睫毛が頬に影を落とすや、今度は腕を持ちあげて抱きついてきた。



 自分では如何ともしがたい震えが、新たな波となって押し寄せ、温もりを求めて無我夢中でしがみついてくる。



 強張った全身は、ガタガタと震えていた。力強い腕が鋼のようなベルトとなって、ヒカルの体が締めあげられる。小声であやし、肩をなでて体を寄せると、男の体温が確かに感じとれた。



 男の体を引きずり、大きな体を反転させた重労働の疲れに加えて、ヒカルの体は『温めてやらなければ死んでしまう』というストレスが重なっていた。



 毛布に包まれているせいで、汗ばんできている。震えの発作が収まると、男の体から力が抜けた。



 しきりに息をした。腕を動かし、脚をばたつかせ、頭からタオルを振り落とした。うっとうしいのだろうか。



 そこで、頭に巻くかわりにタオルを折りたたみ、男の頭を持ちあげて、堅い木の床との間のクッションにした。



 男がまだ冷えきっていて、急を要する状況だったときは気づかなかったが、いつしかその裸体がもたらす感覚を意識していた。



 上背があって体格がよく、さらに硬い筋肉に包まれた胸。それに、ゆがみと青白さが取れると、顔立ちも悪くない。胸の筋肉が盛んに動くために、ヒカルの胸も疼いた。



 そろそろ体を離すべきなのだろう。そっと男の体を押して起こそうとすると、男は呻き声をもらして、さらに抱きついてきた。



 また震えがきている。ヒカルは体から力を抜いた。今回はそれほどひどい震えではなかった。男は唾を呑んで唇を舐め、うっすらと瞼を開いて、すぐに閉じた。うたた寝しているようだ。



 もう体温が戻ったので、心配はいらないだろう。ヒカルの筋肉も疲労して、別の意味で震えている。



 ちょっとだけ休もう──ヒカルも目を閉じた。




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