第5話「深き森の底で」
迷宮は、生きている。
そんな言葉を初めて実感したのは、この日だった。
街の朝は鐘の音から始まる。
石畳を行き交う商人たちの声、磨かれた鎧の金属音、そして冒険者たちのざわめき。
リアは腰の剣を確かめながら、軽く息を吐いた。
「……準備、完了っと。」
「ほんとに行くの? 一層の北側、まだ誰も帰ってきてないって聞いたけど。」
隣でエナが心配そうに眉を寄せる。
ローブには前回の戦闘でできた焦げ跡が残っていた。
「ギルドの調査依頼だ。報酬も悪くない。」
カイルが短弓を肩に掛け、いつもの冷静な声で言う。
「未踏地を調べるってことは、それだけ危険ってことでもあるがな。」
リアは笑みを浮かべた。
「危険なのは分かってる。でも――姉さんの足跡が、そこにある気がするんだ。」
「リア……」
エナは一瞬だけ視線を落としたが、それ以上は何も言わなかった。
迷宮の入口はいつものように薄暗く、石の階段が地下へと続いている。
しかし、一歩進むたびに空気の温度が下がり、肌を刺すような冷気がまとわりついてきた。
霧の渓流を抜けた先、森が地を飲み込むように広がっている。
湿った苔の匂い。木々の間を漂う青い光。
ところどころに発光する胞子が浮かび、まるで夜空の星が地上に落ちてきたようだった。
「……静かすぎるな。」
カイルが低く呟く。
森の奥からは鳥の鳴き声も、獣の遠吠えも聞こえない。
「空気が重い……魔力の濃度が高いわ。」
エナの声には緊張が滲んでいる。
「これ、本当に一層なの?」
「見える……魔力の流れだ。」
リアは目を細める。
スキル《刻視》がわずかに発動し、
木々の根を這うように淡い光の筋が現れた。
森全体が呼吸しているようだった。
「――止まれ。」
カイルの声と同時に、矢が弦を鳴らした。
木々の影の中、青白い瞳がいくつも光っている。
「《ヴァードウルフ》……」
リアは剣を抜く。
黒い影が地を裂くように飛び出した。
一匹、二匹、五匹。群れでの襲撃。
リアが一匹目を受け止め、反撃の一撃を放つ。
金属音が響き、火花が散った。
だが次の瞬間――視界が歪む。
森の形がねじれ、エナが狼の姿に見えた。
「リア! 落ち着いて、それ幻覚よ!」
カイルの声に我を取り戻す。
幻嗅――恐怖を嗅ぎ取り、幻を見せる特殊能力。
(こんなの、まともに戦えない……)
リアは目を閉じ、深く息を吸った。
視界を信じるな。感覚を研ぎ澄ませろ。
世界の“流れ”を読む――
瞳の奥で金の紋が輝き、空気の中の魔力線が鮮やかに浮かび上がる。
《刻視》発動。
敵の動き、風の揺れ、仲間の位置――
すべてが一本の線として繋がって見えた。
「右から三匹、同時に来る!」
リアの号令と同時に、カイルの矢が放たれ、
エナの詠唱が完成する。
「《フレイム・アーツ:烈火》!」
紅蓮の火球が狼の群れを包み込み、爆音が森を震わせた。
焼け焦げた臭いとともに、光が一瞬で霧を切り裂く。
最後の一匹が逃げようとした瞬間、リアが踏み込み、剣を振るう。
金属が閃き、黒い影が倒れた。
森に、静寂が戻る。
「……ふぅ、やばかった。」
エナが杖をつきながら座り込む。
「幻覚見せるとか反則でしょ……!」
「お前の火球がなきゃ全滅してた。」
リアは笑いながら手を差し出す。
エナはそれを掴み、少し照れくさそうに立ち上がった。
カイルは倒れた影狼の体を調べていた。
「見ろ。体内の魔力濃度、異常だ。普通の魔獣じゃない。」
リアが覗き込むと、
狼の胸のあたりに古びた金属片が埋まっていた。
それを引き抜くと――装飾のついた短剣の柄だった。
「……これ。」
リアの手が震える。
柄の内側に刻まれた紋章は、見覚えがあった。
姉・セラのものだ。
「間違いない。姉さんの剣だ。」
エナとカイルが息を呑む。
リアは柄を強く握りしめた。
「一層の奥に、姉さんの痕跡がある。……次はもっと奥へ行く。」
森を抜け、三人は帰還の途中で焚火を囲んでいた。
木々の隙間から覗く空は、青白く光る迷宮の天井。
「なぁ、リア。」
カイルが炎を見つめながら言う。
「もし姉さんが今も迷宮にいるなら、どうする?」
リアは少し考えて、炎の向こうを見つめた。
「きっと、聞くと思う。“なぜ帰らなかったのか”って。」
「理由があるに決まってるよ。」
エナが優しく笑う。
「だってあんたの姉さんでしょ?」
リアは小さく笑って頷いた。
「そうだな。……絶対に、見つけ出す。」
炎がぱちりと弾けた。
森の奥、風が遠くで鳴いた。
まるで、それが彼らの決意を確かめるように。
第一層は、まだ始まりにすぎない。
その奥に何が待つのか――誰も知らなかった。




