第3話「霧の渓流」
迷宮を出た空の下で、リアは久しぶりに深呼吸した。
湿った風と太陽の匂いが混じって、少し目が痛くなる。
「……地上の空気って、こんなにうまかったっけ。」
隣でゼンが草の上に大の字になって伸びをした。
その手には、まだ血の跡が残っている。
初潜行から三日。
彼らはやっとのことで第一層の森地帯を一周し、出口へ戻ってきた。
戦いの中で怪我もあったが、全員生還――それが何より大きい。
リアは剣を見つめながら、小さく呟いた。
「これで、ようやく“冒険者”って言えるのかな。」
「名乗れるさ。今日からだ。」ゼンが笑った。
「迷宮が怖いだけの奴らとは違う。」
その笑顔を見て、リアはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
――だが胸の奥にある“空白”は埋まらない。
姉を探すための道は、まだ、始まったばかりだ。
翌朝。
《黎明の街》のギルドは、朝から人で溢れていた。
「お、戻ったか。昨日はよく生きて帰ってきたな。」
受付嬢のティリナが、いつもの冗談混じりの笑顔で迎える。
リアは報告を済ませ、初報酬の銀貨を受け取った。
報酬袋の重みが、妙に現実的だった。
そのまま掲示板に目を向ける。
紙の束の中、一枚が風でめくれた。
> 【依頼名】第一層・東区画《霧の渓流》にて消息を絶った探索隊の捜索
> 【報酬】銀貨5枚+回収品査定
> 【推奨ランク】E級以上
リアの指が、その紙を押さえた。
「……これ、行ってみたい。」
「おいおい、いきなりE級かよ。」
ゼンの眉が跳ね上がる。
「俺たちF級だぞ。昨日やっとスライム倒せたばかりだろ。」
リアは首を横に振る。
「危険は承知。でも……“消息不明”って言葉が、気になる。」
その目の奥に、痛みのような光が宿る。
「姉さんも、こう書かれてた。」
沈黙が落ちる。
ゼンが舌打ちして笑った。
「ったく……お前のそういう無茶、止めるだけ無駄か。」
「行こうぜ。今度は“逃げない”戦いをしてみたい。」
ミナも小さく息を吸い込み、頷いた。
「……霧の渓流。調査だけですよ、リア。」
リアは微笑む。
「もちろん。“無理はしない”。ただ、進むだけ。」
森を抜け、東へ。
風が湿り、霧が濃くなっていく。
やがて、木々の隙間から川の音が聞こえた。
「これが、《霧の渓流》……。」
ゼンが呟く。
視界は数メートル先も白い。
木々の影が霧に溶け、音の距離感すら狂う。
「足跡、あります。」ミナが地面を指した。
「三人分。途中で途切れてる……。」
「消されたか。」リアが低く呟く。
水音が、不自然に止まった。
「リア、今の――」
ゼンの言葉は霧の中に吸い込まれた。
音が、消える。
霧の底から、何かが動く。
ぬるりとした感触が足首を掠めた瞬間、リアの背筋が凍った。
「構えろ!」
霧が裂けた。
灰白の影――四足とも二足ともつかない異形。
魚のような滑らかな皮膚、半透明の鱗の下で光が蠢いている。
顔には目がなく、代わりに裂けた口が水を吸い込んでいる。
「フォグイーター!」
ミナが叫んだ瞬間、獣が跳んだ。
ゼンが咄嗟に盾を構える。
衝撃。鉄が悲鳴を上げ、盾が半分ひしゃげる。
「っぐあああっ!」
ゼンが吹き飛ばされ、木の幹に背中を叩きつけられた。
リアが剣を抜く。
霧の中、視界はほとんどゼロ。
だが――《刻視》が展開される。
目ではなく、魔力の流れを“視る”感覚。
霧の中で、銀色の糸のような線が走る。
それが“フォグイーターの動き”だ。
「ゼン、右に避けて!」
「は、速え――ッ!」
獣の尾が地面を叩きつけ、土が爆ぜた。
リアの頬に土煙と血が跳ねる。
ミナが詠唱する。
「《霧震波》!」
杖の先から霧が揺れ、音を増幅する波が走る。
見えない敵の輪郭が、音に反応して揺らぐ。
リアがその隙を逃さず、跳んだ。
剣が霧を切り裂く。手応え。
「まだだ――!」
フォグイーターが身を捻り、口を広げる。
冷気が吹き出す。
「ゼン!火を!」
「了解!」
ゼンが腰から火石を投げ、ミナが詠唱を重ねた。
「《点火》!」
火花が霧を焼く。
光に反応して、フォグイーターが咆哮を上げる。
その一瞬――リアは地を蹴った。
「――終わりだ!」
刃が閃く。獣の喉を貫き、血が霧に散った。
フォグイーターが崩れ落ちる。
霧が薄れ、静寂が戻った。
川辺には壊れた紋章石が落ちていた。
焦げ跡と、擦れたギルド印。
「……これが、彼らの最後の証。」
リアの声は震えていた。
ゼンが肩を叩く。
「依頼、達成だな。」
ミナが静かに微笑む。
「……怖かったけど、やり遂げましたね。」
リアは空を見上げた。
霧の隙間から、光苔が滲むように輝いている。
まるで夜明けのように。
その夜、ギルドの魂計が更新される。
リア・アルデン:142 → 197
ゼン・カルロス:156 → 189
ミナ・ローデン:121 → 164
受付嬢ティリナが記録を見て笑う。
「初任務でこれとは……期待の新人ね。」
リアは笑って答えながら、心の奥で呟いた。
(姉さん……この道の先に、あなたはいるの?)




