第55話 --世界をひとつに結ぶ風--
昼と夜の境を越えて、風は吹いていた。
その風を、誰よりも深く聴いていたのが、
――“風を聴く少女”リナだった。
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和ら木を訪れた日から、リナは各地を歩き始めた。
言葉を持たぬ彼女にとって、世界はすべて“音”で語られる。
人々の嘆き、街のざわめき、森の息吹、そして戦火の残り香。
それらすべてが、風の中に混ざり、彼女の胸に届く、届いてしまう。
最初に訪れたのは、昼の民の国境。
焼けた畑と、崩れた塀。
そこでは誰もが「魔族が奪った」と口にした。
リナは何も言わず、跪き、そっと土に手を当てる。
風が答える。――“恐れ”と“悲しみ”が混ざった音。
次に訪れたのは、夜の民の集落。
灯りは少なく、子どもたちは怯えていた。
誰かが彼女を見て囁く。「昼の血が混ざっている」。
だがリナは追い出されず、ただ見つめられる。
風がまた語った。――“疑い”と“痛み”の音。
けれどリナは逃げなかった。
どちらの民の声も、同じように胸に刻んだ。
その夜、焚き火のそばで、
彼女は空を見上げながら指で言葉を描いた。
“風は、どちらの空にも吹く。”
それは彼女自身の祈りのはじまりだった。
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その旅の途中、リナはさまざまな“想い”を風の中に感じた。
――パンの香りで人を励ましたリオの“優しさ”。
――自分を責め続けた母ライラの“赦し”。
――魔獣と共に歩もうとしたミナの“勇気”。
――未来を見る占者セオルの“今を生きる大事さ”。
――子どもたちの絵を束ねたリトの“希望”。
――言葉に頼らない外交官アーレンの“沈黙の信頼”。
それらはみな、風に溶けて世界をめぐっていた。
リナはその全てを“聴いた”。
ひとつひとつの音が、彼女に道を示していた。
“違いを恐れず、隣に座ること。”
“正しさより、想いを伝えること。”
“変えようとせず、受け入れること。”
それはまるで、和ら木で聞いたすべての言葉が
風の記憶として再び彼女のもとに還ってくるようだった。
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そして――和平交渉の最終日。
風に連れてこられるように、長い旅の末、
リナはその会場にたどり着いていた。
昼の民と夜の民が集う大広間には、
語り尽くされた言葉の残響だけが漂っていた。
誰もが疲れ、誰もが譲れず、
空気は沈黙の重みで満ちていた。
そのとき、扉の隙間から風が流れ込む。
ささやかな風であったが、扉が解き放たれた。
書類が揺れ、蝋燭の炎が震え、わずかに衣服が靡く。
人々が振り返る先に――リナが立っていた。
薄汚れた彼女は言葉も持たない。
かすかに光の粒を纏っている。
そしてその沈黙が語っていた。
風と光の粒が彼女の周りを巡り、
昼と夜のあいだを越えて吹き抜ける。
その風の中に、
誰かの涙が、誰かの笑顔が、
そして、誰かの赦しが溶けていた。
彼女はゆっくりと両の手を胸に当て、
目を閉じる。
――祈り。
声なき音が、風に乗って広がっていく。
「どうか、この風が絶えませんように。」
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アーレン=クロードが静かに立ち上がった。
十年語り続けたが、ここ数年は聴くことを選んだ男。
その瞳に、風の流れが映っていた。
リナの祈りが、確かに彼に届いていた。
アーレンは懐から、一枚の紙を取り出す。
子どもたちが描いた“未来の絵”。
笑い合う人々、寄り添う魔獣、空を分け合う光。
彼は歩み出る。
風がマントを揺らす。
リナの祈りが彼の背に吹いた。
机の前に立ち、紙をそっと置く。
沈黙。――そう、沈黙の外交官が今なにかを発しようとしている。
全員が息を止めて見守る。
そして、
アーレンは小さく、しかし確かに口を開いた。
「……私の正義は、これだけです。」
その声は風と混ざり、
会場の隅々まで静かに響いた。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、その沈黙を“聴いた”。
やがて、夜の民の評議員ルルシアが立ち上がり、
深く頭を下げた。
「――この絵に、勝てる正義はありません。」
昼の民の代表も頷く。
ペンを取る音が響く。
そして、次々に署名が続いた。
戦いの終わりを告げる音が、
まるで春の雨のように優しく響いた。
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リナはそっと目を閉じ、
両手を空へと掲げた。
風が強くなり、
広間の窓を開け放つ。
昼と夜、二つの光と影が交わり、
世界を包むように淡く溶け合う。
彼女は声なきまま祈った。
――“風が、すべてをつなぎますように。”
その瞬間、世界中の空に風が渡った。
街の屋根を撫で、森を抜け、
遠く、和ら木にも届いた。
ちりん――。
扉の鈴が小さく、ほんの小さく鳴り、
三郎が顔を上げる。
「……届いたみたいだね。」
ワタまるが「ぽふー」と鳴く。
窓から入る風が、
和ら木のカップを優しく揺らしていた。
その風の中には、
笑い声と祈りが重なり合う、
新しい世界の景色が広がっていた。
これで一旦本編はおしまいです。
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