第45話 --共に育つ--
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和ら木の昼下がり。
外の通りには子どもたちの笑い声が響いていた。
店の扉を開けたとき、三郎はその声の明るさに思わず目を細めた。
「……あのクラス、だいぶ変わったな。」
ふわりと光が舞い、カリスが現れる。
カリス:「はい、セリナ先生のクラスですよ。
最近は“共育”の見本のクラスだって評判です。」
「“共育”? 新しい言葉ですね。」
カリス:「そうなんです。もともとは、セリナさんの“笑ってみた授業”から始まったんですけど……
今は町中で“共に学び、共に育つ”教育法として広まっているんですよ。」
「……なるほど。笑顔って、ただの表情じゃないんですね。」
カリスは頷き、新聞を差し出した。
「詳しくはこれに。アルベルトさんの特集記事です。」
三郎は受け取り、ゆっくりと紙面を開いた。
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【街の目新聞・第155号】
「共に育つということ――“共育”が結ぶ二つの民」
この数か月で、街の教育は目に見えて変わった。
教師は笑い、生徒は問い、教室には“わからない”を恐れない空気が生まれた。
その中心にいるのが、教師セリナ・クレイである。
かつて“笑わない教師”と呼ばれた彼女は、今こう語る。
「私は、教える人ではなく、共に見る人でありたいんです。」
“共育”とは、教え育てることでも、教わり育つことでもない。
――相手と同じ景色を見ようと努めること。
そのために、互いの認識をすり合わせ、
相手の感じ方や考え方を理解しようとする姿勢そのものを指す。
同じものを見ても、見えている世界は人それぞれ違う。
だが、その違いを知ることで初めて、想像力が生まれる。
想像力は、やがて思いやりへと育つ。
そして思いやりは、社会を結び直す。
この考え方は、夜の民――摩族(※摩は本来“摩訶不思議”に由来)にも広がった。
彼らはもともと、物静かで冷静な民だ。
感情を押し殺しているのではなく、深く、静かに燃やしている。
その彼らにとって“共育”は、まるで自らの記憶を呼び覚ますようなものだった。
摩族の教育者トゥルカはこう語る。
「我々は、言葉より沈黙で教える。
しかし、人族が“共に学ぶ”と言ったとき、
初めて言葉の意味が私たちにも届いた。」
夜の学校では、人族の教師と摩族の教師が並んで授業を行うようになった。
互いに“相手の目で世界を見る”練習をしながら、
言葉の裏にある想いを学び合っている。
この“共育”の思想は、やがて和平交渉の席にも取り入れられた。
討論ではなく、授業形式での共有理解のように――
相手の立場を一度“教わる”ことで、
争点が“対立”から“共感”へと変わったのだ。
和平の専門家の間では、こう呼ばれている。
“共育は、平和を育てる母胎である。”
教える者も、教わる者も、共に学び、共に変わる。
それこそが、未来をつくる唯一の教育なのだ。
記:アルベルト・シュナイダー
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記事を読み終えた三郎は、静かに息をついた。
「……“同じ景色を見ようとする努力”か。なるほど、難しいけど一番大事なことですね。」
カリス:「ええ。セリナさんは、生徒だけじゃなく大人まで変えちゃいましたから。」
「夜の民まで……ほんとに、笑わない世界なんてないんですね。」
カリス:「そうですね。彼らはただ静かなだけ。
感情を外に出すより、心の奥で抱いているだけなんです。」
三郎はうなずき、窓の外を見た。
夕焼けの空に、夜の色が静かに滲み始めている。
その境の光が、まるで二つの民をつなぐ橋のようだった。




