第2話 --はじめてのお客様--
扉の上の木鈴が、からん、と小さく鳴った。
外のひんやりとした風が入り、落ち葉の匂いがかすかに混じる。
ふわりと光が現れ、カリスが姿を見せた。
カリス:「三郎さん、今日は初めてのお客様をお連れしました。少し緊張している方です。やさしく迎えてあげてくださいね。」
「……はい。」
三郎は胸の奥で小さく息を整え、扉へ向かった。
コン、と控えめな音。
扉が開き、若い女性がそっと足を踏み入れた。
リオ:「カリス様が……ここなら話していいって言ってくれたので……。」
「いらっしゃいませ。僕は三郎といいます。ここ“和ら木”でお話をうかがいます。怖くないですから、ゆっくりどうぞ。」
リオは遠慮がちにカウンター席へ腰かけた。
椅子の脚が木の床をやさしくきしませ、薪のはぜる音が奥で小さく弾けた。
三郎は和ら木ティーを淹れ、あたたかなマグを前に置いた。
「まずは、こちらをどうぞ。」
リオは両手でカップを包み、一口すすった。
湯気が冷えた指先をやさしく温める。
リオ:「……あったかい。少し落ち着きます。」
「よかった。何かお力になれますか。ゆっくりでかまいませんから、聞かせてください。」
リオは迷ったように目を伏せたが、やがて口を開いた。
リオ:「私、この街に来て二週間なんです。ずっと憧れてたパン屋で働けることになって、嬉しくて……最初は必死に頑張ってたんですけど、最近は足が震えるくらい疲れてしまって。」
「朝早いんですか。」
リオ:「はい、まだ暗いうちに起きて火を入れて、生地をこねて……昼は配達で走り回って、閉店後は仕込み。家に帰るころには真っ暗で、食べて寝るだけです。」
「店主さんはどんな方ですか。」
リオ:「やさしい人です。“ありがとう”は毎日言ってくれます。でも、ずっとやってきたから慣れてるんでしょうね、私がどれくらい無理してるか気づいてないみたいで……。」
「同僚の方は。」
リオ:「二人います。みんな黙って頑張るタイプで……私だけ弱音言ったら迷惑かなって。」
三郎はうなずき、紙と鉛筆を取り出した。
「一日の流れを書き出してみましょうか。」
リオは戸惑いながらも書き始め、紙はあっという間にびっしりと埋まった。
火入れ、計量、こね、一次発酵、成形、二次発酵、焼成、冷まし、陳列、配達、片付け、仕込み。
「……これは誰が見てもハードですね。人間、これ続けたらパンになる前に焦げますよ。」
リオは思わず吹き出した。
リオ:「焦げたら、そのまま店頭に並べられそうです……“本日の新作・ブラックトースト”って。」
三郎は肩をすくめ、マグにおかわりをそっと注いだ。
「まず一回ちゃんと休みましょう。“倒れそう”じゃなくて、思いっきり倒れる。寝て、好きなもの食べて、今日はパンのこと忘れるんです。リオさんは何も悪くないですよ。無理をさせる環境のほうが悪いんですから。」
リオは一瞬ほっとした顔をしたが、すぐに視線を落とした。
三郎は「あっ」と胸の内で舌を巻き、言葉を足した。
「……いや、そうじゃなくて。リオさんが悪いわけじゃないけど、ちゃんと“ここで休もう”って自分で決めるのも大事です。」
三郎は紙の余白を指で軽く叩いた。
「甘くするって、妥協や手抜きじゃない。自分を大切にするために、休む・断る・立ち止まるって決めることなんです。そうやって余裕が戻ると、見える景色が変わります。」
リオは顔を上げた。
リオ:「見える景色……。」
「たとえば店主さん。見ていないんじゃなくて、忙しすぎて“見れていない”のかもしれない。同僚の方も、やさしくはしてくれるけど、自分のことで手一杯で、他の誰かにまで興味を向ける余裕がないだけかもしれません。」
三郎は少しだけ笑って付け加えた。
「だからこそ、まずは自分に甘くして余裕を作る。そうすると、相手の疲れや事情も見えてきます。」
リオはマグをもう一口飲み、ゆっくりと息を吐いた。
リオ:「……そうか。店主さん、私を見てないんじゃなくて、余裕がなかったんだ。同僚も、たぶん同じ。誰も悪くないのに、私だけ置いていかれてるみたいで、勝手に寂しくなってた。」
「それに気づけたのは、立派な一歩です。」
三郎は紙に小さな丸を描いた。
「じゃあ今日は“休む”を選んでみましょう。これは甘えることじゃない。自分に甘くする、大事な決定です。」
リオは小さく笑った。
リオ:「はい。今日はちゃんと休みます。」
三郎も笑みを返した。
「ここでは無理しなくていいです。和ら木ティーはおかわり自由ですから。」
リオはカップを置く前に、店内をもう一度見渡した。
さっきはまぶしく感じた灯りが、今はやさしいオレンジ色に見える。
窓の外の風まで、少しやわらかく吹いているような気がした。
リオ:「……不思議。さっきより、ここがあったかく見えます。」
「景色が変わってきた証拠ですね。」
リオは深く一礼し、立ち上がった。
扉を開けると、木鈴がからんと鳴り、冷たいはずの風が、なぜか心地よかった。
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後日談
数日後、夕刻の光が窓辺を金色に染めるころ、木鈴がまたからんと鳴った。
リオが、前よりいくらか明るい顔で入ってきた。
リオ:「あの……報告、してもいいですか。」
「もちろん。どうぞ。」
リオ:「この前ちゃんと休んだあと、店に戻ったら、店主さんの手のひび割れが目に入ってきて……。それから、重い粉袋を持ち上げるとき、少し腰をかばうみたいにしてるのも見えて。今まで全然気づけていなかったんです。」
リオは苦笑した。
リオ:「思い切って『今日は少し休んでください』って言ったら、店主さん、びっくりした顔をして……それから笑って、『ありがとう、助かる』って。」
「よく言えましたね。」
リオ:「同僚とも、配達の帰りに少し話しました。みんな“しんどいよね”って初めて口にして、次の仕込みは分担してやろうって。私、ずっと“迷惑かける”って思い込んでたけど、みんな、私が倒れるほうが困るって笑って。」
リオは照れたように頬に手を当てた。
リオ:「それから……。焼き上がりのベルが鳴ったのに、誰も気づかない瞬間があって。前の私なら自分を責めて焦ってたと思うけど、深呼吸して、タイマーを一個増やそうって提案できました。店主さんが『いいね、それ』って。」
三郎は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「景色、変わりましたね。」
リオはうなずいた。
リオ:「はい。休んだら、見えるものが増えました。店主さんにも、同僚にも、ちゃんとやさしくしたくなった。最初に私にやさしくしてくれたのは、ここだったから。」
「また、いつでも来てください。」
三郎はゆっくりと言った。
「何かお力になれますか、って、何度でも聞きますから。」
リオは笑顔で一礼し、扉へ向かった。
木鈴が軽やかに鳴る。
その音は、来たときよりも明るく響いた。
ふわりと金色の数字が宙に浮かび、光の粒になって消える。
カリス:「本日の甘甘ポイント、+40からマイナス5して+35です。最初に“環境が悪い”と言い切ったのは、少し甘やかしに寄りましたね。」
三郎は肩を落とし、苦笑した。
「ですよね……あのとき、ちょっと言い切りすぎたなって、自分でも思いました。
あれじゃ、リオさんは“被害者”で終わっちゃいますよね。」
カリスはうなずき、少しやわらかい表情を見せる。
カリス:「でも、そのあと“自分で休むと決める”と軌道修正できたのはとても立派でした。結果として、リオさんの行動にもつながりましたね。」
三郎は息を吐いて、少し笑った。
「正直、初めてのお客様だったので、必死でした。
次はもう少し落ち着いて、言葉を軽くできるようにします。」
カリスは口元に手を添え、くすりと笑った。
カリス:「ええ、次はユーモアを少し多めに。重い心を軽くするには、軽やかな言葉も必要ですから。」
三郎は頭をかきながら、少し照れたようにうなずいた。
「……はい、次は減点されないようにがんばります。」
カリスは読者に向き直り、優雅に会釈する。
カリス:「本日のお話、いかがでしたでしょうか。ご感想やお悩み、いつでもお寄せくださいませ。次の席にお座りになるのは、あなたかもしれません。」




