表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/66

第17話 --午後の休符--


和ら木の昼さがり。

窓を渡る風が、カウンターの木目をやさしく撫でていく。

ワタまるは日だまりで丸くなり、時おり「ぽふっ」と寝返りをうった。


ふわりと光が舞い、カリスが現れる。


カリス:「三郎さん、今日は“甘さを封印した方”をお連れしました!」


「……甘さを封印?」


ちりん、とドアベルが鳴く。

白いコックコートの女性が一歩、また一歩と入ってくる。

腕には焼き跡、指先には砂糖を扱いすぎてできた小さなひび。

表情は凛としているのに、どこか疲れが色濃い。


カリス:「菓子工房『ミストラル』の菓子職人、ミュリエルさんです。」


ミュリエルは軽く会釈した。


ミュリエル:「……お邪魔します。ミュリエルと申します。」


三郎も立ち上がり、丁寧に頭を下げる。


「ようこそ和ら木へ。私は三郎です。どうぞ、お掛けください。」


席につくと、三郎は和ら木ティーを注いだ。

湯気に混じって、蜂蜜とハーブのやわらかな香りが漂う。

しかしミュリエルはカップに手を伸ばさず、まっすぐ口を開いた。


ミュリエル:「——甘さは、油断を呼びます。私は工房で“まかないの菓子”をやめました。味見も最低限。スタッフの間食も禁止。……それ以来、仕事は速く、無駄が減りました。」


「なるほど。効率は上がったんですね。」


ミュリエルは苦笑する。


ミュリエル:「ええ。でも、お客様の足が遠のきました。“すごいのに、なぜか冷たい味”と言われるんです。私には同意できません。配合も火入れも正確、失敗は減っているのに……。」


三郎はカップを押しやりながら、静かに問う。


「ミュリエルさんは、ご自分の菓子を最後に“自分のために”食べたのは、いつですか?」


ミュリエルの指が、ぴくりと止まる。


ミュリエル:「……覚えていません。菓子は仕事。私情を挟めば、手が鈍る。」


「じゃあ、スタッフの誰かと“おいしいね”と言い合ったのは?」


ミュリエルは視線を落とした。


ミュリエル:「……ない、ですね。そんな時間があれば1枚でも多く焼くべきです。」


ワタまるが、ころんとテーブルに乗ってミュリエルを見上げる。

綿あめのような身体がふわりと膨らみ、「ぽふっ」。


三郎は微笑み、言葉を選ぶ。


「“甘やかす”は、基準をなくすこと。

“甘くする”は、基準の中に休符を置くこと……だと、僕は思います。」


ミュリエル:「休符?」


「音楽って、音だけじゃなく“休み”までが曲でしょう?

菓子作りも同じで、正確さという拍の間に、小さな“休符”があると、全体が生きる。

まかないや一口の味見は、怠けではなく“休符”なんです。」


ミュリエルは眉をひそめる。


ミュリエル:「……でも、甘さを許すと、みんなすぐにだらけます。私はそれが怖い。」


「怖いのは、甘やかしでしょう。

けれど“甘くする”は、線を引いた上で与えるご褒美です。

決めた仕事をやり切ったら、焼き上がりの一つを“皆で”半分こ。

配合のズレを舌で確かめるのも、次の一枚を良くするための投資です。」


ミュリエルは言い返しかけ、言葉を飲み込んだ。

彼女はそっとカップを両手で包み、ひと口だけ飲む。

頑なだった肩が、ほんの少し、落ちる。


ミュリエル:「……怖いのは、私のほうかもしれません。

“甘いね”って笑った瞬間に、努力がほどけてしまう気がして。

だから、封印しておけば安全だと……。」


「封印は、味も人も鈍らせます。

——危ない欠けは手放すべきです。でも“歪み”は個性として整えられる。

甘さも同じで、だらける“欠け”を避けつつ、心をほどく“歪み”は配置できるはずです。」


ミュリエルは長い沈黙ののち、かすかに頷いた。


ミュリエル:「……まず、何から?」


「焼き上がりの最初の一つを、“客のための見本”じゃなく“明日の自分たちのためのノート”にする。

切り分けて、味と言葉を一緒に残すんです。『今日は香りが勝ってるね』みたいに。

それは甘やかしじゃない、“甘くする設計”です。」


カリスが「メモメモ」と頷く。

ワタまるは粉砂糖の小皿にずぼっと突っ込み、「ぽふっ」とくしゃみした。


ミュリエルは思わず吹き出し、慌てて口をおさえる。


ミュリエル:「……失礼。——笑うの、久しぶりです。」


三郎はやわらかく微笑んだ。


「休符が入った、いい音がしましたよ。」



---


数日後の和ら木。

ちりん、とドアベルが鳴く。

ミュリエルが木箱を抱えて入ってきた。頬は紅潮し、目が明るい。


ミュリエル:「試作品を持ってきました。“午後の休符シエスタタルト”。

チームで最後に一切れずつ分けて、言葉をノートに書くルールにしました。」


箱を開けると、わずかに楕円に“歪ませた”タルトが現れた。

縁には薄くシトロンのグレーズ。切り口から、杏とアーモンドの香りが立つ。


三郎はひとかけら口に運び、目を細める。


「……やさしい。ちゃんと拍がある。

最初に香り、次に甘み、最後に柑橘。——休符が効いてます。」


ミュリエルは照れくさそうに笑う。


ミュリエル:「スタッフがね、“今日の甘さは“がんばれ”って味です”って。

それ、私、一生言えない言葉だと思ってました。」


ワタまるがタルトを見上げて「ぽふー」。

カリスがふわりと現れ、採点を掲げる。


カリス:「今回のポイントは……“甘くする設計”+65ポイント!」


三郎:「高いですね。」


カリス:「“甘やかしの欠け”は避けて、“甘くする歪み”を配置。とても上手です!」


ミュリエルは深く一礼した。


ミュリエル:「封印を解いても崩れませんでした。……いえ、むしろ音がよくなった。

次は、季節の“休符”を作ります。また、持ってきますね。」


「楽しみにしています。」


甘い香りと笑い声の間で、和ら木はやわらかな午後を長く伸ばしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ