第17話 --午後の休符--
和ら木の昼さがり。
窓を渡る風が、カウンターの木目をやさしく撫でていく。
ワタまるは日だまりで丸くなり、時おり「ぽふっ」と寝返りをうった。
ふわりと光が舞い、カリスが現れる。
カリス:「三郎さん、今日は“甘さを封印した方”をお連れしました!」
「……甘さを封印?」
ちりん、とドアベルが鳴く。
白いコックコートの女性が一歩、また一歩と入ってくる。
腕には焼き跡、指先には砂糖を扱いすぎてできた小さなひび。
表情は凛としているのに、どこか疲れが色濃い。
カリス:「菓子工房『ミストラル』の菓子職人、ミュリエルさんです。」
ミュリエルは軽く会釈した。
ミュリエル:「……お邪魔します。ミュリエルと申します。」
三郎も立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「ようこそ和ら木へ。私は三郎です。どうぞ、お掛けください。」
席につくと、三郎は和ら木ティーを注いだ。
湯気に混じって、蜂蜜とハーブのやわらかな香りが漂う。
しかしミュリエルはカップに手を伸ばさず、まっすぐ口を開いた。
ミュリエル:「——甘さは、油断を呼びます。私は工房で“まかないの菓子”をやめました。味見も最低限。スタッフの間食も禁止。……それ以来、仕事は速く、無駄が減りました。」
「なるほど。効率は上がったんですね。」
ミュリエルは苦笑する。
ミュリエル:「ええ。でも、お客様の足が遠のきました。“すごいのに、なぜか冷たい味”と言われるんです。私には同意できません。配合も火入れも正確、失敗は減っているのに……。」
三郎はカップを押しやりながら、静かに問う。
「ミュリエルさんは、ご自分の菓子を最後に“自分のために”食べたのは、いつですか?」
ミュリエルの指が、ぴくりと止まる。
ミュリエル:「……覚えていません。菓子は仕事。私情を挟めば、手が鈍る。」
「じゃあ、スタッフの誰かと“おいしいね”と言い合ったのは?」
ミュリエルは視線を落とした。
ミュリエル:「……ない、ですね。そんな時間があれば1枚でも多く焼くべきです。」
ワタまるが、ころんとテーブルに乗ってミュリエルを見上げる。
綿あめのような身体がふわりと膨らみ、「ぽふっ」。
三郎は微笑み、言葉を選ぶ。
「“甘やかす”は、基準をなくすこと。
“甘くする”は、基準の中に休符を置くこと……だと、僕は思います。」
ミュリエル:「休符?」
「音楽って、音だけじゃなく“休み”までが曲でしょう?
菓子作りも同じで、正確さという拍の間に、小さな“休符”があると、全体が生きる。
まかないや一口の味見は、怠けではなく“休符”なんです。」
ミュリエルは眉をひそめる。
ミュリエル:「……でも、甘さを許すと、みんなすぐにだらけます。私はそれが怖い。」
「怖いのは、甘やかしでしょう。
けれど“甘くする”は、線を引いた上で与えるご褒美です。
決めた仕事をやり切ったら、焼き上がりの一つを“皆で”半分こ。
配合のズレを舌で確かめるのも、次の一枚を良くするための投資です。」
ミュリエルは言い返しかけ、言葉を飲み込んだ。
彼女はそっとカップを両手で包み、ひと口だけ飲む。
頑なだった肩が、ほんの少し、落ちる。
ミュリエル:「……怖いのは、私のほうかもしれません。
“甘いね”って笑った瞬間に、努力がほどけてしまう気がして。
だから、封印しておけば安全だと……。」
「封印は、味も人も鈍らせます。
——危ない欠けは手放すべきです。でも“歪み”は個性として整えられる。
甘さも同じで、だらける“欠け”を避けつつ、心をほどく“歪み”は配置できるはずです。」
ミュリエルは長い沈黙ののち、かすかに頷いた。
ミュリエル:「……まず、何から?」
「焼き上がりの最初の一つを、“客のための見本”じゃなく“明日の自分たちのためのノート”にする。
切り分けて、味と言葉を一緒に残すんです。『今日は香りが勝ってるね』みたいに。
それは甘やかしじゃない、“甘くする設計”です。」
カリスが「メモメモ」と頷く。
ワタまるは粉砂糖の小皿にずぼっと突っ込み、「ぽふっ」とくしゃみした。
ミュリエルは思わず吹き出し、慌てて口をおさえる。
ミュリエル:「……失礼。——笑うの、久しぶりです。」
三郎はやわらかく微笑んだ。
「休符が入った、いい音がしましたよ。」
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数日後の和ら木。
ちりん、とドアベルが鳴く。
ミュリエルが木箱を抱えて入ってきた。頬は紅潮し、目が明るい。
ミュリエル:「試作品を持ってきました。“午後の休符タルト”。
チームで最後に一切れずつ分けて、言葉をノートに書くルールにしました。」
箱を開けると、わずかに楕円に“歪ませた”タルトが現れた。
縁には薄くシトロンのグレーズ。切り口から、杏とアーモンドの香りが立つ。
三郎はひとかけら口に運び、目を細める。
「……やさしい。ちゃんと拍がある。
最初に香り、次に甘み、最後に柑橘。——休符が効いてます。」
ミュリエルは照れくさそうに笑う。
ミュリエル:「スタッフがね、“今日の甘さは“がんばれ”って味です”って。
それ、私、一生言えない言葉だと思ってました。」
ワタまるがタルトを見上げて「ぽふー」。
カリスがふわりと現れ、採点を掲げる。
カリス:「今回のポイントは……“甘くする設計”+65ポイント!」
三郎:「高いですね。」
カリス:「“甘やかしの欠け”は避けて、“甘くする歪み”を配置。とても上手です!」
ミュリエルは深く一礼した。
ミュリエル:「封印を解いても崩れませんでした。……いえ、むしろ音がよくなった。
次は、季節の“休符”を作ります。また、持ってきますね。」
「楽しみにしています。」
甘い香りと笑い声の間で、和ら木はやわらかな午後を長く伸ばしていた。




