第1話 --甘宿り和ら木--
三郎は、木製の鍵を握りしめて立っていた。
目の前には、丸太造りの建物――
『甘宿り 和ら木』と彫られた看板が、
やわらかい風に揺れている。
扉は分厚い丸太を削り出したもので、取っ手までも木製だった。
鍵穴にそっと鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
カチャリ。
軽やかな音が響く。
「……開いた。」
ギィ――。
扉がきしむと同時に、あたたかな空気がふわりと外へ流れ出た。
中は思ったより広い。
薪の香りとハーブの匂いが混ざり合い、胸の奥までやさしく沁みてくる。
奥ではストーブの火が静かに揺れ、木の壁がほのかに光を返していた。
カリス:「いかがです? 我ながら、落ち着く空間でしょう?」
いつの間にか、背後にカリスが立っていた。
三郎は店内を見渡しながら、感嘆の息を漏らす。
「……本当に、喫茶店みたいですね。」
カリス:「こちらがカウンター席です。四脚あります。
お一人さまでも、ゆっくり過ごせますよ。」
三郎は一脚を引いて腰を下ろす。
木目が手になじみ、少しひんやりした感触が落ち着く。
「……いい椅子ですね。」
カリス:「ふふ。気に入っていただけて嬉しいです。」
カリスは店の奥を指さした。
カリス:「あちらがボックス席。六人掛けが二卓あります。
団体さんでも安心ですよ。」
三郎はテーブルの縁を指でなぞる。
「角が丸い……。」
カリス:「小さな子でも安心ですからね。
……まあ、削りすぎたのは少々わたくしの手元が狂ったせいですけれど。てへっ。」
思わず笑いがこぼれる。
「女神様でも、うっかりするんですね。」
カリス:「もちろん。自分に甘いところも大切ですから。」
その一言に、三郎は少しだけ肩の力が抜けた。
カリスは棚の前に移動し、瓶をいくつか並べてみせる。
カリス:「ここにあるのが『和ら木ティー』の材料です。
香りを嗅いでみてください。」
瓶の蓋を開けた瞬間、
花のような、土のような、懐かしい香りが広がった。
「……いい匂いだ。」
カリス:「飲むと、心がほどけますよ。」
マグカップに注がれた琥珀色の液体を受け取り、
三郎はそっと口をつけた。
「……うまい。」
カリス:「それは何より。」
ほんの少しだけ、喉の奥が温かくなる。
ずっと冷えたままだった心の奥に、小さな火が灯るようだった。
カリスは二階へ続く階段を指差す。
カリス:「あちらがあなたのお部屋です。
寝室と机、本棚も用意しました。
生活に必要なものは一通り揃っています。」
「へえ……ちゃんと暮らせそうですね。」
カリス:「ええ。長くなるかもしれませんから。
あ、トイレは一階奥です。」
案内を終えると、カリスはカウンターの端に腰を掛け、
穏やかに笑った。
カリス:「これで準備は整いました。
あとは――お客様を迎えるだけです。」
三郎は深呼吸をひとつして、店内を見渡した。
木の温もり。
窓から差し込む光。
香るハーブと、薪の音。
まるで、世界が呼吸しているようだった。
「……やるしかないな。」
カリス:「その意気です。」
にこりと笑うと、カリスの姿は光に溶けて消えた。
残されたのは、火の音と、風の音。
三郎は静かにカウンターの上を撫でた。
木の表面はあたたかく、どこか懐かしかった。
「……ただいま。」
思わず漏れたその言葉を、誰も聞いてはいない。
けれど、店の奥のランプが、ふっと明るく灯った。
それはまるで――
“おかえり”と応えるように、やさしく揺れていた。
カリス:「ふふ、どうです? 思ったとおり三郎さんに似合っているでしょう。このログハウス、実はわたくしがかなりこだわって用意したのですよ。カウンターもボックス席も、ちゃんと座り心地を試してから並べたんです。ええ、少し削りすぎた角もありますけど……結果的に安全仕様ですから問題なしです。気に入っていただけたなら、わたくしも大満足です。さて、これで準備は整いました。次にこの扉を開けるのはどんな方でしょうね。三郎さん、しっかり迎えてくださいませ。そして、皆さまもどうぞ楽しみにしていてくださいね。」




