第10話 --無名の青年--
和ら木の昼下がり。
高窓から差し込む光が床を斜めに照らし、静かな午後を演出していた。
カウンターを拭いていた三郎は、ふと窓から空を見上げる。
「……今日はやけにのんびりしてるな。」
ふわりと光が舞い、カリスが現れる。
今日はいつもよりにこにこしている。
カリス:「三郎さん、ちょうどいい方をお連れしました。」
三郎はふっと笑みを浮かべる。
「そうですか。じゃあお茶を淹れましょう。」
ちりん、とドアベルが鳴く。
入ってきたのは、ゆっくりとした足取りの青年だった。
少し寝ぐせのついた髪、肩からかけた大きなかばんが妙にくたびれている。
どこか眠そうな顔で、でも目は人懐っこい。
青年:「……こんにちは。」
「いらっしゃい。どうぞ、こちらに。」
窓際の明るい席を示すと、青年は素直に座った。
体をあずけるようにしてため息をつく。
三郎は微笑みながらポットを手に取る。
「まずはお茶にしましょう。」
青年はこくんとうなずく。
湯気が立ちのぼり、和ら木ティーの甘い香りが広がると、
彼の表情がほんの少し柔らかくなった。
青年:「……いい匂い。」
「一口どうぞ。」
青年はカップを両手で持ち、ゆっくりと口をつけた。
喉を通る温かさに、肩から力が抜ける。
青年:「……ふう。」
少し黙ったあと、ぽつりとつぶやく。
青年:「今日も、仕事に行けませんでした。」
三郎は急がず、青年の顔を見た。
「行けなかったんですね。」
青年:「はい。朝起きたら、なんかもう、だるくて……“今日はもういいか”って。」
三郎はポットを置き、ゆっくりと腰をおろした。
「それ、今日だけじゃないんですか?」
青年は苦笑いする。
青年:「ええ、たまにじゃなくて、よくあるんです。一度休むと、次の日も休んじゃって。」
「行かなくちゃ、と思う気持ちはあるんですね。」
青年は少し黙って、カップの中を見つめた。
青年:「あります。でも仕事だと思うと…。でもね、ちゃんとやりたいことはあるんです。それなのに……それも腰が重くて。」
三郎:「やりたいこと?」
青年:「……旅に出て、絵を描きたいんです。」
三郎はうれしそうに笑った。
「いいですね。」
青年:「でも、出かける準備が面倒で……靴はくのも、かばんを用意するのも、どんどん後回しにしちゃう。…あ、そういえば洗濯も溜まってるし、昼寝して起きたらもう夕方で……気づいたら次の日なんです。」
三郎は吹き出しそうになるのをこらえて、笑みを浮かべた。
「なるほど。そうやって毎日が過ぎていくんですね。」
青年:「……ですねぇ。まあ、また明日があるしって。」
三郎はしばし黙って青年を見つめ、
カップを拭きながら、ほんのり笑った。
(……きっと、普段からこんな感じなんだろうな。
でも、やりたいことがあるだけでも十分すごいことだ。)
「じゃあ、まずはここから一歩だけ出て絵を描いてみませんか。そのカバンの中は画材なんでしょ?」
青年はきょとんとしたあと、少し笑った。
青年:「え、まあ。……それくらいなら、できるかも。」
青年はスケッチ用の紙と鉛筆を取り出した。
「じゃあ、行ってらっしゃい。」
青年はおそるおそる立ち上がり、外に出ていった。
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しばらくして戻ってきたとき、彼の頬は少し赤く、手に持った紙には、まだ荒いがそれでいて繊細な線で、日に照らされた和ら木の外観と空が描かれている。
青年:「……描いてたら、なんか、楽しくなっちゃって。」
「おお、それはいいことです。」
青年は照れたように笑った。
青年:「次は、街まで行って描いてみようかな。」
三郎はうれしそうに頷き、少し柔らかい声で言った。
「そうやって、やりたいことからやって、そのためにやらなきゃいけないことも、少しずつできるようになれば……、それで十分なんですよ。」
青年は目を瞬かせて、ゆっくり笑った。
青年:「……なんか、ちょっと気が楽になりました。」
三郎:「それなら良かった。また描いたら是非見せに来てください。楽しみに待ってますので!」
青年は頷き、カップを置くとゆっくり立ち上がった。
そのまま扉を開け、のんびりと歩き出す。
外の光に包まれながら、どこか楽しそうに鼻歌を歌っていた。
三郎はその背中を見送り、ふっと微笑んだ。
「いやぁ、あの人の空気に飲まれちゃたなぁ。……いつか有名になる画家の名前、次会ったらちゃんと聞かないとなぁ。」
カリスは満面の笑みで頷いた。
カリス:「きっと有名な名前になりますよ。」
ふわりと光が舞い、カリスの手元に小さな帳簿が現れる。
カリス:「それと、今回の甘甘ポイントです。
“やりたいことから始める勇気を与えた”ということで……んー+40ポイント!」
三郎は少し驚いたように笑った。
「おお、結構もらえましたね。」
カリス:「はい、次に会ったときはきっと、もっと大きなポイントになりますよ。」
三郎は肩の力を抜いて、笑顔でうなずいた。
「じゃあ楽しみに待つとします。」
2人が振り返ると和ら木は、キャンバスに描かれていたように、穏やかな午後の光が満ちていた。




