第9話 --壁--
和ら木の昼下がり。
窓から差し込む光がカウンターにやわらかく伸びている。
三郎はふきんを握ったまま、動きを止めた。
「……甘くするって、どこまでが正しいんだろうな。」
頭の中に、最近の相談が浮かぶ。
疲れ切っていたライラ、必死で家事を回そうとしていた姿。
「優しくする」ことで救われたけれど、あれは本当に正しかったのか……。
ふわりと光が舞い、カリスが現れた。
にこやかな笑みを浮かべて言う。
カリス:「三郎さん、今日お連れしたい方がいます。」
「え?」
ちりん、とドアベルが鳴る。
入ってきたのは長身の男だった。
仕立てのいい上着に、真っすぐな背筋。
無駄のない所作で席に腰を下ろすと、
その場の空気がぴんと張る。
カリス:「こちら、街で厳しいと評判の商会主、ベルトランさんです。」
ベルトランは軽く会釈し、静かな声でつぶやいた。
ベルトラン:「……ここが“人に甘い店”か。」
三郎は少し苦笑してポットを取る。
「そう言われると……なんだか試されてる気がしますね。」
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カップに湯気が立つ。
ベルトランは香りを嗅ぎ、ゆっくり口をつけた。
しばし沈黙が流れ、静かにカップを置く。
ベルトラン:「悪くない。」
短く言ったその声に、妙な重みがあった。
三郎は喉を鳴らして切り出す。
「……商会では、人が次々と辞めていると聞きました。厳しすぎるんじゃないですか?」
ベルトランはすぐには答えなかった。
窓の外を一瞥し、少し間を置いてから口を開く。
ベルトラン:「厳しいのは事実だ。だが人を潰すためではない。」
短い言葉が、深く沈む石のように胸に落ちる。
「……潰すためではない?」
ベルトラン:「越えることが出来れば誇りになる壁しか作らない。」
三郎は眉をひそめる。
「でも……去った人は?」
ベルトラン:「去るなら去ればいい。」
また少し沈黙。
三郎は言葉を探して口を開く。
「……そんなに、割り切れるものですか?」
ベルトランは静かに息を吐いた。
ベルトラン:「割り切るんじゃない。未来で潰れるより、今去ったほうがいい。残った者のためにも。」
三郎は思わず黙り込む。
淡々とした声なのに、重く響いた。
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ベルトランはふと視線を落とした。
ベルトラン:「俺も若いころ、何度も潰れた。
越えられない壁を作られ、心が折れたこともある。あれではまるで罠だ。」
三郎は顔を上げる。
「……罠?」
ベルトラン:「人が折れる高さの壁は、壁じゃなく罠だ。俺は罠は作らない。登れば強くなる壁だけ作る。登れなかった者は、別の道を行けばいい。」
しばらく沈黙。
三郎は、ゆっくりカップを置いた。
「……僕、今まで“人に甘くする”って、
相手を楽にしてあげることだと思ってました。」
ベルトランは黙って見つめている。
三郎は自分の言葉を探す。
「でも……それって“甘やかす”と同じだったのかもしれません。……甘やかすって、壁を壊してしまうことですよね。」
ベルトランの口元がわずかに緩む。
ベルトラン:「続けろ。」
三郎は息を吸い、言葉をつないだ。
「……“甘くする”は、登れる高さにしておくこと。
登れば強くなるし、誇りになる。」
ベルトランはゆっくりうなずく。
ベルトラン:「そうだ。甘やかすのは簡単だが、甘くするには覚悟がいる。だから本物の甘さは尊い。
俺は、登った者には必ず褒美を与える。乗り越えた者にしか見えない景色を見せたいからな。」
三郎は背筋を伸ばし、深く息を吐く。
「……僕も、壁を作れる人になりたいです。
ちゃんと登れる高さで。」
ベルトランは少しほほ笑んだようにし立ち上がり、代金を置いた。
ベルトラン:「登ったときに見える景色はいいぞ。
次に会ったとき、聞かせてくれ。」
三郎は思わず深く頭を下げた。
「はい。」
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ベルトランが去ると、カリスがひょこっと顔を出す。
カリス:「あら、今回はまるで三郎さんが相談者でしたね。」
三郎はカウンターに両手をつき、ゆっくりと息を吐く。
「……はい、師匠ができました。」
カリスは満面の笑み。
カリス:「では弟子入り記念に、特別な壁をご用意しました!」
「え、ちょっと待って、何をしやがっ…――」
外を見ると、和ら木の前に巨大な土壁が小山のように出来ていた。近所の子どもたちがよじ登って大騒ぎしている。
「やめて!! お客さん入れないじゃないですか!!」
カリス:「皆さん元気そうですし、ちょうどいい壁では?」
「そういう意味じゃなーーい!!」




