プロローグ
草の匂いが鼻をくすぐった。
耳に届くのは蛍光灯の唸りではなく、風の音。
遠くで鳥が鳴き、川のせせらぎがかすかに響く。
「……夢か?」
さっきまで深夜のオフィスにいたはずだ。
机の上には積み上がった資料、止まらない電話、冷めきったコーヒー。
最後の記憶は、プリンターの紙詰まりと、机に突っ伏した自分の腕。
頬をつねる。痛い。
夢じゃないと気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
???:「ようこそ。ずいぶんお疲れでしたね。」
振り返ると、光をまとう女性が立っていた。
その姿は幻想的なのに、どこか人間らしい温もりを感じる。
「あなたは……誰ですか?」
???:「私はカリス。こちらの世界を見守る者です。」
「……こちらの…世界……? えっ、じゃあ、ここは――あの世?」
カリス:「あっいえいえ、違います!
あなたがいた場所とは別の世界。異世界ってことです!前の世界で、あなたは死にかけてたので、連れてきたのです。」
喉が詰まり、言葉が出なかった。
脳裏に、散らかったデスク、同僚の顔、やり残した仕事がよみがえる。
「……死にかけ…、元の世界には戻れないんですか?」
カリス:「実はなんと!戻れます!ただし、このまま戻ってもなにも意味はありません、条件があります。」
喉の詰まりが、ほんの少しだけ緩んだが、条件と言われ今度は胸がザワついた。
カリス:「三郎さん、あなたはとても真面目でした。頼まれれば断らず、人のミスも背負い、成果が出なければ自分を責め、周囲にも厳しくなる。……その繰り返しが、あなたを追い詰めてしまったのです。」
痛いところを突かれ、苦笑が漏れる。
カリス:「ですから、この世界では“甘くする”を学んでください。自分に甘く、他人にもっと甘く。それができたとき、あなたはきっと変われます。」
彼女が手をかざすと、草原の先に丸太造りの小さな店が現れた。
薪の香りが漂い、窓から暖かな灯りがこぼれている。
カリス:「“甘宿り 和ら木”。ここがあなたの拠点です。これから悩みを抱えた人を日々ここにお連れします。あなたは彼らを迎え入れ、話を聞き、心を軽くしてあげてください。」
「……そんな……私にできるでしょうか。」
カリス:「できます。三郎さんには、その誠実さがありますから。」
カリスは腰の革袋から、小さな木製の鍵を取り出した。
それは古びているのに、なぜか温かみがあった。
カリス:「この店の鍵です。これで扉を開け、灯りをともしてください。そして、ここでの行いはすべて私が見届けます。人や自分の心を救えぱ加点、厳しければ減点。そうして加点された『甘甘ポイント』が 1000 点に達したとき、元の世界に戻ることも出来ます。」
木の鍵の重みが手のひらに沈む。
単なる道具ではない、人生をやり直すための合図だった。
深呼吸をひとつし、決意をした。
やるしかない。帰るために。
いや、今度こそ、自分を大切にして生きるために。
カリス:「さあ、三郎さん。ここからが始まりです。」
私は鍵を強く握りしめ、ログハウスへと歩き出した。
窓の灯りが、まるで「おかえり」と言っているように見えた。