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プロローグ


草の匂いが鼻をくすぐった。


耳に届くのは、蛍光灯の唸りでも、キーボードの打鍵音でもない。

風の音。

遠くで鳥が鳴き、川のせせらぎがかすかに響く。


――静かだ。

あまりにも静かすぎて、息をすることさえ忘れそうだった。


「……夢か?」


確かに、さっきまで俺は深夜のオフィスにいた。

机の上には積み上がった資料。

止まない電話。

冷めきったコーヒー。

同僚の代わりに片づけた残業。

止まらない、誰かのための仕事。


最後の記憶は――プリンターの紙詰まり。

あの耳障りなエラー音。

そして机に突っ伏した、自分の腕。


頬をつねる。

……痛い。

痛みが現実を告げた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「ここは……どこだ?」


視界の先、草原の向こうで風が光を巻き上げた。

そこに立つひとりの女性。

白い衣をまとい、金の瞳が穏やかにこちらを見ている。


???:「ようこそ。ずいぶんお疲れでしたね。」


その声は、懐かしい旋律のように胸へ届いた。


「あなたは……誰ですか?」


???:「私はカリス。こちらの世界を見守る者です。」


「こちらの……世界?」


???――カリスは、ほんの少し首を傾げ、笑った。


カリス:「そう。あなたがいた場所とは“別の世界”です。」


言葉の意味を飲み込めずにいる俺を見て、

彼女は続けた。


カリス:「前の世界で、あなたは――死にかけていました。」


その瞬間、胸の奥に張りついた時間が軋んだ。

オフィスの光景がフラッシュバックする。

散らかったデスク、残業を押しつける上司、

疲れ切った同僚たちの無表情。


あの場所では、誰もが「大丈夫です」と言いながら、

少しずつ壊れていった。


「……じゃあ、俺は……死んだんですか?」


カリス:「いえ、まだです。

あなたは、生き方を失っただけ。

だから、こちらに来てもらいました。」


彼女の手が風をなぞる。

すると、草原の先に小さな木の建物が現れた。

丸太造りのログハウス。

煙突から、白い煙がゆるやかに昇っている。


カリス:「“甘宿り(あまやどり)和ら木(やわらぎ)”。

ここが、あなたの拠点になります。」


ログハウスの窓から、暖かな灯りがこぼれていた。

まるで「おかえり」と言われたようで、胸が締めつけられる。


カリス:「あなたには、ここで学んでほしいことがあります。

――“甘く生きる”ことです。」


「……甘く?」


カリスは微笑んだ。


カリス:「そう。

自分に甘く、他人にもっと甘く。

真面目すぎるあなたに必要なのは、“休む勇気”なんです。」


そう言って、彼女は腰の袋から小さな木の鍵を取り出した。

古びているのに、不思議と温かい。


カリス:「この店の鍵です。

この扉を開ければ、あなたは“誰かの話を聴く人”になります。

悩みを抱えた人を迎え入れ、心をほぐす。

その行いが報われれば“甘甘ポイント”として積み重なります。

――1000点に達したとき、あなたは元の世界に戻ることができます。」


鍵を受け取った瞬間、指先に微かな鼓動を感じた。

まるで生きているように、温もりを返してくる。


「……俺に、そんなことができるでしょうか。」


カリス:「できますよ。

あなたには、人の痛みに気づける優しさがありますから。」


風がふっと止み、世界が静まり返る。

木の鍵を見つめながら、俺はゆっくりと息を吐いた。


――帰るために。

――いや、今度こそ“生きる”ために。


「……やってみます。」


カリス:「ふふっ、それでこそ三郎さん。

では、鍵をどうぞ。

今日から“和ら木”の灯りをともしてください。」


俺は鍵を強く握りしめ、草原を歩き出した。

扉の向こうには、まだ見ぬ誰かの物語が待っている。


その灯りは、確かに――

もう一度、生き直すための光に見えた。



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