狛犬
あるところに、嘘つきでわがままな女がいた。彼女は幼少期から嘘をつくのが癖で、自分の都合のいいように言葉を操り、周囲を振り回してきた。とうの昔に若さなど失っていたが、友人も恋人も家族もおらず孤独な生活を送っていた。それでも女は自分の魅力に絶対の自信を持っていた。自分はまだ若く、魅力的であると信じていた。
ある日、彼女は恋をした。近所のコンビニで新しく働きはじめた青年だ。整った顔立ちと静かな物腰は、女の心を掴んだ。彼女は毎日のように店に通い、わざとらしく笑顔を振りまき、話しかけた。だが、男の反応は冷ややかで、時には迷惑そうな視線を返すだけだった。
それでも女は気づかず、男は自分に惹かれ始めているはずだとすら思いこんでいた。一か月が過ぎ、彼女は店で待ち伏せをするなど、ますます男に対し執拗になっていった。
ある日、女が男がなぜ行動に出ないのか、考えながら歩いていると、目の前に見慣れない石段が現れた。苔むした鳥居の奥に、小さな神社が佇んでいる。
こんな場所、近所にあっただろうか?
不思議に思いながらも、彼女は吸い寄せられるように石段を登った。神社の境内は静まり返り、薄暗い空気が漂っていた。美佐子は拝殿の前に立ち、目を閉じて祈った。「お願いです。あの青年が勇気を出して、私に行動しますように」
その瞬間、境内の方から寒々しい風が吹き、木々が轟と音を立てた。そしてなんと右側の狛犬が、ぎろりと彼女を見据え、低い声で語りかけた。
「願いを叶えるには、約束が必要だぞ。」
女は息を呑んだ。狛犬が喋るはずがない。だが、恐怖よりも願いへの執着が勝った。「もう嘘はつきません。約束します。」彼女は震える声で答えた。狛犬は一瞬、にやりと笑ったように見えたが、次の瞬間、ただの石像に戻っていた。
女は何か禍々しいものを感じ、逃げ去るように石段を下りて行った。どこをどう歩いたのか、記憶は曖昧だったが、気づけば自宅の玄関に立っていた。翌日、いつものようにコンビニを訪れると、レシートと共に男が紙切れを渡してきた。男は小さく囁きかけた。「あとで、連絡をください」
やっと、勇気を出してくれたのか。彼女の胸は高鳴った。帰宅後、紙きれに書いてあった電話番号に電話をかけると、電話越しに男はこう言った。
「実は…好きになりました。付き合ってください。」
女は久方ぶりの恋に浮かれた。夢のようだった。男は彼女のわがままにも優しく応じ、穏やかな日々が続いた。だが、幸せは長くは続かなかった。ある週末、二人で初めての温泉旅行に出かけた夜、女は急に落ち着かない気分になった。男を宿に残し、「ちょっと散歩」と言い残して街のバーへ向かった。
そこで出会った見知らぬ男と酒を酌み交わし、誘われるまま一夜の冒険に身を任せた。夜半過ぎに、宿に戻ると、既に布団に入っていた男が心配そうに尋ねた。
「どこ行ってたの?」
「別に。ちょっと迷っただけ」
女は不機嫌そうに答えた。嘘は滑らかに口をついて出た。彼女は自分の舌がわずかに重いことに気づいたが、気にも留めなかった。
翌朝、バスルームで歯を磨こうとしたとき、女は異変に気づいた。
鏡に映る自分の口。舌を動かすと、もう一つ、別の舌が蠢いている。
「なにこれ」
悲鳴を上げようとしたが、舌の異変のせいか声も出ない。
そして、女は口の中に、これまで感じたこともないような激痛を感じた。鏡を見ると、二枚の舌が大きまるで小さな竜のようににょろにょろと踊っている。二枚の舌が大きく二手に分かれ、大量の血が溢れ出した。裂けていくのは舌から顎へ、鼻から額へ。
べりべりべりべり。
べりべりべりべり。
皮膚が、肉が、内臓が、まるで紙のように二つに分かれていく。彼女はあおむけに倒れ込んだ。
しばらくしてバスルームの異変に気が付いたのか、男はバスルームの中を覗きこんだ。そこには血の海の中に、真っ二つに裂けた、ぴくりともしない身体があった。彼女の目は虚ろに男を見上げていた。
この恐ろしい状況にも男は動じる様子はなかった。ただ男は女に、無言で冷たい眼差しを向けるだけだ。そして男の姿は徐々に歪み、毛むくじゃらの四足の獣へと変わっていった。そしてそのまま、スッと姿を消した。