片想いの彼と、初めてのごはん⑧
彼を見送ったあと
私はお手洗いに向かった。
お店で行けばいいものを
お手洗いに行くのが
なんだか恥ずかしかった。
子どもみたいだ。
鏡の前で
“いーっ”として
歯に何も挟まっていないことを
確認してホッとする。
同時に
よれたファンデから覗く
小鼻の毛穴に
ガッカリもした。
そうやって
泣いてしまわないように
必死で気を紛らわそうと
いろいろしてみるけれど
ひとりになって
さっきまでのすべてが
どっと押し寄せてくる。
“彼は宇宙だ”
その言葉が
私の中を
埋め尽くした。
何度もこだまするように
こころの中に
からだの隅々に
響き渡る。
まだダメ。
今はまだ泣いちゃダメ。
涙がこぼれてしまわないように
私は背筋を伸ばして
早歩きでホームに向かった。
少ししてから
最寄りの駅までの
直通電車がやってきて
私はほっとした。
ゆったりとしたシートに
腰をかけると
ピンと伸ばした背が
緩んだ拍子に
また涙が込み上げてくる。
ダメダメ!
もう少しだけ待って!!
私は、わたしを、なだめたけれど。
これ以上は
待ってはくれなかった。
私の目から
ぽろぽろと
涙がこぼれ始める。
ぽろぽろとこぼれたあと
決壊したように
溢れ出てきて
頬を伝っていった。
涙がとめどなく
頬を流れてゆく間
私はピクリとも
動かなかった。
バッグから
ハンカチを取り出そうと思っても
身体が固まってしまって
動かない。
ほんの少しでも
動いてしまったら
周りに泣いていることが
知られてしまいそうで
もっと涙が
溢れてきそうで
ただ時が過ぎるのを
うつむいて
待つしかなかった。
“ズズーッ”
鼻をすすり上げる音が
車内に響く。
厳密に言うと
響いたように
私には感じられた。
本当のところ
誰も気に留めてなど
いなかったのかもしれない。
顔はきっと
ぐしゃぐしゃだ。
もう限界だった。
ハンカチを
取り出せない代わりに
私は手で
顎を拭った。
鼻水混じりのその水は
ぬるっとしていて
すぐにでも
拭きたかったのに
ぬるぬるした
その手のままで
何度も何度も
私は拭った。
彼は宇宙だ。
私は宇宙に
恋をしてしまったんだ。
宇宙だから
あんなに広くて大きいんだ。
宇宙だから
すべてを愛しているんだ。
だけど
どうしたらいい?
すべてを愛しているのが
宇宙なのに
たったひとつの存在だけを
愛することなんて
ありえるのだろうか?
宇宙を独り占めなんて
できるのだろうか?
いや。
独り占めなんて
できやしない。
だって宇宙だもの。
すべてをただ
絶え間なく
愛しているのが
宇宙だもの。
そんな彼を
私は愛したんだ。
私の中で
たくさんのわたしたちが
押し問答のように
あーだこーだと
話しつづける中で
私は呆然と
立ち尽くしていた。
途方もない愛を前にして
かつてないほどの安心と
決して叶わない想いに
打ちひしがれていた。
涙に身を委ねることしか
このときの私には
できなかった。
駅に着いて
足早に階段を駆け上った。
たくさんの人が
ホームへ向かう中をぬぐって
私はマンションの方へ
急いで向かう。
ビルの角を曲がって
誰もいない一本道になった途端
私は声を出して泣いた。
でも小さく。
顔をしわくちゃにして。
あぁ、もぅ家に着く。
泣くのをやめなきゃ。
普通に戻らなきゃ。
そうだ。
私には家族がいる。
私を深く愛してくれる夫と
この家庭に包まれる息子と
私はこの家族の
妻で。母で。
どうしたらいい?
どうすればいいの?
絶えることのない
彼への愛を
どうしたらいいのだろう…
私の中には
あらゆる方向から
矢が飛び交うように
どうしようもない想いが
いっそう溢れていた。
玄関の前で
息を整えて
胸を張った。
ただいま〜
お母さん、帰ったよー!
私は笑顔で
リビングへ向かった。
“ちゃんと”妻と母を
やり終えてから
私は彼に
お礼のDMを送った。
今日はありがとう、と。
あなたとお話ができて嬉しかった、と。
あなたはそのままでステキだ、と。
おやすみなさい、と。
彼からの返事には
今日のごはんのお礼が
丁寧に書いてあった。
それと。
「久しぶりにお話出来て
僕も嬉しかったです。
また色々お話聞かせてください。
おやすみなさい。
ありがとうございました。」
と。
この恋のゆくえは
きっと誰にもわからない。
私がひっそりと
心に描くカタチには
ならないかもしれない。
何かが始まっているのか
まだ何も始まっていないのかすら
私にはわからない。
だけどここには
ふたつの真実がある。
私が彼を
愛しているということ。
彼が私に
宇宙のような愛を
教えてくれたということ。
私は彼を
わたしのすべてで
愛しています。
心から。
いま。
わたしの中には
青く澄んだ
柔らかな愛が
どこまでも広がっている。
Fin.