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一太子様は乗り込むらしい

 「あれか」


 夕闇に沈み込むように、「黒涙屋敷」は聳え立っていた。

 大仰な屋敷の立ち並ぶ一角だ。同じ規模か、もっと大きな屋敷も数あるが、どこか賊の籠る山砦のように見えてしまう。

 それはこの屋敷の謂れと主人のことを、しろがとことん嫌悪しているせいか。

 もしくは入り口からして、目付きと人相の悪い男たちがたむろっているからか。

 両方だ、と考えるのが、最も真実に近いだろう。

 

 「そうっす」


 泣きながら、助けを乞うてからすでに三日。しろはその間、ずっと星龍宮に匿われていた。

 ないとは思うが襲撃されては大変であるからのお、とウー老師が提言し、トールが即座に頷く。王宮に住むのは流石に恐れ多いという、至極まっとうなしろの意見は無視され、あっという間にそう言う事になってしまった。


 トールはと言えば、淡々とその日の仕事をこなし、買いだめしておいた日持ちする菓子を齧り、時折疲れ果ててベンケを吸っては嫌がられ、イマジナリー弟と会話していた。それらは全てごく日常的な光景らしく、誰も気にも留めない。


 そして今日。本当に唐突に「行くぞ」と声を掛けられて、しろは忌々しいこの屋敷を眺めている。


 三日間、どうするかとかこうするかとか、そういう話は一切なかった。

 ただ、時折、あうあうと口を開閉しては黙って立ち去るという動きをしていたので、何か話しかけたいことはあったらしい。

 しろとしても、泣きわめいて助けを求めるという最高に恥ずかしい行為をしてしまったので、どうにも顔を合わせにくく、何を話したいのか聞き出すまでいかなかった。


 「…本当に、アンタだけで行くんすか?いや、もちろん俺はついて行くっすけど…」

 「マルトやラーシュ達には違う仕事を頼んでしまったのでな」


 横に立つトールは、若者向けではない服屋で売られている、伝統的なと言えば聞こえの良い、野暮ったい胡服デールに羊革のマントという出で立ちだ。

 それにいつもの帽子を被り、薄手の首巻で口許を隠している。武装はしておらず、肩掛けの鞄をひっかけているだけだ。とてもではないが、一太子の出陣には見えない。


 つまり、一太子と言う身分を明かして「話し合い」するつもりはないのだろう。しろも、その方が良いと思う。あんなクソ野郎に一太子が交渉するなど、あってはならない。

 問答無用で切り捨てるなら問題ないが、あの人としろの身の安全と引き換えに、トールが何かしらの条件を飲むことにでもなったら…そう思うだけで、申し訳なくて眩暈がする。


 「時に、しろ。寒くはないか?上着も羽織らず…」

 

 季節は夏の入り口とは言え、大都の夜は冷え込む。もう少し季節が進めば上着やマントなしに過ごせるようになるのだが、今はまだ肌寒い。


 「まあ…ちょっと。でも、問題ねぇっす」


 星龍宮の中は暖かいし、屋敷に行くときは動きを阻害する上着の類は着て行かない。だから、そのまま出てきたのだが…今日は天気もあまりよくなかったし、風が強いせいで、特に寒かった。

 

 「なら、これを羽織っておけ」

 「アンタが寒くなるじゃねぇすか」

 「大人と言うものは、子供を凍えさせたりせんものだ」

 

 ばさりとマントを掛けられ、しろは黙って体温の残るそれを羽織った。体温と共にのこる匂いは、普通に成人男性のそれである。あと、やや脂と獣の匂い。このマントを羽織って家畜の世話もしているからだろう。


 「…加齢臭」

 「な、何か言ったか!?」

 「いや、この匂い抽出して売ったら、売れるんだろうなって思っただけっす」


 一太子の匂いと言って小瓶に詰めて売れば、金貨を積み上げる輩も居そうだ。それとも、そんな輩は一太子からは花の香りがすると信じているから、贋物だと憤慨するのだろうか。


 「…売ってほしくないな。うむ」

 「でも、弟さんに匂いがする小瓶とかあったら?」

 「買い占めるが?」


 暖かいマントと、とりとめのない馬鹿な話に、竦みかけていた脚も心も力を取り戻していく。

 いや、何より…横にトールがいると言う、ただそれだけで。

 やけに安心している自分にしろは驚いていた。


 だから目付きと人相の悪い連中がこちらを認めて寄ってきても、姿を隠せと警戒心が叫ぶこともなく。黙ってその接近を観察する余裕さえあった。

 

 「この屋敷の主人に、話がある」

 「あ?」

 「通せ。そ奴も待っている」


 いきなり一戦交える事になるかと、しろは軽く膝を曲げ、胡服のゆったりとした袖の中で短刀を握りしめた。

 しかし、男たちは呆けたように互いの顔を見合わせ、一人がおずおずと屋敷の中に駆けだしていった。


 「うむ。次点だな。だが、まあ良いか」

 「…なんか魔導を使ったんすか?」

 「いいや。言っただろう。話し合いをすればわかる、と」


 ただの通行人にすら吠え掛かり、噛みつく躾けのなっていない犬のような連中が、なんだかトールの顔色を窺って、卑屈な笑みされ浮かべて遠巻きにしている。

 それほどまでの急激な変化は、魔導で精神を弄ったようにしか見えない。

 だが、トールの背後から横に出て、その顔を僅かに仰ぎ見た時、なんとなく理解できた。


 ああ、このヒトはやはり、生まれながらの王なのだ。


 静かに男たちを見据える眼差しも、纏う気配も。

 野暮ったい胡服を着ていようが、関係ない。

 

 支配するもの。

 仰がれ傅かれ、跪かれる。それが「自然」であるもの。


 どんな野良犬だろうと、いや、自身の力のみで生きる野良犬だからこそ、龍に噛みつけば死ぬことくらい、わかっている。

 人も同じだ。この人相の悪い連中は、誰かの庇護のもとで生きているわけではない。飼われてはいるが、それは最低限の衣食住が保証される程度で、何かあればさっさと切り捨てられる。

 だからこそ、逆らってはいけない相手を見誤ったりはしない。


 屋敷に入って行った男が、戻ってきた。もう少し身形の良い男が一緒だ。

 身形の良い方はトールよりも、しろを目に止めた。

 少し視線を彷徨わせたところを見ると、しろが一緒なら連れて来いとか、そう言われたのかもしれない。


 「来い。旦那様がお会いになる」

 「うむ」


 男の声に、トールは鷹揚に返答した。その声の低さに、一瞬男が動揺する。

 顔を曝け出しているわけではないが、完全に隠れてもいない。一瞬美女か美少女かと判断に悩むトールの顔に、良く通るが低い声はあまりにも似合っていない。

 

 驚きが収まると、呼びに来た男もすぐにトールに対し、媚びへつらうような目付きになった。

 最初の居丈高な態度は何処にもなく、背中丸め首を竦めて、ちらちらとトールを伺っている。


 来たくはなかったが、何度も足を運んだ「黒涙屋敷」だ。しかし、まっとうに正面から入ったことはない。中がどうなっているのか、しろも知らない。何が待ち構えていようと対応できるように、小さく呼吸を整える。

 門扉の奥にはごてごてとした装飾品と、明らかに護衛の用心棒とわかる武装した男たちが待ち構えていた。

 トールを見てもニヤニヤとした笑みを消さない辺り、あの圧倒的な王者の気配は消しているのだろう。出したり消したりできるらしい。器用なものだ。


 ニヤニヤ笑う用心棒たちに囲まれたトールを、屋敷まで連れてきた男は、とても心配そうな顔で見送っていた。

 もうあのヒト、駄目っすね…としろは少し哀れに思う。

 トールとあの男が主従の関係になることはないだろう。となると、一生、今日この日に刻まれた記憶と共に生きて行かなければならない。

 鮮烈に刻まれた記憶は色褪せない。むしろ、時と共に美化されるのだから、虚しさも時と共に積もる。それはおそらく、とても辛く苦しい。


 半ば同情にも似た視線は、用心棒たちによって遮られた。考えてみれば、あの男とて散々人々の苦痛や涙を金に換えてきたのだろうし、今後虚しさに苛まれようと自業自得だ。気にすることではない。


 それよりも、ここからは間違いなく敵地だ。

 中へと踏み込んでしまえば、撤退することは難しい。気を引き締めねば。


 あの男がいつもいる部屋は三階の奥。いくつかある階段のうち、最も玄関から遠い階段を使わなくては辿り着けない

 しかし、用心棒たちは、わざと上がる必要のない階段を上がったり、入る必要のない部屋に連れて行ったりと、なかなか先へは進まなかった。


 意図はわかっている。


 高そうな調度品がある廊下や、複雑な模様が織り込まれた絨毯の敷かれた部屋に来るたび、「壊したら、一生かかっても弁償できねぇぞ」とか「この絨毯、いくらすると思う?まあ、お前らには一生縁のない金だよ!」などと嘲っては笑っているのを見れば、嫌でもわかる。


 あのクソ野郎は、しろが別に雇い主を見つけたことまでは気付いていたはず。その雇い主に自分の立場を見せつけたくて仕方がないのだ。 

 しろの肌艶や身形が良くなったと言っても、金ぴかに飾り立てられているわけではない。少しばかり余裕のあるお人好しに取り入ったくらいに思っているのだろう。

 

 (まあ、まさか一太子と縁ができるなんて…予想もつかねぇっすよね)


 どれだけ高価な品物を見せつけても、トールからすれば「趣味が悪い」以外の感想は出てこない。

 あの祖父から譲り受けたという家具の数々、超一流の職人が七代大王(ハーン)に献上したものであり、買おうとしても値段がつけられないほどの逸品なのだ。


 つまりは完全な無駄足である。

 むしろ、虚しい。虚しすぎる行為だ。


 「…そういや、どうやって解決する気なんすか?」

 

 ダラダラと続く自慢に紛れて、しろはずっと抱いてきた疑問を口にした。もちろん、トールが身分を明かして命じれば、全て解決する。しかし、そのつもりはないように思えた。


 「まず、見受け金がいくらなのか確認する。支払っても問題ないような金額であれば、支払ってしまえばいい」

 「金、払うんすか」

 「その後、違法な人身売買であると証言が取れれば、罰する事も出来る。まあ、だからこそ…簡単には売らぬだろうな」

 「その時は?」

 「その時考える」


 そう言ってはいるが、おそらくトールにはすでにどう動くか腹案があるのだろう。満月色の双眸には、開き直りではなく理知の光が宿っている。

 

 「そのだな…しろ」

 「なんすか」

 「お前のその…。ヤクモ様なのだが…」


 モソモソと言いかけた声は、用心棒たちの「連れてまいりました!」という濁声にかき消された。

 いつもの、一際ごてごてと飾り付けられた扉。その扉が、内側からゆっくりと開いていく。


 「…後で、話す」

 「うっす」


 扉を開けたのは、また三日前とは違う女だった。

 幽鬼でも、もう少し明るい顔をしているだろう…と思うような表情だけは、どの女も共通しているが。


 トールは女をしばし見つめ、それから小さく息を吐いた。

 まさか、裸同然の女を見て緊張しているのか…と訝しんだが、浮かんでいるのは曖昧な笑みではなく、悲痛な表情だ。


 「行こう」


 その顔のまま、トールは女の後を追って室内に足を踏み出す。

 あの甘ったるい臭いが部屋の奥からあふれ出て、鼻を打った。

 

 「どういうことか、言い訳くらいは聞くぜえ?」

 

 男の声に、不満げな様子や怒りはない。むしろ、愉悦が黒い泡のように滲み出ている。

 ニタニタと不愉快な笑みで顔を飾り、男は豪奢な座椅子から立ち上がった。


 「いっさい、お前からの仕事はもう受けぬ。そういう事だ」

 「あー…そのお坊ちゃんが、お前の新しい飼い主か。聞いたぜ?最近羽振りが良いんだってなあ?お優しいご主人さまに拾ってもらって、良かったじゃねぇか?うん?」

 

 お坊ちゃんか、としろは内心に唾を吐いた。

 このクソ野郎が何歳かは知らないが、見た目からしておそらくまだ二十代だ。とすると、トールの方が年上の可能性もある。

 しろも初めてトールの年齢を自己申告以外で聞いて、本当に二十八歳と知った時には「騙されたっすわ!」と騒いだが。


 「でもよお?お友達の事はもうどうでも良いのか?冷たいねぇ。自分は優しいご主人に媚び売って、お友達はもう知らねぇってか?」


 厭らしい笑みでさらに深く口を歪ませ、男はしろを嬲る。

 思わずトールから借りたマントの裾を握りしめたしろの肩に、手が置かれた。

 その温かさと、男を見据える満月色の双眸に力と憤りが抜ける。

 

 「身請け金は、幾らだ」

 「お坊ちゃんには買えねぇ額だよ!」

 「とりあえずの、頭金だ」

 

 しろの肩から、トールの手は肩にかけていた鞄へと移る。無造作に突っ込み、引き抜いた手には、腕輪が握られていた。

 魔導燈の光でも十分わかる黄金の輝き。装飾などは少ないが、別の色にも輝くのは、宝石がいくつも埋め込まれているからだ。

 赤に緑に青に紫…虹のような煌めきに、男の顔からニヤニヤ笑いが消える。


 「売れば、金貨二百程度にはなるだろう。不足か?」


 奴隷…それもまだ、何の教育も調教も受けていない奴隷を買うのに、金貨十枚もいらない。大都一の売れっ子芸妓であっても、金貨二百枚あれば確実に身請けできる。


 トールは無造作に、腕輪を男に放った。

 慌てて受け止め、食い入るように男は腕輪を見分する。


 「…さて、これで退く程の頭と目があるか」

 

 その様子を見ながら、ぼそりとトールが呟いた。

 金貨二百枚の価値がある腕輪を無造作に放り投げられるような人間は、大都でも数が限られている。そんな相手を敵に回すことなく立ち回れるか、それを見ているのだろう。


 初対面の、おそらくは同年代相手だが、いつもの人見知りは発動していない。

 そういえば、あれは「気を遣わなくてはならない相手」にしか出ないのだと、ウー老師が言っていたな、と、しろは思い出していた。


 敵さん相手にもあんな緊張してたら、大変なんじゃねぇすか、と言うしろの問いに、胡散臭い一太子の側近はニヤリと片頬を上げて答えたのだ。

 「敵相手には気を遣う必要がないから、問題ない」と。


 つまり、このクソ野郎は、トールからして既に「敵」なのだ。

 それでも立ち回る目と頭があったらどうするのか。聞いてみたいが、今問うわけにもいかず、しろは黙ってトールから男へと視線を移す。


 「…よほど良いおうちのお坊ちゃんに取り入ったみてえだなあ?おいおい、坊ちゃん、お父様の宝箱から無断で借りてきていいもんじゃないぜ?これはよお」

 「別に父上からお借りしたわけではない」

 「まあいいさあ。なあ、お前らさ。俺がコレで恐れ入って引き下がる…そお、思ってんだろお?」


 腕輪から顔を上げた男の顔に浮かぶ表情を、何と呼べばいいのか。

 ぎらぎらと欲望に塗れ、それでいて卑屈で怒っている、そんな顔。


 「残念だったな。俺はヨアジ氏族ヒチアジ家トスロの甥だ!そのお坊ちゃんが良いところの若様でもな、ヒチアジ家を敵にゃ回せねえ。そうだろお?」


 トールの双眸が、僅かに細められる。

 だが。

 首巻に半ば隠れた口許は、確かに、笑みを形作っていた。


 「ヒチアジ家…?」

 「アスラン四氏族のひとつ、ヨアジ氏族三家のうちひとつだ。ああやって無駄に威張り散らすだけの権力はある」

 「ヨアジの名を聞いてずいぶん余裕だなあ?ええ、若様よ。アンタは何処のもんだ?」

 「ヤルクトだ」


 トールの短い返答に、男の顔の複雑な表情に、愉悦と言う泥が混ぜられた。

 歯をむき出し、目を見開く。


 「おーおーおー!ヤルクトの若様でございましたかあ!それじゃあヨアジの名にビビらねよな!王の氏族のくせに、ヨアジ氏族の半分も金がねえ、誇り高きヤルクトの同胞かよお!なんせ、今でも羊飼って牛を追って、草原に暮らしてる誇り高きヤルクト氏族!」


 しろには、アスランの勢力図と言うものはわからない。

 しかし、この男の属するヨアジ氏族と言うのは「うまくやっている」氏族で、ヤルクト氏族に対してどうにも劣等感があるようだ。

 

 「ヨアジの同胞は、半分も馬に乗れぬらしいな。気高き血も、銭の重さで地に落ちたか」

 「俺はよお、ヤルクトの女を何人も商ったぜえ?可哀そうになあ。金がねぇから、家族が病になろうと、大怪我しようと、治せねぇんだと!」

 「つまらぬ嘘はやめておくことだ。ヤルクトの血を引くものならば、家族を売るくらいならば自刃して果てる。

 そもそも、お前などに身を売る前に、王家に申し出れば援助が受けられるゆえ」


 男の吊り上がった口角が、一気に下がった。

 その顔からして、トールの言っていることの方が正しいとしろは判断する。第一、トールはその援助する王家のものなのだから。

 そしてもうひとつ。

 クソ野郎は、まだトールが一太子だとは思っていない。こんな通じないはったりで揺さぶろうとしてくるのが、その証拠だ。


 「…口の減らねぇ若様だ」

 「ヤルクトの誇りを穢すような言葉、捨ておくわけにはいかぬ。そして、お前の商いの話だ。しろの尋ね人、今すぐ連れてくるのか来ないのか、返答は?」

 「まあ、な。身請け金としちゃ、十分だ。それは認めてやるよ。だがなあ」


 再び、男の口の端が頬を伴って吊り上がる。

 故郷のシラミネの祭りで演じられる劇。そこで人を襲う魔猿役が被る面に、男の表情はそっくりだった。


 「依頼はよお。もう受けちまってんの。だからな、今更デキマセンなんて言えねぇのよ。面子ってもんがあるからよ」

 「…ほう」

 「まあ、つってもな。俺もヤルクトの若様とここで喧嘩する気はねぇ。だがさ、金積まれたからっつって、はいどうぞって渡してよ、端から俺の負けってわけにもいかねぇ。これからの商売に差し支えるからよお」

 

 それこそ、トールとしろにとって知ったことではない。

 しかし、あの人がもしかしたらこの男の掌中にいる。その可能性がなくならない限り、「ならいい」と帰ることはできない。

 お互い退けない条件がある。それがわかっているからこそ、男は何か「取引」を持ちかけようとしている。


 「回りくどいのはいい。そちらの望みは何だ?」

 「俺の面子をさ、立たせるために協力してほしいわけよ」

 「…協力?」

 「そおさ!なあ、若様。あんた、闘技場に行ったことあるかい?」


 闘技場。

 それは国によっては禁止されている娯楽だ。

 戦うさまを観客は眺め、その勝敗に金を掛ける。


 大都にも大小五つの闘技場があり、毎日どこかで試合が開催されている。そして、他国のそれと異なり、アスランの闘技場で戦うのは奴隷ではない。職業闘士だ。

 殺せば問答無用で失格となり、武器には綿の入った覆いがつけられ、厳格な規則もある。

 人気のある闘士は専用の楽団や踊り子を引き連れて入場し、自身も歌って踊り、衣裳も実に凝ったものだ。


 「ぬるいよなあ。闘技場ってのはよ、もっと命のやり取りするところだろ?目の肥えた観客が見てぇのは、試合じゃねぇ。殺し合いだ」

 「自分たちはそこからもっとも離れた場所にいるというのにか」

 「そおさ。俺たち高貴な人間はな、虫けらみてぇな平民共と違う。だからよお、目も肥えれば娯楽に飢えもするってもんよ」


 それは、男だけの主張ではない。

 事実、そう言った連中が愉しむ為の『闘技場』は存在し、摘発された時にはあまりの凄惨さに、戦場に慣れた騎士でさえ衝撃を受けるほどだ。


 「俺はさ、そう言った目の肥えた方々のために、本物の闘技ってやつを催している」


 そしてこの男も、そうした『闘技場』の持ち主らしい。


 「なあ、若様よ。アンタがそこの試合に出て、観客の皆様方を楽しませてくれたらよう。俺も面子が立つってもんだ。なんせ、誇り高きヤルクトの戦士の出陣だ。それだけで盛り上がること間違いなしってもんよ」


 しろは弾かれるようにトールを見た。

 当然、この男の言う「試合」は、殺し合いだろう。アスランではそもそも、私営の闘技場自体禁じられている。見つかれば、関係者一同縛り首だ。

 それほどの罪を告白したようなものなのだから、絶対に生かして返すつもりはない。

 ましてトールは「良家の若様」だと男は思いこんでいる。実際、

 とんでもなく良家の若様ではあるが、家族親族を通じて訴えられれば、如何に男の家が名家であろうと無傷ではすむまい。

 

 「乗っちゃ駄目っすよ!どんな罠があるか…」


 おそらく、しろ一人でやって来て依頼を断れば、しろがその闘技場に行かされたのだろう。いや、「依頼を受ける」と言っても同じ道を辿った可能性が高い。

 どう考えても失敗する依頼だ。そして、暗殺に失敗した暗殺者はどう扱われるか。

 依頼人を吐くまで、死ぬことすら許されない拷問にかけられるのは当然だ。

 そこで男の名前を出さないほど、しろが男に恩義も何も感じていないどころか、憎んでいることを男は知っている。


 最初から、男はしろを始末するつもりだった。最後まで、自分のいいように利用して。

 だが、それよりも男の気に障る存在を、思うさま弄ぶ気なのだ。


 「案ずるな、と言ったぞ」

 「けど…!」

 「ご大層な綽名の数々、俺が名乗ったわけではないと言っただろう。そう言われる程度には強いのだ。俺は」 


 しろに向ける眼差しは、闇夜を照らし迷い人を導く月のようで。

 しかし、男へと向けられた瞬間、それは冷え切って闇を貫く、夜の支配者へと変わる。


 「よかろう。だがその間、しろに危害を加えることはないな?」

 「一緒に逃げられちゃかなわねぇからよ、ここに置いとくけどな」

 「わかった。我がヤルクト氏族が信義を重んじ、約を違えることを何よりも嫌う事、ヨアジの末席におるものならば心得ておろうな?」

 「おお、怖え!へえへえ若様。わかっておりますよお」


 男の笑いに追従して、用心棒たちも下卑た声をあげる。


 「条件は簡単だ。一試合でいいぜえ。それに勝てば、その野良猫のお友達を売ってやる。さ、勇敢な若様を戦場へとご案内してさしあげな!」

 「へい。こっちだ。足が震えて歩けねぇなら、おぶってってやるぜ?」

 「漏らしちまったなら、替えの服くらい用意してやるしよ」

 「いずれも不要だ。しろ」


 何の気負いも恐怖も、トールの顔にも、動作にも見当たらない。

 普段と同じように肩掛け鞄を降ろし、しろに差し出す。


 「持っていてくれ。そんなに重たくはないが、中に少々菓子が入っている。腹が減ったら食べても良いぞ」

 「菓子って…」

 「…そんな顔をするな。俺に悪いと思う必要はない。そのだな…ううむ、実は、俺はお前に黙っていることもあるし、利用していることもある」

 「そんなん…どうせ大したことじゃねぇっしょ。もし、アンタがこれで死んだら…俺は…」

 「死なん。と言うか、怪我ひとつ負う事もない。こんなところで死んだら、俺が今まで屠ってきた連中の立つ瀬がないしな」


 あまりにもあっさりと言われ、しろはもう、笑うしかなかった。

 そう。信じるしかないのだ。信じなくてどうするのだ。

 他のアスラン人と同じように、信じればいい。


 『アスランの雷神』一太子トールの、無類の強さを。


 「お別れは終わったか?まあ安心しろよ。すぐ会えるって」

 「そうそう」


 用心棒たちが下卑た笑みを崩さないまま、トールの腕をとろうとする。

 それを自然な動作で避け、トールは踵を返した。


 「しろの身に危害は加えぬ。その約、決して違えるなよ?」

 

 顔半分だけ振り向き、言い残した言葉に、男は答えなかった。代わりに仰け反るほど笑い、それが収まった時には、いっそ邪悪と言っていい表情を顔に張り付かせていた。


 「ヤルクト氏族ってのはよ、裏切りをとことん嫌うんだと。大祖サマが裏切られて死んでっからなあ。けどよ、二百年も根に持つってよお、執念深い連中だよなあ。まったくよお」

 「…つまり、アンタは約束を守らねぇ、と」

 「おいおい、見縊るなよ?そんなこたあねぇよ。ただ、俺はこう命じるだけさあ。『動くな』」


 その濁った声がしろの鼓膜を揺らした瞬間。

 全身の力が抜け、その場にしろは崩れ落ちた。


 「…!?」

 「お前につけといた腕輪なあ。ピリっと来る度に、毒がまわんだよ。つっても、魔力だがな」

 「…!」

 「毒が回りきると、つけられた奴は、つけた人間に逆らえなくなる。ま、残念ながら今みてえな、動くな、とかその程度だけどな。けど、この通り効果は絶大だ」


 ニタニタと嗤いながら、残った用心棒がしろを荷物のように持ち上げる。そして、床に残されたままの肩掛け鞄を拾い上げ、男へと差し出した。


 「…!」


 返せ!と叫ぼうとしたが声は出ず、息すらほんのわずか吐き出すのがやっとだ。

 ただ憤怒の形相を浮かべるしかできないしろの前で、男は鞄をあさり、目を欲望にぎらつかせる。


 「おいおい、あの若様!ずいぶんと持ってきたな!」

 

 鞄から出てきた男の手には、金と珊瑚で作られた首飾りや、水晶や翡翠を削りだした簪などが握られていた。

 無造作い鞄に突っ込むなと言いたくなるような宝物の数々に、男は再び狂ったように笑う。


 「みんなホンモノだが、えらく古くせえ。先祖からのお宝持ち出してきたみてえだな!」

 「こんなの、買いたがる奴がいますかね?」

 「古ぃもんありがたがる年寄りはいるからよ!さあ、俺たちも移動して、あの若様の戦いをじっくり見させて貰おうぜえ」


 男を先頭に、しろを担いだ用心棒が続く。半裸の女たちはそのまま取り残されるようだ。

 移動はすぐに終わった。廊下に出ることもなく、続きの間へと男たちは入って行く。


 その部屋には、用心棒たちより腕が立つと一目でわかる連中が十人。男を見ると立ち上がり、一礼する。

 彼らに鷹揚に手を振ると、うち一人が奥にある扉を恭しく開けた。途端に、がやがやと人の話す声が漏れ出る。


 「やあ、皆さんお集りで」


 大股で扉をくぐる男に続き、しろも用心棒に担がれたままその部屋へと連れ込まれた。

 広い部屋の大きな特徴は、壁一面が硝子張りになっていることだろう。

 その先を見下ろすように豪奢な椅子が置かれ、全部で八脚の椅子は全て埋まっていた。


 「おや、その…」


 一人の、いかにも値段がはりそうな衣服に身を包んだ男が、しろを見つけて眉を顰める。

 そろそろ、しろくらいの孫がいてもよさそうな年だが、間違いなくろくでもない月日を重ねてきたのだろう。ここにいるのだから。


 「それを今からお報せいたしまあす!なんと今夜の闘士は…ヤルクト氏族の戦士!」


 男の芝居がかった声に、八人の客たちはどよめいた。

 全員男で、枯れ枝のような老人から、落ち着きなく汗を拭い続ける三十前後と見えるものまで、年齢は様々だ。共通しているのは、いかにも上等な身形と滲み出る高慢さ。


 「ヤルクト氏族!あのお高くとまった連中を、何で買ったんです?」

 「それが、この野良猫でしてね。どうもこれに絆されたみてぇで。若者の友情は美しいですなあ!」


 男の言葉に、笑いが起きる。それは嘲笑と呼ばれる種類のもので、しろは反吐を吐きかけてやりたかった。

 

 「この野良猫、お友達が故郷の山奥から大都に買われてきたってんで、探して探して、ようやく俺に辿り着きましてね」

 「ふむふむ」

 「が、身請け金がねぇ。それで、俺の雑用をやらせてたんですが…さるお坊ちゃんにいつの間にやら媚び売ってやがりまして。で、そのお坊ちゃんが身請けさせろと言ってきた」

 

 しろの動かない身体を、用心棒は窓際に置いた。透明度の高い硝子は向こう側の光景を隠すことなく見せてくる。


 向こう側は、吹き抜けの大広間になっているようだ。

 大きさから言って、この「黒涙屋敷」の一階半分ほどは、この広間が占めているらしい。

 石畳に覆われた床には、何故か中央に台座だけがあり、そこに二階から見てもわかるほど大きな斧が乗せられている。

 いや、それだけではなかった。その台座の先に、二体の彫像が佇んでいる。かなりの大きさだ。成人男性の倍くらいは縦にも横にもあるだろう。


 つまり、この広間が『闘技場』か。あの彫像と斧は、その雰囲気を盛り上げるためのものなのか…と、思えば、ひどく不吉なものに思えてくる。


 「それでね、身請けの話がしたかったら試合に勝て、とこうね」

 「おやおや。可哀想に。なら、その野良猫は恩人が死ぬところを見せられるわけか」

 「ええ。そんなのもたまには、一興でしょ?」

 「酷い話だね」


 そう言いながらも、老人は嬉しそうにしろを見ている。

 顔も動かせないしろからは直接見えないが、硝子窓に映る客たちの顔は、どれも似たり寄ったりだ。


 「で、そのお友達は」

 「そうそう、教えといてやらなきゃなあ。お前のお友達な、俺が仕入れた時には、頭だけだったんだよ。しょうがねぇよなあ。角生えた頭が注文だったんだからよ」

 「…!」


 しろを見下ろす視線を感じる。

 きっと、その視線の元で、連中はしろの嘆きを、慟哭を望んでいるだろう。


 「ま、そういうこった。なあ、お友達も恩人も助けられねぇの、どんな気持ちだよ?口は聞いていいから、教えてくれよ」

 「…ほんと、自分が許せねぇ…」

 「まあ、そう気落ちすんなよ。すぐ、その罪償えるからさ。第二試合にはお前が出るんだから」

 「…もっと、早く突き止めていればよかった」


 男は、僅かに訝しんでいるようだ。

 だが、そんなこと…しろの知ったことではない。


 あの人には。

 ヤクモ様には、角が生えていなかった。


 つまり、男が頭だけ仕入れたというシラミネ人は、ヤクモ様では…ない。


 なのに、その真実にたどり着けなかったせいで。

 トールが、もし、もしも。


 「お、ほれ、若様はいってきたぜえ」


 しろの頭を鷲掴み、硝子に押し付ける。

 

 「よおっく、見ろよ?野良猫の為に先祖からのお宝を出してくるような間抜けがよ、どうやって死ぬか、な」


 息が詰まるほど押し付ける力が、急に消える。

 そのまま硝子にへばりつくような態勢で、しろはトールの姿を探した。


 「さあ、掛け金をこちらに!本日の制限時間は、蝋燭六本!何本まで持つか、はたまた全部消えるまで逃げ切るか!」

 「わしは…そうさな、ヤルクトの戦士だ。三本はもつと賭けよう!」

 「こっちは二本だ」

 「こないだのように、座り込んで泣きわめくだけ、というのは興醒めだから辞めてくれよ?」


 (負けねぇっすよね。アンタ、完全無欠の一太子様っすもんね)


 声が再び封じられなければ、しろはありったけの罵詈雑言を喚き散らしていただろう。

 それができないのであれば。

 

 (全部、ぜーんぶぶっ潰して、アンタが勝つ。それに俺は…全てを賭けます)


 男たちの耳障りな声に応えるように。

 闘技場の一部しかついていなかった灯りが点る。


 その白々しい光に照らされて。

 トールが無造作に、台座へと進んでいった。

 

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